賢太郎の物書き修行

IT系と政治関連の事件を中心にコラム風に書いています。趣味は舞台、だけど最近は殆ど観てないな~。

木馬は回る

2011-08-30 19:39:01 | モブログ
5年に及ぶ小泉政権の跡を襲った自民・民主両党の政権は、ここまで例外なく一年前後の短期政権に終わった。海外では“回転木馬”と揶揄されているそうだ。池田信夫氏が言うように、政治家がこの程度でも日本が大過なく過ごせるのは国民の優秀さと官僚の優秀さによるものだろう。これほどの長期の不況と政治的混乱が続けばイギリスの様に暴動が起きてもおかしくない。

しかし、日本では暴動の代わりに首相の首のすげ替えが行われる。「金枝篇」で言う“王殺し”なのかもしれない。古代に天変地異が続くと“王の責任”として王は犠牲に捧げられ新しい王が誕生した。今の不況も避け得ない天変地異と思われているのかもしれない。

不況が続く限り首相の首はすげ替えられる。斯くして木馬は回転し続けるだろう。木馬の回転を止めた小泉政権期は今のところ最後の経済成長をもたらした。野田政権には小泉政権の功績を振り返ることからはじめて欲しいものだ。

小沢は弱い

2011-08-30 16:38:26 | 政治

民主党の代表選挙は野田吉彦が漁夫の利を得る格好となりました。今度の民主党代表戦も「脱小沢」とかいうのが主軸で議論されていたが、メディアはなぜ小沢一郎を未だに評価するのでしょうか?Twitterで「というか、小沢一郎って政争に弱いと思う。」とつぶやいてみたが、みんな気づいているのでしょうか?

以前にもブログに投稿したことがあって(「民主党代表選挙」)、その中で

小沢一郎が選挙に強いというのは“都市伝説”の類いです。自民党幹事長だった時に衆院選を勝利に導いたのは彼の力というよりは当時師事していた金丸氏の力によるものでした。自民党を離党してからも、先の参院選に勝つまでは負けっぱなし。

更に、党内抗争にはからっきしなのが小沢一郎です。自民党を離党したのも竹下派の主導権争いに負けた結果で、離党後も民主党に落ち着くまでは度々解党に至るほど、内部抗争に弱いのです。

と書いたのですが、結局はこの通りの展開になりました。これほど負け続ける人に、何故メディアは「剛腕」とか「闇将軍」といった形容をするのでしょうか?これはメディアの方が小沢一郎というキャラクターを必要としているからなのではないでしょうか。即ち、政界を分かりやすく図式化するのに「強い悪役」の存在は絵解きとしては楽だということです。

今回のことで小沢一郎の影響力の衰えを解説する人もいますが、小沢一郎の影響力のピークはもしかしたら20年前に終わっていたのかも知れません。それが時を同じくして政界の悪役である田中角栄や金丸信が舞台を去ったために小沢一郎が悪役として時にはダーティーヒーローとしてもてはやされてきたのではないかと思います。


五山送り火

2011-08-16 19:00:39 | モブログ
まさに飛び火。

五山送り火で陸前高田の松を使おうというアイデアは良かったと思う。問題はあまりにも“放射能”過敏症が蔓延していたこと。藤沢氏が指摘する様に、今回検出された放射能は自然放射線レベルも出す能力がない。検出された放射性物質がどの程度のレベルなのかを京都市当局も保存会も、おそらく京都大学にいる優秀な専門家も、誰も責任を果たそうとしなかった。

ただ、「観光都市」京都としては、イメージを守るためには仕方なかったかもしれない。その内、ガムも禁止されるのだろう。「完璧な」安全とか清潔とか、その維持を貫くなら“穢れ”の松を受け入れなかったのも頷ける。京都は「平安京」のレベルに達したのかもしれない。

「羅生門」。門外に打ち捨てた貧困、犯罪、災害はなかったものに出来る。現実の問題に耳を塞ぎ、平和を祝ぐ詩を捻り、自己一身の平安だけを守った貴族たち。京都だけではない。我々は1000年前から何も変わっていない。

今更ながら、高岡蒼甫のフジテレビ批判について

2011-08-08 20:39:17 | 事件

旧聞に属することだが、高岡蒼甫のフジテレビ批判について考えたことを少し書いておく。

最初に断っておくと、僕は高岡氏もフジテレビも擁護も批判もする気は無い。なので、エキサイトする様な話にはならないので悪しからず。

まず、高岡氏の「事実に基づく真相」を読むと彼がこういう行為に至った経緯が良く分かる。芸能人である彼に対する遠慮会釈ない取材や記事。ドラマや舞台の現場での鬱屈。それらのストレスが彼を追い詰めていた。

精神的には浮沈はあった様だが、3.11はその精神に新たな衝撃を与えた。それらの報道の中で、彼はフジの報道姿勢が原発擁護に映ったのだろう。そこに彼の精神世界で一つの科学反応が起きたのだと思う。

ストレスによって自殺まで考えたという事は、基本的には彼は現場での衝突も、報道される内容についても自分を責めていたのだと思う。「自分が悪い」とまで思っていたのかもしれない。それがフジの報道姿勢が「正義にもとる」と思った時点で「自分は悪くない」と思うに至ったのだろう。そこにかつて自分が批判された韓国での出来事もあいまって、批判の口火が「韓流推し」になったのかもしれない。

高岡氏は非常に繊細で、多分頭が良いのだと思う。色々なことに思いが巡るのだろう。それが悩みが悩みを呼び、終わることのないストレスに苛まれているように思う。そんな彼を抱える事務所はもっと彼のケアに気を使うべきだったのではないだろうか。あっさりと高岡氏が事務所を辞めたことから考えると、事務所との信頼関係が希薄だったのかもしれない。

今後のことを考えるに、高岡氏にはもっと精神的な支えが必要だ。彼の繊細な頭の回転が、より創造的な未来に向かうような支えが必要ではないかと思う。


ある意味「補完関係」

2011-08-01 20:46:49 | モブログ
「そして、自立へ」という投稿をしたというお知らせに以下の様なコメントをもらった。

「しかし 地方議員 役人と中央の議員 役人をくらべて地方が勝るとは思えないのです。自立あるいは独立したところで話は変らないと思います。」

国会議員や国家公務員の方が地方自治体の議員や地方公務員より優秀という考えがあるようです。たしかに、20世紀なら通用したでしょう。戦後20~30年くらいの「答えが分かりきっている時代」ならば、先行事例の読解力や事務処理能力が必要だからです。しかし、20世紀の最後の四半世紀は様々なパラダイムが崩壊し、「答えのない時代」に突入したのです。

国会議員や国家公務員になるような頭の良さは頼りになりません。それがこの四半世紀の日本の停滞に現れています。つまり国が駄目で地方が良いのではなく、どっちも駄目なのです。それを打破するためには「統治のパラダイム」を変えてみてはどうかというのが僕の提案です。

モノの役に立たなくなった国会議員と国家公務員はなんで淘汰されないのでしょう。と考えてみたところで、「両者は互いに依存しあうことで淘汰を免れている」のだと気がつきました。国会議員には政策アイデアと政策立案能力がありません。国家公務員にはアイデアを実現する権威を持ちません。しかし、国家公務員のアイデアを彼らが法案にして、国会議員が国会を通せば、互いの能力を利用できます。

しかし、本来的には国会議員は自身や自身のスタッフで法案を纏めあげるべきです。国家公務員は成立した法案の実現にむけたオペレーションを作りあげるべきです。政策立案にお金をかけられない日本では、なかなか実現しないかもしれません。それでも、このしょうもない補完関係を解消して欲しいものです。