東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

目黒の旧跡を尋ねる~その四:大鳥神社、大聖院

2015-01-06 18:18:24 | 目黒区
目黒川を渡り、次は大鳥神社である。今は山手通りと目黒通りの交差点であり、交通の要衝であるのだが、恐らくは古くからそうであったのだろうと思う。そのために、ここに神社が置かれたのだろう。目黒川は天然の要害という側面があっただろうし、そこに向いて開けた谷の少し上という位置関係である。
「言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊が東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願した。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806年)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年としており、これは目黒区最古である。
江戸図における最古のものとされている室町時代の長禄の江戸図には「鳥明神」として当神社が描かれており、当時の江戸図には9つの神社しか描かれていないため、大鳥神社は江戸九社のひとつとして知られている。また江戸名所図会では「大鳥大明神社」として描かれている。
当神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835年)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことから始まったといわれている。現在でも11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ね賑わいを見せる。
現在の社殿は昭和37年(1962年)に完成したもの。平成18年(2006年)には鎮座1200年祭が行われた。隣接する目黒通りと山手通りの交差点は大鳥神社の名前が冠せられており、交通の要所となっている。」(wikipedeiaより)


目黒不動尊の時にも書いたことだが、どうも大鳥神社は目黒不動、瀧泉寺との関わりも深いように思える。というのも、瀧泉寺の創建が808年といわれており、大鳥神社の創建は806年である。この近距離で、この年代の符合は偶然ではない。「目黒区の歴史」(目黒区郷土研究会・文)によれば「目黒不動の地に祀ってあった日本武尊の神体を刻して神殿に移したのが、大鳥神社の始まりであると伝えている。」とある。ちなみに、台東区の鷲神社は創建も不明とのことで、江戸時代以前の最古の記録というのも分からない。どこかで、目黒の大鳥神社との関連性が出て来ると面白いと思っているのだが、今のところはよく分からない。


この辺りは第二次大戦の空襲の被害を受けており、社殿などはその時に焼失している。現在の社殿は昭和37年に完成したもの。
「大鳥神社 下目黒3-1-2
 この神社は、日本武尊の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でありました。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊と弟橘媛命を合祀しています。
 毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑わいをみせています。この市のいわれは日本書紀に「十月巳酉に日本武尊を遣わして、熊襲を撃つ」とあり、尊の出発日が酉の市であったことから、おこったと伝えられています。
 毎年9月の例大祭には、目黒通りに代償0余基の町みこしが勢揃いします。それとともに社殿では「太々神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市には、「太々神楽・熊手の舞」が神前で舞われます。
 境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688~1703)や宝永年間(1704~1710)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈籠といわれる「織部式燈籠」や、天保6年(1835)の酉の市に神楽を奉納した祈念碑などもあります。
 平成7年3月 目黒区教育委員会」


比較的新しい社殿だが、古代からの神社らしい風格のあるものになっている。


境内社の目黒稲荷神社。


境内に置かれていた石碑。延宝銘の庚申塔に将軍家と書かれた石碑など。


元禄元年、宝永元年、元禄元年銘の青面金剛像の庚申塔。それぞれ似た構成で、青面金剛像の下には三猿が彫られている。


アカガシの木。この木ではなく、オオアカガシがあり、東京都指定天然記念物だった。
「大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として、昭和三八年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシCyclobalnopsis acuta(Thunb.) Oerst.var.megaphylla Hayashi,var.nov.のタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。
 指定時に樹高約一六メートル、幹周り一・六メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和五〇年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成一四年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成二四年に指定解除となりました。
 ここに説明盤を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。
 平成二四年三月 東京都教育委員会」


「切支丹灯籠
 下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示していたものです。もとは千代ヶ崎(現在の東京都職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿頭の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が激しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。」


目黒通り側の参道から見たところ。


そして、山手通りに面した大鳥神社の並びには、松輝山大聖院というお寺がある。
「大聖院は、弘治3年(1557)貞順によって開創されたと伝えられ、目黒不動瀧泉寺の末寺でありました。
本尊は京都永観堂本尊の写しとされる回顧(みがえり)の阿弥陀如来で、他に十一面観世音菩薩・不動明王像が安置されていました。
元和年中(1615~23)生運和尚が中興し、旧目黒村総鎮守大鳥神社の別当寺でありました。寛政10年真性和尚が本堂・庫裏を再建しましたが、その後長らく無住の時代があり、堂宇が荒廃しました。
十三世良詮師は終生を寺門の復興に委ね、昭和2年4月本堂の大修理・庫裏の改築が完成し、諸般の設備が整いました。然し、昭和20年5月の空襲により本尊並びに堂宇を焼失、直ちに仮本堂を建築し、類焼を免れた十一面観世音菩薩を本尊として奉安されました。
昭和42年十四世良勤師の代に現在の鉄筋2階建ての本堂・書院が新築されました。同56年本堂再建15周年記念事業として、無縁塔を兼ねた納骨堂が建立されました。
又、平成7年、天台大師1400年御遠忌に際し、庫裏を兼ねた3階建て斎場・客殿を建築し檀徒の利便に供しています。」(天台宗東京教区サイトより)


昭和56年に本堂再建15周年記念事業として建設された納骨堂。


ここにも、大鳥神社と同様に切支丹灯籠が保存されている。
「この3基の燈籠は、切支丹燈籠とか織部式燈籠と呼ばれています。もと三田千代ヶ崎の旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷(後の大村邸)林泉中の小祠内にありましたが、大正15年10月大聖院に移したものです。中央のもっとも高い1基の竿石には変形T字クルスとキリスト像とおもわれる形状が、また左右面に、漢詩が刻まれています。この燈籠は徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠等に礼拝物として秘かに置かれていたものだと言われています。歴史的に文化的価値が高く、全国的にも数少ない燈籠です。
 平成4年3月 目黒区教育委員会」


元々、瀧泉寺の末寺であったということと、立地を考えると、大鳥神社の別当として作られたお寺であったのかなと思う。石塔の土台には、びっしりと寄附をした人たちの名が刻まれている。居木橋、下目黒、品川、芝、日本橋と広範に渡っているのが面白い。


「笠付型の道標は旧丹方町と仲町のT字路に有ったもので、その碑面に銘記されているみがえりの阿弥陀像は戦災で焼失しました。」(天台宗東京教区サイトより)


母子地蔵尊と刻まれている。
「母子五人が焼死し、哀れに思った周囲の人が供養のために造立したと言われています。」(天台宗東京教区サイトより)

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