東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

木村荘八展によせて~兄荘太から解き明かす荘八

2013-03-31 18:50:49 | イベント
 東京ステーションギャラリーにて開催されている木村荘八展によせて、荘八という人について少し考えてみた。私は荘八を始めとする木村家の人々に惹かれるものがあって、色々と資料を読んで追い掛けてきたので、私の思う荘八を書いてみようと思う。

 荘八の自画像。大正3年。


 荘八は日本橋両国広小路にあった、第八いろはという牛肉店で明治26年に生まれた。正確には、日本橋吉川町という、両国橋に近い一角にあった牛鍋を供する店が彼の生家である。
 彼の父親は、木村荘平という、明治の傑物に数えられる人物であった。京都伏見の人で、青果店を営んでいたのだが、戊辰戦争の折に薩摩藩に青果を販売したものの、代金を踏み倒されて店を潰している。官軍が深刻な資金不足であったことで起きたことだった。
 その後、神戸に移って茶の輸出を商うようになったが、これは元々の彼の生家が伏見の茶舗であったことに繋がるのだろうか。そんな彼を東京に呼び寄せたのが、警視庁大警視川路利良であった。薩摩藩士であった川路は、戊辰戦争の折の一件から面識を持つようになっていた。そして、新政府の中で、港区三田にあった官営屠場の経営が上手くいっていないことが悩みになっていた。その経営を任せる人物として、荘平に白羽の矢を立てたのであった。荘平は神戸の商いを整理して、上京してきた。そして、三田の薩摩屋敷の跡に出来ていた官営屠場の経営を、払い下げを受けて始めたのだった。
 明治11年、牛肉の供給元となった荘平だが、その妻が三田の屋敷の一角を使って牛鍋屋を始めることにした。これが、いろは牛肉店の始まりである。そこから先が、荘平を東京中に知らしめる展開となっていく。この牛肉店を荘平は東京中の目抜きへと出店し始めていく。そして、その店ごとの経営を自らの妾に任せるという、何とも凄まじい方針で、いろは牛肉店は東京の町中へと広がっていく。牛肉の供給は自らの手中にあり、店ごとには血族的な繋がりでロイヤリティを担保したとでも言うべきなのか。こうして、いろは牛肉店は東京中に二十軒を超す店を構えるようになった。おそらくは、日本の外食チェーン店の草分けであると言っても良いのではないだろうか。
 荘平は、朱塗りの人力車を三人の車夫に牽かせて、自分の店を毎日巡回し、集金して帳簿を付けるのを日課にしていたという。その姿は、東京の新名物とすら言われたほどだった。
 そんな荘平だけに、子供の数は三十人にも上った。そして、生まれた順番に男の子は荘の字に生まれ順の数字を付けた。荘六、荘八といった具合で、女の子は単純に数字だった。例外はあって、神戸時代に生まれた長女は曙という。女流文学者の草分けとも言える存在だったのだが、夭逝している。また、荘八の兄、荘太は四男だが四の字を嫌って四画の太を付けたといわれている。荘太は荘八と同腹の兄になる。
 荘平は明治39年、67歳にして顎ガンに罹り、亡くなっている。
 長々と彼の出自について画いたのは、少々特殊な彼の生い立ちを知らずには、荘太、荘八という兄弟を理解することが出来ないと思うからである。

 さて、そして問題は荘八の兄、荘太である。私は文筆家としての荘八を入口に知りはじめた。だが、そこにはより文学に親しく生きた兄の荘太のことを抜きにはできない。この特異な父親の元に生まれた同腹の兄弟は、どこか似たところがあり、弟が兄を見つめていたことを感じる。兄の生きる姿を弟はじっと見つめていて何を思ったのか、そこに弟の生きた軌跡が残されているように思える。
 文筆家としての荘八と書いたが、父の荘平については思い出を書き遺している荘八だが、兄の荘太についてはあまり深い話を書いてはいない。画家の道を選ぶ前から、荘八の前には兄の姿がいつもあり、兄の読んでいた最先端の西洋文学にも早くから触れていた荘八であった。画家になると決めた時には、兄の助力で長兄の納得をもらったりしているので、それについては軽く触れるように書いてはいる。だが、それ以上の荘太に対する感情とか、思いのようなことはほぼ書き残してはいない。だが、これはむしろ、余人に対して語るのを憚りたくなるほどに、兄のことを思い、考えていたからではないかという気がする。実際には、それほどに兄の荘太は大きな存在だったのではないだろうか。

 荘八による荘太像。大正5年。


 荘八の兄である荘太は、明治22年生まれで、荘八の四歳上と言うことになる。後にアナーキストの大杉栄と共に甘粕事件で憲兵隊に虐殺される最期を遂げる伊藤野枝との間で、恋愛事件を引き起こしたことで知られている。その辺りの事情は、伊藤野枝サイドから描いた瀬戸内寂聴の著作に出てきたりしている。だが、寂聴さんの嗜好からはかけ離れた荘太という男に対しては、かなり筆が冷たい。荘太は、結局のところ万巻の書を読み、当時世界の最先端であった文学に親しんでいながら、自らの創作を大成することなく、最終的には自らの命を絶ってしまった男である。今風に言うのであれば、元祖厨二病であり、しかも元祖にしてそれを極めるほどに拗らせた生涯を送った男と言えるのかもしれない。

 荘太は、東大へ行ったわけではないのだが、東大出身者の同人誌である新思潮に加わっている。処女作が第一次の新思潮に掲載され、それが縁で小山内薫と知己を得るようになる。その後に第二次新思潮の創刊に参加することになる。そこには、雑誌のスポンサーにという思惑もあったのだが、必ずしもそれだけではなかったように思える。荘太は、当時の文学の最先端の小説など、原書で読んでいた。さらには、後に翻訳も手掛けており、荘太という人の持つ教養が決して並ではなかったことは確かなように思える。谷崎潤一郎が世に出るに当たって、いわばそのスプリングボードになったのが、この第二次新思潮であった。谷崎と荘太の交友というのも、日本橋っ子同士でもあり、親密なものであった様だ。荘太という人間のことは、谷崎も認めていたと言えるだろう。但し、これが文学的な意味合いということではないのだが。
 彼は、自分が荘平の妾の子供であったことにコンプレックスを抱く。小学生の時に、意地の悪い同級生からそう罵られたことに大きな衝撃を受けたと書いている。明治の傑物という名にふさわしかった、巨大な父の影に、彼は押し潰されていたのかもしれない。
 さらには、異母妹との間に恋愛感情が芽生えかけ、そこで苦しんでいく。自分の意志とは離れたところで、自らの結婚が決まっていき、結婚するものの、やがて破局を迎えていく。
 厳しい言い方をすれば、荘太は可哀想な自分を作り出して、その世界に自ら埋没していったという面も持ち合わせている。こういった可哀想な荘太の物語の間に、伊藤野枝に手紙を出して恋愛騒動を引き起こしていく訳でもある。この一件は、今の時代から見ればかなり馬鹿げた話だが、遊び半分から本気になりかけていく愚かしい荘太と、ちやほやされる自分に酔っていく野枝という組み合わせから起きた、偶発的な事件であった。大杉と出会う前の野枝は、その時の夫であった辻潤の子をお腹に宿している最中でもあった。この辺り、荘太も馬鹿だが、野枝も酷いものだと私は思う。野枝が気儘な生き方を貫いたことで、文学的な素材として取り上げられていく一方、荘太がただ馬鹿な男としてしか扱われないのは、憐れな事だと思う。

 また、父の死後、後を継いだ長兄はひたすらに放蕩の日々を送り、一代で築き上げたいろは帝国は脆くも崩壊していく。そんな中で、荘太ももがき苦しみ続けていく。そして、彼の選んだ道は、武者小路実篤の始めた新しい村運動であった。そこに参加するために、彼は東京を捨て九州へと向かう。そして、村に参加して、理想の生活を作り上げることを目指す。だが、ここで彼は内紛に巻き込まれていき、最終的には離脱する道を選ぶことになる。

 そして、関東大震災が起こり、東京は壊滅的な打撃を受ける。荘太は、その頃にであった女性と、彼女の故郷である山形へと避難して行く。その後、荘太は晴耕雨読の生活を目指す道を諦めずに、千葉県の三里塚へと移り住む。当時の三里塚は、千葉の秘境と言われたような不便なところで、開拓で入った人達の住まいが、竪穴式住居のような合掌造りの屋根だけを地面に置いた形の家であったりするほど、貧しく、厳しい環境だった。彼はその地で一男一女の子供たち、そして妻と暮らし始める。特徴的なのは、荘太が理念として晴耕雨読をいくら思っていても、彼が所詮は都会育ちの書生に過ぎず、自ら身体を動かして地を耕していくという能力に欠けていたことだろう。荘太は実践することができず、それをやったのは彼の妻であった。そして、また、この地で彼を理解し、援助し、指導した人物こそが、後に成田空港闘争で日本中にその名を知られることになる戸村一作である。この話は、非常に面白く興味深いのだが、掘り下げていくときりがないので、ここではここまでにしておく。
 この三里塚での暮らしを続けながら、荘太は自らの生涯を顧みて、「魔の宴」という小説を書き上げる。荘太としては、自らの恥ずべき生涯をさらけ出した作品として完成させた。そして、最後までそれを世に出すべきなのか悩み続けた挙げ句に、出版の直前になって首を吊って、自らの命を絶ってしまった。昭和25年のことだ。この作品は、幾つかの荘太の作品の中では最高の出来だと思うし、決してその内容を苦にして死ななければならないようなものではないと、今の世の私は思ったが、彼はそう思わなかった。

 荘太のことを詳しく書いたのは、この兄を見ながら荘八が生きてきたことを感じるからなのだ。荘太を知らなければ、荘八を知ることが出来ない様にも思える。この不器用に生き、そして死んでいった兄の姿を荘八はいつも見ていたに違いない。そして、時には兄にやり方に習い、ある時は反発して、自らの生きる道を定めていったのではないだろうか。

 実際、最初に荘八は兄の蔵書から文学に親しんでいる。兄の周囲には、島崎藤村、小山内薫、谷崎潤一郎といったわが国の文学史に残るような人達の人脈があった。荘八は照れたように書いているが、新聞の懸賞小説に応募して紙面に掲載されたりもしている。恐らくは、兄が谷崎という巨人に出会って、圧倒されていく姿が荘八には見えていたのではないかと思う。

 荘太も荘八も、自らが江戸っ子であるとは一度も書いたことはない。むしろ、父親が京都からやって来たから、江戸っ子なんて言うものではないといった風に書いている。明治の時代の日本橋では、三代続いた江戸っ子というのも珍しくはなかっただろうし、それこそ長谷川時雨のような、骨の髄まで日本橋の気風の中で生まれ育った人もいた。そして、他所から東京へやって来た人達は、東京の町場の空気に触れて、その空気にいち早く馴染んで溶け込んでいくことで、同化していった。
 昔から江戸っ子らしい江戸っ子とはという話で、芝で生まれて神田で育つというのがある。この話などは、江戸の中心の日本橋や神田で生まれるよりも、少し外した芝で生まれて、本場である神田で育つくらいの方が、より江戸の空気を意識して、らしくなろうという意識が働いていくことで、それらしくなるものだという意味合いを含んでいる。
 だから、江戸以来の町場の空気というものが、他所から流入してきた人々によって、受け継がれていったものであると、私は思っている。

 とはいえ、荘太からみても、谷崎という巨人は紛れもなく代々続いた名門の江戸っ子である。さらには、小説を書くという点でも、天才であった。谷崎が荘太をどう見ていたのかと言うことは余りよく分からないのだが、荘太は谷崎の天才に畏怖したであろうことは想像できる。世代の違う、既に評価の定まった島崎藤村には、若干の皮肉めいたことなど書き遺している荘太だが、谷崎の才能の輝きの前で萎縮していったことで、自らの創作はどこか腰の引けた姿勢になってしまったように思える。さらには、東京を捨てて生活の場を敢えて辺鄙な土地に求めるようになっていく。最後は東京に戻りたかったようだが、自ら作り上げていった壁が大きくなりすぎてしまっていた。

 荘八は、そんな兄の姿を見ていて、自らの進む道を文学ではなく、西洋画の世界に求めることになる。もちろん、その当時の西洋美術が刺激的で、新しい感覚をどう日本の中で消化していくのかと言うことでは、文学から逃げるという意味合いではなく、荘八にとっても新たな地平としての魅力があったことは間違いない。だが、兄ののたうち回っている文学を避けた、という側面も否定はできない。さらには、荘八が生まれ育った東京、それも昔ながらの東京を愛し拘りを持ち続けたのも、兄がそこから逃げていった裏返しであるかのように思える。

 そして、兄が谷崎という天才と出会うように、荘八は岸田劉生という天才と出会う。この辺りが、この兄弟の運命の面白さ、としか言い様がない。何よりも、兄弟して、輝く才能が集まる中にいるというだけでも非凡であったことの証明だろう。荘八と劉生の交友というのも、実に仲が良くて、毎日のように顔を合わせては出掛けるのも一緒という蜜月が続いていく。劉生が岸田吟香という、名士の子供であったことも、この二人をより強く結びつけたのかもしれない。銀座で生まれ育った劉生と、両国広小路の荘八は、わかり合える取り合わせであったに違いない。劉生から見れば、結局のところ、終生にわたって荘八は育った環境という面から言っても、お互いに説明を要することなく意思の疎通ができる友と思っていたのではないだろうか。この関係性の最大の不幸は、劉生という巨大な天才が、自らの保つエネルギーがどれほどの巨大であるかについて、自覚し得なかったという点であるのかもしれない。荘八から見れば、劉生はあまりに巨大で、輝きを増していく超新星であっただろう。そのエネルギーの大きさに次第に理解を深める程に、荘八は劉生に呑み込まれ、押し潰されるかのような感覚を持ったのかもしれない。同じ道を進もうとする友が、あまりに巨大な天才であったことに気付いた時の気持とは、一体どんなものであったのか、と思う。

 荘太は谷崎の前に萎縮していったと私は思っているのだが、荘八は同じ道を歩まなかった。劉生と訣別する道を、荘八は選ぶことになる。劉生にとっては、青天の霹靂であったようだが、荘八にしてみればそうする以外に画家として生きる道が無かったのではないかと思う。いきなり扉を閉めるように、荘八は劉生との付き合いを絶ってしまう。劉生にとっても、この出来事は衝撃的であったようで、精神的に大きなダメージを負った事件になる。結局、その後劉生は夭折してしまうことになるのだが、その時の荘八の気持を想像すると、これも複雑な思いがする。荘八は、劉生と訣別することで自らが画家として立つことができる様になった訳だが、その結果の様に劉生が斃れたことは、荘八を一見した印象よりは遙かに狷介な人物へと導いていったことだろう。その苦しみは、荘八の中に常にあったのではないだろうか。

 荘八に惚れ込んだ、画廊羽黒洞の主人木村東介氏はこんな風に書いている。
「荘八は純粋な江戸っ子であった。世間知らずの、ソロバンなしの、気の弱さと感情過剰を一緒に持ち、得体の知れぬ芯の強さを兼ね、痛いほど生な神経をそのままに出した性格、それが荘八の個性であった。」
 東介氏は、山形の出身で大正期から東京で過ごしてきている。明治34年生まれの東介氏はユニークな経歴を経て画廊の経営者となったひとである。彼自身の地方出身者のコンプレックスを踏まえ、長い時間を掛けて理解した荘八像は、私にもよく理解できる。ここで言われている荘八の個性の特質は、正に東京の町場の人達の中にあった空気でもある。そのことを東介氏は理解しているので、純粋な江戸っ子という表現が出てくるのだ。三代続いた江戸っ子ではないからこそ、その町の空気を吸って、より純化したものになろうという意思を持つ。意識されたものかどうかは別として、そうやって、作り出されていく個性があるのだと思う。

 そして、「痛いほど生な神経をそのままに出した性格」というのは、その表現がもっと相応しく思えるのが兄の荘太ではないかと思う。江戸っ子というにも名門の子孫である谷崎に出会ってしまい、文学的にも天才の輝きに怖じ気づいて東京を捨てていく道を選んでいく荘太。どこか享楽的な雰囲気と軽さを持ち合わせていて、伊藤野枝との恋愛騒動を起こしておきながら、そこで傷ついていったのは荘太だった。野枝にとっては、笑い話程度の事件に過ぎなかった。最後には、千葉の片田舎で自身の人生と向き合い、そして書き上げた小説の出版直前に命を絶ってしまった荘太。

 私は、荘八が翔太の死について何か書いていないかと思い、彼の著作を探してみたが、見つけることができなかった。そもそもが、荘太の人となりや兄への想いを綴ったような文章を荘八は書いていない。私には、荘八の兄への想いと共に、悲しみが大きかったからこそ、文章にすることがなかったのではないかという気がする。荘八という人、やはり荘太という兄と合わせてみていくと、その人となりが理解できるように思う。

 今回の展覧会には、荘八による荘太蔵の肖像が展示されている。それを見た時、何とも言えず、見入ってしまった。木村東介氏の著書によると、岸田劉生作の荘太氏像の絵があるという。荘八の生前に東介氏が持ち込んだそうなのだが、できればそれも見てみたいものだと思う。今回の展覧会に出ていればいうことなかったのだが、今後の楽しみに取っておこう。今どこにあるのかも、分からないのだが。

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2 コメント

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絵画同好会(名前検討中 (村石太星人)
2013-06-01 17:49:59
木村荘八 画像で 検索中です。
木村さんの絵は 独特ですね。最高
モチーフも おもしろいです。
画家の生い立ち 生涯も いろいろですね。
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ありがとうございます。 (kenmatsu)
2013-06-01 19:08:28
村石太星人様
御覧頂いて、どうもありがとうございます。
今回の荘八展では、荘八が技術的な向上を常に心掛けながら、習得していく様子が、作品で見て取れるところが面白かったと思います。
荘八さんは、非常に論理的に技術を積み重ねていき、絵を描いているところも興味深いです。
そんな彼の兄、荘太という人もとても興味深い人だと思っています。
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