東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(6)長谷川時雨

2012-01-22 19:18:32 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

今回は、龍閑川の話から始まる。既に埋め立てられてしまい、その姿を消した川である。その成り立ちも人口河川であった。江戸城外濠の内神田二丁目、鎌倉橋から少し日銀寄りに行ったところに、神田駅横から一方通行の道路が外濠通りへぶつかる丁字路がある。その信号に竜閑橋の名が今も残されている。この信号から少し日銀よりの千代田区と中央区の区界になっているラインが、龍閑川の跡になる。直線的に東へ向かい、南北方向に伸びる浜町川に鞍掛橋の辺りで合流して終わる間が龍閑川だった。鎌倉橋から外堀を注意深く見ると、小さな水門があるのが見える。これが龍閑川の名残である。


そして、この川に龍閑橋が架かっていた辺りへ行ってみると、歩道にフェンスが巡らせてあり、その中にはかつてこの地にあった龍閑橋がその姿を留めていた。震災復興期の大正15年に作られた日本で最初の鉄筋コンクリート造のトラス橋であったという。今でも、その姿が残されているとは知らなかったので、歩いてみるものだと思った。



そして、鉄道の高架線の上では上野~東京連絡線の建設工事が進んでいる。かつては上野から東京の間は線路が繋がっていたのだが、新幹線の工事によって分断されてしまった。新しい高架線で上野と東京の間を繋ぎ、東海道線と東北、高崎線の電車が相互に直通するようになるのだという。これによって、都心部に車庫が不要になり、品川の車庫跡に新駅を造り再開発をするという。


「龍閑川にかかる今川橋もそのひとつだ。かすかなふくらみの上にビルが建っている。ビルとビルのあいだに細い路地が走っているが、その線が川の中央だったのであろう。外堀の水をひいて浜町川につながっていたこの川は、かつて日本橋区と神田区の境界であった。いまは中央区と千代田区の境ということになるのだが、路地で分かたれたところもあれば、両区にまたがる建物もあったりする。今川橋跡地の東側、岩手銀行のはいっているビルのまえには「今川橋のあとどころ」と刻まれた碑が建っている。」
中央通りの反対側には千代田区の立てた碑もあり、今川橋を偲ぶ縁になっている。



この今川橋跡というのは、丁度丸石ビルのあたりだった。丸石ビルが正に、その神田区側に建っている。その裏がかつては龍閑川だった。このビルはその時を覚えているのだろう。ビルに沿って立てられているところは、かつては川で埋立後に払い下げられた土地であったと思われる。この辺りの1980年代の景色はこちら


「龍閑川、またの名、神田堀は、開削と埋立てをくりかえした堀である。天和二年(一六八二年)に掘られ、安政四年(一八五七年)に填埋、明治十四年(一八八三年)の浜町川の神田川への延長計画とあわせて、十六年に再堀されはじめた。そして、昭和二十五年(一九五〇年)には完全に埋没している。江戸城をとりまく都市整備構想のひとつとして掘られたにちがいないが、その役割は水路ではなく防火用空間としてであった。浜町川に河岸があったのにくらべると、ここにはそれがない。はじめ高さ二丈四尺の土手が築かれたが安心できず、堀を掘ったというのである。明暦の大火のあと、その土手ぞいに作られたが、川幅十六間(約二十九メートル)もあったのだから、街なかの大工事だったことがわかる。火災に備えて外堀の水がここに流れ込んでいたのは、たいへん興味ぶかい。」
手元にある中央区立京橋図書館復刻の嘉永4年(1851年)版の日本橋北之図によれば、確かに竜閑橋から亀井丁辺りまで龍閑川があり、そこから直角に曲がるように浜町川が隅田川へと向かっている。ここから神田川へは浜町川も繋がってはいなかった。そして、面白いのは、龍閑川と並行して北側に土手が築かれている。確かにこれは防火を考えたものだったことがよく分かる。地図中、茶色く色を付けたところが土手である。赤でマークしたところは、時鐘と最初に出て来た今川橋、そして牢獄である。時鐘は江戸開府以来の時を知らせるための鐘の始まりで、今は牢獄跡の十思公園に保存されている。本石町、略して石町の鐘と呼ばれていたものである。また、牢獄の跡が今は公園になっている。


伝馬町牢獄の処刑場跡は、日蓮宗の大安楽寺と身延別院になっている。



その隣の牢獄跡は、十思公園になっている。


憲兵屋敷の門としても使われたのであろう裏門。復元されたものだが。


これは十思公園に保存されている本石町の鐘。


一度幕末に埋められた堀が、明治になってから再び掘られるというのも面白い。江戸時代には神田堀と称されていたものが、明治に再開削されて龍閑川の名を付けられたという。そして、再び埋められてしまうことになる。明治から大正に掛けてはまだ船運が盛んだったものが、昭和に入る頃から陸上輸送が本格化していく。この辺りの移り変わりも、確実に都心部の川の存在意義に変化をもたらしている。
「『新選東京名所図絵』は龍閑川について、「その両側は石垣深く畳みて、河幅六間、あえて広潤ならざるもまた舟楫の便あり。明治十六年、再び開鑿する所、その以前は神田堀、銀堀とも称したりき。竜閑の名は、この川の西端にむかし龍閑町と称する町名ありて、その頃神田堀に架したる、龍閑橋の棄撤せられずして現存したりしより、再鑿の新川を龍閑川と号けたるならんか」と書き、浜町川の新堀については「さらに舟楫の便利を図り、明治十四年大和町ならび東龍閑町と豊島町の間を貫きて新たに開鑿、これを神田川に通せり。しかして左右の両眼は高く石垣を以て築き、西岸所々に各自の揚場をしつらえ、舟にて漕運し来れる貨物は直ちにこれより陸揚げするの便に供せり」と記している。
 このようみにてくると、東京の堀や川の歴史は一様ではない。時代の要請にしたがってそのおりおりに変化している住民の生活、交通、治安、産業の条件によってさまざまなかたちでつちかわれてきた。江戸の都市づくりは、その立地条件にあわせてみごとな施策をおこなってきたとおもえるが、近代にはいってからは複雑化して、それをうまく継承したとはみえない。」

この龍閑川の流れていた辺りは、震災では焼けているのだが戦災の被害はあまり受けていなかったりする。それだけに、昭和初期の震災復興期の町の雰囲気が1980年代頃までは色濃く残っていた。バブル以降、比較的大きなビルまで建て替えが進み、町の雰囲気が大きく変わってきている。
「龍閑川は第二次大戦後、まっさきに埋めたてられた場所だった。たまたま龍閑川跡の路地とその周辺を歩いていたとき、私はふと昭和通り西脇にある地蔵橋公園というところにはいってみた。地蔵橋というのは東中ノ橋、火除橋のあいだにあって神田堀の改廃とともに架けられたり毀されたりしてきた橋であった。昭和通りの拡張にあって大きな変化をみせたところだが、公園の片隅、それもほとんど人目につかぬところに「龍閑川埋立記念碑」のあるのをみつけた。その碑は樹木の生い茂る小さな緑地のなかに隠れるように建てられている。」
この地蔵橋公園も最近に整備された。この龍閑川埋立記念碑は公園の中央にプレートが読みやすいように再設置されている。とはいえ、あまり情緒には欠ける雰囲気で公園の名前も見あたらなかった。地蔵橋という名は忘れ去られていくのだろうか。




そして、浜町川に合流して龍閑川は終わる。その合流点には、千代田区、中央区共同なのか龍閑公園という小さな公園になっており、一角には竹森神社という小さな社が祀られている。浜町川が埋め立てられてこの地へ移されて再建された様だ。



「『美人伝』の長谷川時雨が生まれたのは、日本橋の通油町一番地である。といっても昔の地図を現行図にかさねてみなければわからないが、昭和二十二年、中央区設置の際の町名改正では、日本橋大伝馬町三丁目一番地、浜町川にかかっていた緑橋の西にあたるといえば、おおよその見当がつくであろう。『旧聞日本橋』(昭和十年二月、岡倉書房)の冒頭には町の構成ついての簡潔な記述がある。
 「日本橋通りの本町の角からと、石町から曲がるのと、二本の大通りが浅草橋へむかつて通つてゐる。現今は電車線路のあるもとの石町通りが街の本線になつてゐるが、以前は反対だった。鉄道馬車時代の線路は両方にあつて、浅草へむかつて行きの線路は、本町、大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町とつらなった問屋筋の多い街の方にあつて、街の位は最上位であつた。それがいまいふ幹線で、浅草から帰りの線路を持つ街の名は浅草橋の方から数えて、馬喰町、小伝馬町、鉄砲町、石町と、新開の大通りで街の品位はずつと低く、徳川時代の伝馬町の大牢の跡も原つぱで残つてゐた。其処には、弘法大師と円光大師と日蓮祖師と鬼子母神との四つのお堂があり、憲兵屋敷は牢屋敷裏門をそのまま用ひてゐた。小伝馬町三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門通がある。」
 この文章からは鉄道馬車がそれぞれ一方通行だったことがわかる。時雨は二つの線路のあいだにある厩新道の、大門通りの角から一軒目で生まれたのだった。」
鉄道馬車は新橋から上野を経て浅草までを結ぶ路線だったのだが、万世橋から上野、浅草へ至り、浅草橋を経由して日本橋で再び合流するループ線の形になっていた。さらに、浅草橋と日本橋の間では上下線が別のルートを取るようになっていたことが描かれている。これは一つには、道幅が現代とは違い狭かったことが原因になるのではないかと思う。元々、江戸以来の人と馬が通ることまでしか想定されていなかった道筋に線路を敷き、馬車を通したので無理があったのは間違いない。大阪では、鉄道馬車ではなく市電が最初から敷設されていくのだが、やはり道幅が狭かったことで敷設には当初苦労した。その為、軒切りといって張り出していた商家の軒を切り詰めさせて道路の拡幅を行ったという。調べてみると、馬車鉄道から市電に切り替わってもしばらくはこの状態のままであったようだ。明治40年1月調査の地図では上下別線のままだが、明治44年10月版の地図では江戸通りを上下線が走り、緑橋を渡っていた線はなくなっている。


また、街の品位という話が出てくるのが面白い。この辺りに、日本橋という、江戸開府以来の町ということの重みや自負といったものが生み出される素地があったことが見えてくる。「大正・日本橋本町」北園孝吉著の中でも、著者は江戸っ子名手自分で言ったこともないと書いている。日本橋の人は、そこいら中を一緒にして江戸っ子などと呼ばれたくはないと思っていたと書くと、少々角が立つかもしれない。少なくとも、自らそう名乗ることはしないプライドを持っていたというのは確かなことだと思う。また、実際に商人の街であった日本橋においては、どの道筋に店を持っているかでその店の格が決まったという面もあっただろう。明治の終わり頃に、今の室町三丁目から浅草橋に至る地下をJR総武線が走る江戸通りという道筋がメインストリートになり、今日に至るわけだが、元々は今は裏通りになっている筋の方が町の格も上であったという話も面白く興味深い。
緑橋へ至る道筋を見ると、今はスカイツリーが見える。果たして、この景色を見て時雨女史なら何と言うのだろうか。というよりは、人の暮らす町ではなくなっている故郷を嘆くかもしれない。


「日本橋から京橋へむかう「通」が東海道起点の大通りであったとすると、こちらのほうは奥州街道の起点であった。旅篭町は旅人宿が多かったところからその名があり、油町は灯油屋の、塩町は塩あきないの店から名の由来がある。庶民の生活とむすびついた町名だが、「通」とつけられたところからは町の賑わいを想像することができる。」
これは正に、ロンドンの「the City」というのと同じで、江戸で「通」といえばここを指したといえる。

父、深造は、時雨の祖父であり伊勢出身の呉服商であった卯兵衛の次男で、千葉周作の神田お玉ヶ池の道場に通い、北辰一刀流の使い手として知られ、最初の官許代言人として我が国の弁護士始まりとなった一人でもある。
「明治三十三年には東京市塵芥処理請負、電車敷設問題の疑獄事件にひっかかって引退、佃島の相生橋のほとりで余生を送った。」
とはいえ、政治力を使って私腹を肥やしたりとか、野心家であったりといった人物ではさらさらなく、お人好しの隙を突かれるように疑獄事件に引っ掛かってしまったようだ。そのことで彼はひどく傷ついて、佃島で隠居生活を送るようになったという。ちなみに、相生橋が架橋されたのは明治36年のことで、それまでの間は佃島へは渡し船でなくては行けないところだった。疑獄事件の後に引き籠もってしまった深造の心中がこのことからも窺える。
これは、今はもう閉店してしまった神田お玉ヶ池跡にあった鰻屋ふな亀。


「『旧聞日本橋』は私の愛読書のひとつだが、そこからは江戸が東京となって新生の姿をみせはじめたころの情景が鮮やかに浮かんでくる。街なかの色彩とか音などがあたかも昨日のものであったかのようにつたわってくる。少女の眼にうつった伊勢出身の祖母、弁護士の父、深川生まれの母をはじめとする親族や、日本橋界隈の人々が登場するが、そこに投げかけるまなざしは美しい。『実見画録』をのこした父の気持ちを継いで、明治十年代から二十年にかけての生活や風俗を描いたといえるが、彼女はこころから父を愛していたのだった。」
この「旧聞日本橋」が作品として優れたものになっている背景には、この時代の町の様子が描かれていることに加えて、彼女には厳しく当たったこともある母のことも含めて、家族を愛情持った心で描いていることが大きい。時代のせいという面が大きいのだろうが、母親は時雨が本を読むことを嫌い、かなり厳しく育てた様子も出てくる。それでも彼女は、母と姑の間柄のことまで理解した上で、この本を書いている。その家族への愛情を持った上で、生まれ育った時代の町の様子を懐かしんでいることでこの本が読む者にもその町を懐かしく思わせてくれるのだろう。
緑橋の架かっていたところの現在。


「浜町川と龍閑川(当時は再堀中だったが)にとりかこまれた一角、そしてその周辺部が『旧聞日本橋』回想の舞台になっているのだが、生家のあった通油町、大丸呉服店が勢いをほこっていた大伝馬町、その裏手の源泉小学校、小伝馬町の牢屋敷跡、久松町の千歳座、喜昇座のあとに建った明治座、そして浜町の河岸、大川のほとりもみな彼女の脳裏にあざやかである。文中に「子供といふものは、ふとした時にきいたことを生涯忘れぬものである」という一節があるが、見たもの聞いたもの感じとったものすべてをとりこんでいる。その幼児体験が明治の日本橋地区をみごとに再現したのだった。」
最早これほどまでに時雨女史について書かれてしまえば、不祥私が何を書けばいいのかと思えてしまう。そんな私であっても、「旧聞日本橋」はやはり手元にいつも置いてある。いつも繰り返し読んでいるとまでは言わないが、手元に置いておき、いつも開けるようにしておきたいと思う一冊なのだ。今の時代、時雨女史の再評価もされてはいるが、知らぬ人も多いのが勿体ないと思う。東京の町歩きというのなら、まずこれを読まずしてと思う。
縦の通りには「みどり通り」の名が付けられている。


時雨の妹である画家の長谷川春子の一節が最後に引用されている。
「美人の姉さんを持つと、得もあるが、損なこともいろいろあるよ。六代目(菊五郎)があたしをみるとつくづく云うんだ。時雨さんは美人だが、春ちゃんはオカメだなぁと大声でキワメをつけるのさ。日本一の美男、菊五郎がオカメの折り紙をつけてくれたんだから仕方がねェや、無理もないこったが、何しろいずれも向こうがよすぎたんだよ。アハハハ。姉がいい衣装なら、妹はふだんぎだね。本式の料理に、片方はかつぶしかクサヤの干物かな。」
「天下の美人を姉に持てば」という長谷川仁、紅野俊郎編「長谷川時雨」(昭和五十七年ドメス出版)より。

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