賢太郎の物書き修行

IT系と政治関連の事件を中心にコラム風に書いています。趣味は舞台、だけど最近は殆ど観てないな~。

田中実

2011-04-29 15:09:55 | モブログ
実直そうな字面ではないか。

俳優の仁科克基が田中実の自殺についてブログに書いている。ウルトラマンメビウスでの一年間の共演以前に、子供の頃に遊んでもらった記憶があると。ドラマ「刑事貴族」の時だろう。田中実の上司役が松方弘樹だった。

NHKの連続ドラマ小説「凛々と」で本格デビューして、その後刑事貴族で認められながら、あまり出演作には恵まれなかった。連続ドラマのレギュラー出演はウルトラマンメビウスが最後だったかもしれない。実直なイメージからなかなか役がつかなかったのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします。

優先順位に気を配る人は少ない

2011-04-28 22:41:35 | モブログ
みんなの党の山内議員がドラッカーの次の言葉を紹介していた。

「リーダーが先頭に立って事にあたり、人々を引っ張っていく姿勢など、まったくもって必要ない。有能な経営者ほど決断が少ない。ただ、優先順位だけを決めている」

優先順位に気を配る人は少ない。リーダーに限らず優先順位をつけることは重要だ。政府は今回の震災以降にたくさんの会議を設置している。これも優先順位が決まっていないことに原因がある。優先順位を菅首相が決めていれば会議は一つで良い。

「緊急災害対策本部」

この会議の中で、優先順位の高い順に一つ一つ片付けて行けば良い。

ホリエモンの革命大冒険

2011-04-28 21:41:32 | モブログ
城繁幸さんが次の様に呟いていた。

「joshigeyuki 革命なんて一言も言ってないホリエモンが捕まって、革命を掲げている日本共産党がピンピンしてるのは実に不思議だ。たぶん、前者は意図せずしてそこに踏み込んでしまい、後者はまるっきり見当違いな道を進んでいるんだろう。 」

確かに。はからずも革命児となってしまったホリエモンに比べると革命を明言している共産党には優しいものだ。何がホリエモンと共産党を分けたのであろう。

ホリエモンが立ち入った革命は“大貧民の革命”だったのだと思う。強い手札がある瞬間を境に弱くなるという革命。情報技術にせよ、市場取引にせよ、ホリエモンがしてみせた/しようとしたものは、大企業やメディアが持っている手札の価値をゼロにするような話だった。これが検察をして社会秩序を乱すと認識された理由ではなかろうか。

一方、共産党が目指すのは“資本家”や大企業が持っている手札を奪って自分のものにする、或いは手札を持たない人に分け与えるというものだ。この場合、手札の所有者が代わっても手札を切るゲームの構造自体は変わらない。つまり社会秩序は維持される。仮に共産党の革命が成功しても検察機構は残る。

しかし、ホリエモンは検察の構造自体を変えうる提案をしただろう。例えば、ある程度の摘発がシステムで自動的に行われるといった様に。自らの存在を脅かされた時に人が激発する様に、検察も危機を感じてホリエモンに襲いかかったのではないだろうか。

ホリエモンが摘発されたり、フジテレビ買収を断念させられたことで一番得をしたのはメディアである。テレビ局は実質的に買収することが出来なくなった。拒否権を行使できるオーナーがいないということは、テレビ局は社員の共同運営組織になるということだ。社員が解雇もされず一定の発言権を保障されるというのは共産党的な共同運営組織に近い。

ソ連崩壊が示したのはこの様な官僚組織が如何に堕落し、腐敗するのかということだ。ホリエモンを寄って集って潰したメディアが崩壊していくことになるのではないだろうか。

分析する心

2011-04-25 20:23:42 | モブログ
“分析”という言葉の成り立ちはモノを刀で切り分ける意味の“分”と木を斧で斬り分ける意味の“析”であり、いずれも物事を分けるということだ。“わける”の二乗だから物凄く分けるということになる。しかし、分析をする時に、この分けることが足りないことが多い。

「売上げの分析をする」という時に、売上げ総額の推移だけを追っている場合がある。“売上分析”は本来ならば、商品分類別/顧客特性別が必須だ。商品分類も外形的な分類だけでも「形態/サービス内容」「シチュエーション」「価格」とあり、それぞれ三種類なら27分類になる。顧客も「年齢/創業」「年収/年商」「家族構成/事業構成」となり同じ様に27分類くらいはすぐに出来る。その組み合わせは729分類となるから膨大な分析作業が残される。実際には分析の前に簡単な感度シミュレーションをして、重要な分析に絞るが、「何故その分析を選んだのか」の説得力は同じ分析内容でも、網羅したなかから選んだのか適当に決めたのかで全然違う。

分析は、結局は、データによって他人に理解させることが目的だから、他人の反証を先回りして抑えないといけない。説明時点では、得てして用意したデータのほとんどが使わないものだが、その準備がないものは余り説得力を持たないものだ。だから、分析するには、一見して無駄になりそうなことを“背景”として愚直に実行する心が必要だと思う。

極私的な危機管理計画

2011-04-22 23:04:54 | モブログ
震災から一ヶ月半になろうとしている。今回の様な震災も含めた極私的な危機管理計画について書いておく。

地震や大型台風などの避けえぬ災害について、まずはその発生タイミングによって何をするかを予め決めている。今回の震災の様に、平日の日中発生した場合、無理に帰宅することはしない。今回も最初の三十分で帰宅しないことに決めた。そもそも、ただでさえ電車で二時間もかかるのだからダイヤが乱れたら大人しくする方が賢い。

同僚の中には僕よりも遠いのに車で帰ろうと言い出す者もいたが、諦めさせた。次にこの危機にあたって“約束”は全て無しにした。あらゆる予定はご破算で改めてやり直すことにした。同僚の中には土曜日に家の工事があるからどうしても帰りたいという者もいたが、そんな約束はこの危機にあたって真っ先に破るべきだ。案の定、工事業者は来なかった。

家族の安否確認は一度だけにする。何度も確認したくなるが、一度確認がとれたら家族を信用して自分の身を一番に行動する。しかし、災害対応の渦中になるべく身を置く。この体験は貴重だ。

特に気を使ったのは、気を楽にすること。“ケ・セラセラ”なのだ。

リズムを作る

2011-04-22 21:09:50 | モブログ
四月も下旬になって、新しいポジションでのミッションを自分なりに形成出来てきた。当初よりも低い位置から始めることになったが、それは仕方がない。

基本的には年商数十億円の事業所の番頭というところだが、番頭が目立つ会社に将来はない。だから、草々にお役ご免をしてもらうべく、“自動操縦”を目指すことにした。毎朝、意識しなくても顔を洗い歯を磨き、着替えをして電車に乗って通勤する様に、習慣を身につけることが大事だ。一日が24時間である様に、7日を一つの単位として経営のリズムを作っていく。

曜日ごとに必ずやる会議や資料を明示し、それに向かってそれぞれが作業するリズムを生み出す。思いつきの様に資料を要求し、報告を求めるのは良くない。調子の悪い事業所ほど思いつきの会議が多いか、逆に全く会議が無かったりする。“現場重視”の下に会議を軽視する向きもあるが、会議という“公式コミュニケーション”が下手な組織は非公式なコミュニケーションも下手である。

リズムを刻むマーチが経営には必要だろう。

地震で露呈したのは“都市の脆弱さ”ではなく“日本の首都圏生活者の異常な行動範囲の広さ”だった

2011-04-19 19:35:15 | モブログ
あの震災で僕は東京に程近い千葉県市川市の会社に閉じ込められた。建物は液状化した道路に囲まれ、近隣の電車は~特に京葉線は数日間~止まってしまった。僕の自宅は遠く離れた横浜にあり、とても歩ける距離ではなかった。後からおびただしい人数が東京から千葉・埼玉・茨城・神奈川に歩いて帰ったと聞いた。

“都市の脆弱さ”と言われたが、仮に彼らが歩いて1~2時間の場所に住んでいたらどうだっただろう。山手線の内側にいくつもの高層住宅があり、都内で働く人が住んでいれば、停電の不便はあったかもしれないが、帰れないことはなかっただろう。一晩歩いてやっと辿り着けるような場所に毎日通っていることが異常なのだ。

震災の後に自宅待機などしていた人も多い。歩いても自転車でも通えないところで働くことが、生産性を脅かしているのだと考えた方が良い。

僕も含めて…。

秩序ある被災者も原発の建設もどちらも日本人のなす業

2011-04-15 16:56:01 | 政治

池田信夫氏の「 原発事故は「文明災」か」で紹介されていた梅原猛氏の発言を見ていて以下の様なことを思った。

”道徳心”がある日本人-秩序ある被災者-も原発開発を推し進めた政治家も同じ日本人なのだからその心性に大きな違いはないだろうというものです。日本人に根付いた固着したコミュニティは、被災現場においても被災者の行動に規範をもたらした。コミュニティを大事にするムラ理論は「通産省-原子力研究機関(大学)-電力会社-原子炉メーカー」のコミュニティを大事にするために、「絶対安全を保証しろ」と迫る反原発派に「絶対大丈夫」と言ってしまい、必要な防護策を講じることを妨げることとなった。”わが町の秩序を守る”というのと”わが業界の秩序を守る”というのはどちらも同じことで、原発がドライに評価されず危険が野放しにされ危機に陥ったことと、被災者に現れる”道徳心”とは同根なのである。


「捨てる勇気」は何故持てないか

2011-04-12 20:51:11 | モブログ
池田信夫氏が呟き反響をよんだ件。

「捨てる勇気の時代」という記事で岸田航氏が指摘している「共感」との関係は面白い解釈だ。共感するから悲惨な震災の中でも秩序ある日本人でいられるのかもしれない。しかし、「目の前のことへの強い共感」は一方で残酷な無視も生む。「共感社会」の強力な連帯感は集団の中に強い「同調圧力」を生み、そのストレスは村八分という伝統的ないじめシステムになった。同調圧力は今回の自粛ムードを拡げたし、伝統的なメディア(テレビ・新聞・ラジオ)も新しいメディア(インターネット)も一様に自粛一色になった。

目の前の「犬」に感情移入して、人間の捜索からリソースを割くことや自治体の資源をペット保護に割くことは「八百万の神が坐す」日本では不思議ではなかろう。瓦礫の下から自衛隊員が写真を掘り起こすことも日本人なら微笑ましいエピソードだが、違う見方があるだろう。思うに、神坐す日本の民は今回の災害を“あるがまま”に受け入れ様としているのだ。ある種の諦観であろう。

この境地は震災の混乱から秩序を復旧する手助けになるだろうが、反省に繋がらない。先に投稿したように、津波被害が繰り返された土地に町を作ったことが被害を大きくしたが、それは津波を“避け得ざるもの”と諦めた点にある。過去に津波に襲われた地域が居住不適地として規制されていたならどれだけ助かっただろうか。

今回の震災は日本人の知らない日本人を知る契機となるだろう。

石原再選が示すもの

2011-04-12 00:00:25 | モブログ
先に「東京都知事は石原慎太郎が当選するだろう」という記事を投稿した。結果はその通りで、対立候補は大差をつけられた。

先の記事では二つの指摘をした。東京都民は現状維持を求めるということと震災の不安に追い詰められて家父長的な石原を選択するだろうと。震災対応で行動する知事の姿は格好の選挙活動となった。有権者は先の見えない不安の中で、リスクが小さな石原氏を選んだ。

リスクは「何が起きるか予想のつかない程度」の問題だ。石原氏以外の候補者はどんな結果がでるかわからなかった。震災の不安はそれに拍車をかける結果となった。