東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

板橋~競馬場と養育院

2011-10-07 22:19:56 | 板橋区
さて、今回は千川上水を少し遡って大山駅にほど近い辺りに明治時代にあった板橋競馬場と現在も東京都健康長寿医療センターという形になった養育院について、触れてみようと思う。まずは位置関係から見て頂こうと思う。この地図は、明治44年版の通称郵便地図と昭和16年版の板橋区の地図を元に、重ね図を作成して位置を絞り込んだ地図である。自分自身の興味の為に作成してみたのだが、当然誤差もそれなりにあるはずなので、ご承知おき頂きたい。


時系列順に、まずは板橋競馬場から触れていこう。私がその存在を知ったのは、上の図の元にした明治44年版の郵便地図を手に入れた時であった。現在の国道17号を始めとする幹線道路が全くない時代の地図でもあり、興味深く見ていたところ、不思議なオーバルの図形が目に入り、見ると板橋競馬場と書かれていた。これには驚いて調べてみると、明治40年に東京ジョッケー倶楽部によって開設されたという。東京ジョッケー倶楽部は政治家で当時の東京市長でもあった尾崎行雄を中心に設立されたという。これはその旧敷地内に当たる豊島病院。


ただ、当時の政府は競馬を奨励していたわけではなく、明治41年には馬券の発売が禁止されてしまう。この当時の馬券は非常に高額であったというが、馬券無しでは競馬は盛り上がらない。これは豊島病院横の坂道。右手は大正3年に開業した東武東上線の築堤。


そんなこんなで、明治43年には閉鎖されてしまう。そして、東京ジョッケー倶楽部は、東京競馬会など他の団体共に統合され東京競馬倶楽部となる。そして日本競馬会が開設していた目黒競馬場での開催ということになり、板橋競馬場はあえなく姿を消していくことになる。これについては、より詳しい記事がネット上にあるので、板橋競馬場で検索してみれば、出てくると思う。これは競馬場外周路の北側に当たるのではないかと思われる石垣。ただ、この石垣は養育院の移転時に作られた可能性も高い。地形的に見るとここに沿って直線コースがあったと思われるのだが、根岸競馬場などを見ても高低差のあるコースも普通だったようなので、何とも言えない。惜しむらくは、ほぼ全くと言って良い程、競馬場の痕跡は残されていない。さらに、築堤を築いて東上線が建設されているので、より当時の様子は分かりにくい。


さて、そしてこの地へ養育院が移転してくるのは大正12年のことである。養育院というと、その実態がピンと来ないと思う。明治維新以来、新しい時代の波に呑まれた貧しい人々を救済する為の施設が養育院である。明治4年に今の文京区本郷にあった加賀藩上屋敷の外れで旧富山藩の窓のない空き牢にロシア皇太子来日に伴い、乞食を押し込めたのがその始まりであった。以来、新吉原近くの浅草溜と移り、明治6年上野護国院に創設され、明治9年には東京府の直営事業としてその運営が行われてきた。

中でも、渋沢栄一はこの施設の最も強力な守護者であり、世間の自己救済が筋であり、助けを与えることがより貧民をスポイルしていくだけであるという者達と戦い続けることになる。明治12年には神田和泉町へと移転する。この場所は藤堂藩上屋敷跡であり、後に三井が慈善病院を造る場所である。これは現在、三井記念病院となっているが、ここも元々は貧者の為の医療施設であった。この辺りの話は、以前書籍で紹介した「大正の下谷っ子」の中でも出てくる。また、この時代より少し下るが、明治中期には隣接した下谷二長町に浅草猿若町から市村座が移転してくる。その時には、養育院は既に移転しているのだが、大正時代には市村座は歌舞伎の黄金時代を迎える劇場である。ここは板橋に養育院が移転してきたときに最初に恵風寮という養老院が建てられた場所。今は東京都健康長寿医療センターの増築工事中である。


東京府の事業となった養育院は予算から縛られるようになり、貧者の救済は公の仕事ではないといった攻撃に晒されていく。渋沢はここでも戦い、この事業を守り続けていく。そして、明治18年には本所長岡町、今でいう墨田区石原4丁目へと移転する。明治22年には東京市が誕生し、養育院も東京市の事業になることとなった。そして、収容者が増えて環境が悪化する一方でもあったことから、明治29年大塚辻町へとさらに移転することになる。ここは東京メトロの新大塚駅の直ぐ近く、大塚公園と都立大塚病院を併せた敷地が養育院であった。この大塚も徐々に周囲が宅地化していき、そういった環境の変化から大正12年に板橋へと移転することになった訳である。その跡地を公園と病院にしたということである。これは元々の旧川越街道に面していた養育院正門があった場所。今は板橋区立文化会館が建っている。


そんな経緯でこの地にやってきた養育院だが、決して順調な運営だったわけではない。常に、税金で貧者の救済をすべきではないという攻撃に晒され続け、渋沢を中心にそういった動きと戦い続けての日々であった。また、内部の環境も決して良好なものではなく、中を見れば地獄と評されたりもしている。とはいっても、公が貧者の救済を直接行っているという事実が重かった。これは、現在の東京都健康長寿医療センター。


第二次大戦中には空襲の被害を受け、養育院も全焼していた。戦後、疎開先から再建して戻ってこようとする養育院に立ちはだかったのは、板橋区だった。板橋区にとっては、スラムとして名高かった岩之坂も空襲で焼失し、養育院もこのまま無くなってくれることが板橋のイメージアップになると考えていた。そこで養育院の移転を求めたのだが、養育院側は戦災で市民の多くが苦難の時代にこそ果たすべき役割があると主張した。結局、占領軍の広教福祉部からの鶴の一声で現在地での復興が決まった。ただ、この時に千川上水から南側を板橋区が取ることになり、区の施設が今日でも建ち並ぶ一帯になっている。
これは東京都健康長寿医療センター前の千川上水を暗渠化して出来た道。板橋区役所方向を望んだところ。左手の広い道は戦後に出来た道で、正面に真っ直ぐ細い道が続いている。


明治初期から100年を越す歴史を持ち、貧者を救済するという思想を守り続けてきた養育院は今はない。東京都健康長寿医療センターというのは、その名の通り、養育院の思想とは別のものになっている。平成9年に養育院は廃止された。名目上は色々と付けてあるのだろうが、渋沢翁の守ろうとしたものは失われてしまった。今も工事現場になっている中には、渋沢翁の大きな銅像がある。目の前で彼が守ろうとしてきた者が失われ、弱者は路傍で死を待つのみという時代がやってきていることをどう思ってみているのだろうか。


この件については、「貧民の帝都」塩見鮮一郎著文春新書刊を大幅に参照させて頂いている。少しでも、養育院、そして渋沢栄一という人のこと、東京の裏面史ともいうべき貧民の歴史について興味をお持ちなら、是非一読されることをお勧めする。


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1 コメント

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Unknown (稲松孝思)
2018-12-21 16:33:48
よく勉強されていますね。一度お話を伺いたいと思っています。
inamatsu@tmig.or.jp

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