まだまだ続く自分の入院生活。この記事では入院生活の3ヶ月から4ヶ月目にあたる、03年12月頃のことを触れようと思っているのですが、この入院生活、退院したのが04年8月の頭だったので
この時点で実はまだ全体の3分の1にも達していないんですよね。約10ヶ月か……我ながらホント、長く辛い入院生活でした。
そんなわけで、過去の入院生活の記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、こちらからどうぞ。
■頭髪を丸刈りボー図頭に
ところで、この頃頭髪を丸刈りボー図頭にしました。自分は病気になるまでは、普通のいわゆる『五部分け』のような髪型だったのですが、
それをこの時期、長さ6ミリ程度のボー図頭にバッサリと切ってしまいました。その理由は割と単純。
先月の記事でも触れた通り、この頃の自分はお風呂に入れませんでした。1週間に一度程度は髪を洗ってもらえたとはいえ、正直頭がずっとかゆい上体が続いていたんですよね。おまけにこの頃の自分は、頭にはシラミのようなものまで沸いていたという話だったし。
で、この時期の自分はほぼ外部の人間と接触する機会が無かったし、悲しいかな、必然的に外見を気にするような必要もありませんでした。なので、だったらいっそのこと-。というわけで、看護士さんにバリカンでバッサリと切ってもらいました。
それにこの頃の自分には『今は修行中の身だから』などという、今考えると自分でも訳のわからない理屈が働いていて『退院するまでは髪はボー図で』という、ちょっとナンセンスな思いが働いていました。
でもまぁ、結果的にはこのボー図頭からの流れで今も割と短いスポーツ刈りの髪型は、2011年8月現在も続いているわけで、今考えるとこの事は自分にとってはちょっとしたエポックメイキングな出来事ではありました。
それとどうでもいいことですが、この時期自分が突然『かなり短いボー図頭』になったことが当時入院していた看護士さんたちの間で話題となり、
あろうことか、自分のシャリシャリした頭を触ることがちょっとしたブームになってしまいました。何でも自分の頭は割りと形がいいらしく、かつ自分のシャリシャリした頭は、タワシを触っているみたいで気持ちが良かったとのこと。
…まぁ別にいいですけどね。それとこの頃の自分は『それ』から逃げられるほどまともには動けなかったし、この頃の自分はほとんどの時間をベッドの上に寝転がっているか、そうでなければ車椅子に座っていたので、立って歩いて動いていた、周りの看護士さんたちからは、自分の頭は撫でやすい、丁度いい高さにあったことも、こんなことをされていた要因だったのかもしれませんね。
■この頃、食事を摂る方法を少し変えました
03年10月頃の入院生活に触れた記事でも紹介した通り、この頃の自分の食事を摂る方法は一般的な『食事を摂る』方法とは明らかに異なっていました。
その方法は、片方の鼻の穴に細長いチューブのようなものを突っ込みそのチューブを点滴台に引っ掛け、その上でそのチューブから流動食を自分の体の中へ1時間ほどかけてゆっくり流し込んでいく-。というような方法で、毎日の食事や水分を摂っていました。
そもそも何でこんな面倒な方法で食事を摂っていたのかというと、この時点での自分は、普通に口から食べ物を飲み込んだ時にその飲み込んだものが胃ではなく肺にいってしまい、この状態をほったらかしにしてしまうとあっという間に肺炎になってしまうからでした。
なので、この方法であれば口から食事を摂ることができないこの時点での自分でも安全に栄養を補給することができたわけなのですが、この方法には少し問題もありました。
それは常にこの『栄養を摂るためのチューブ』を装着していなければならないため、それに伴って必然的に点滴台を抱えて移動しなければならず、また体に常にチューブのような『長いコードのようなもの』がついているため
非常に動きにくい。今までは自分もそんなに自分自身で動くことができなかったのでそれほど問題にはなってこなかったのですが、この頃の自分は入院当初と比べればだいぶ動けるようになっていました。
言い換えると、この『栄養を摂るために装着しているチューブ』がリハビリの明らかな邪魔になってきていました。
そこでお医者さんから提案されたのが、今回紹介する方法で栄養を摂る方法。それは胃瘻(いろう)と呼ばれるものを腹部に取り付け、そこから胃へ直接栄養を送り込もうというものでした。
これを腹部に取り付ければ前述の『鼻チューブ』は完全に要らなくなるわけだし、体には腹部に15cm程度のチューブが『チョロ』とついているだけなので、リハビリをする時にもこれまでよりも格段に動きやすくなります。
体を動かす時の制限はほぼ無く、普通の人と何ら変わらないとさえいえます。
で、この胃瘻を腹部に取り付けるためには、全身麻酔を打ってから簡単な手術で取り付けることになるのですが
その前に自分には『胃カメラ』と『バリウム』を飲み込まなければならないという、非常に憂鬱な問題をクリアしなければなりませんでした。
しかも胃カメラを飲み込む時には、体を左向きに寝転がって飲みこまなければならず、大変大変苦しい思いをした覚えがあります。
それにバリウムは妙に甘くて気持ち悪かったし……でもまぁ手術事態は30分程度で終わったし、あとは全身麻酔の効果で3時間ほど眠っていたらしいので、手術そのものは本人の中では『何となく』終わってしまったような感じでしたね。この手術をした後も『毎日の『食事』を摂るために1時間程度掛かるのは変わらないわけだし。
でも前述の『鼻にチューブが常に挿し込まれている状態』が無くなっただけでも、本人的にはかなり楽にはなりました。ま、考えてもみてくださいよ。
今までは常に、自分の鼻の穴の中(片方)にチューブのようなものが挿し込まれていたんです。つまり、自分の鼻の穴の中には1日24時間、ずっと違和感があったわけですよ。
この『違和感』から開放されたというだけでも、今回のこの胃瘻取り付けの手術は本人的にはやって本当に良かったという感じでした。
■人生で初めて車椅子を漕ぐ
先月の終わり頃、ようやく止まっている車椅子に2時間ほど乗っていられるようになったこともあり、リハビリの先生の薦めもあってこの頃から車椅子を自分の手で漕ぐリハビリをするようになりました。
ところで自分は生まれてこの方、この頃まで車椅子と触れ合うことが一切無かったので知らなかったのですが、車椅子の車輪というのは
タイヤの部分の他に、乗っている本人が車椅子を漕ぐ時のために別の車輪が、タイヤの内側についていたんですね……これは自分で車椅子を漕ぐまで本当に知りませんでした(汗)、恥ずかしながら。
ところで、この時点の自分には視力なんぞはほぼ無かったので、実際には車椅子本体を漕ぐことはできたとしても、その車椅子が一体どこに向かって進んでいくのか?というのが全く分からない、自分の意思でコントロールできない状態でした。
なのでこの時の自分が車椅子を漕ぐ時は、誰かに車椅子の前で手を『パン、パン』と叩いてもらい、その音を頼りに車椅子を漕いでいました。何だか自分が犬になったようで情けないのですが…。
でもまぁ、車椅子を漕ぐという動作は、ある程度の腕力、握力が必要なわけだし車椅子に座っていることがそんなに負担にならないということも、一つの条件になってきます。
そもそも『車椅子を漕ぐという動作』は特に腕力や握力を鍛えることになっていたと思いますから、やはりこの時点での自分には必要なことだったのでしょうね。例え犬のような扱いをしてまで車椅子を漕ぐことになったとしても。
■この頃のその他のリハビリメニュー
ところで、上では車椅子を漕ぐリハビリについて紹介したのですが、ここではこの頃にやっていた、その他のリハビリについても紹介しようと思います。
この頃の自分は他にこんなリハビリを主にしていました。
1.リクライニングベッド(自分が普段寝ていたベッド)を目一杯起こし、なるべく座った状態に近い姿勢にして両腕の体操。
2.ベッドサイドに座り(もちろん解除されて)、自分の目の前に配置された簡単な机(たぶん机の脚が1本だけの単純なものだったと思う)を支えにして座る練習
3.これと平行して、先月までにしていた口元のリハビリと手の指の可動域を広げるための運動も続行
とまぁ、これだけではよく分からないと思うので、例によってちょっと補足説明。
ただし、3.に関しては先月に書いていた内容とやっていたことは全く同じなので、その内容については03年11月の事を記した記事を参照してください。
ではまず1.について。この頃の自分は両腕に関しては入院当初よりもだいぶ動くようになり、両腕ともだいたい自分の肩の高さと平行くらいの位置までは腕が上がるようになっていました。
また、ここまで腕が動いてくれれば自分自身の意思があれば体操のような動きもできるわけで、この頃から約半年くらいの期間、
自分は両腕をひたすら動かす、擬似ラジオ体操のような動きを黙々と繰り返していました。腕を上げたり下げたり、腕を前に出してパンチを繰り出すような動きをしたり-。それこそ、こんな単調な動きを
朝50回3セット、昼と夜もご飯の前に同じだけ、みたいにノルマを自分の中で課して、毎日毎日繰り返しこなしていました。
実はこのリハビリは誰に言われるまでもなく、ほとんど自主的に始めたものだったのですが、こうして書くと『毎日単調なだけでただ辛いもの…』のように聞こえてくるかもしれないですね。
ただ本人の中では実はそうでもありませんでした。ここまで読んできてもらった方にはお分かりでしょうが、自分は相当体のレベルが低い状態から回復を目指してリハビリを始めることになりました。
でもそのおかげで、リハビリをしていて自分の体の状態が良くなっていく、リハビリの成果が現れていくのがかなり目に見えて分かってくるんですよ、これが。
それがまた、TVゲームのRPGの主人公のレベルアップをしているようで、これが結構楽しかったりしていました。毎日毎日リハビリを繰り返していると、どこからともなくファンファーレが流れてきて『♪きうっちはレベルが上がった!』みたいな(笑)。
そして2.について。同じように座る練習について先月の段階までは『車椅子になるべく長く座る』練習をしていました。ただ、上でも書いているようにこの頃の自分は車椅子にはだいぶ座れるようにはなってきていたので
今月からは少し段階を上げて、ベッドサイドに腰掛けた状態で、自分の目の前に設置された机を支えにしてベッドサイドに座る、という練習をしていました。
…まぁこんな事は何の障害もない、普通の人から見たら『そんなの簡単じゃん』という感じかもしれないですが、実はこれ結構大変だったんです。
この頃の自分の下半身、腰から下の部分はまだ感覚があまりありませんでした。ベッドサイドに座っていても、ベッドが下にあるはずのお尻の感覚はほとんどなくて
何だか雲の上に座っているような、ふわふわしている変な感覚でした。それに加えてベッドサイドに座っていたので、ベッドの下の床を踏みしめているはずの両足。
このベッドサイドに座る練習をしていた時、自分ははだしだったので本来床を踏みしめている感じはかなりあったはずだったのですが、この頃の自分には床を踏みしめている感覚がほぼありませんでした。
それどころかこの頃の自分は膝から下の感覚がまだほとんどない状態だったので、自分の足が床についているのかどうかということも全く分かりませんでした。
で、自分のお尻の感覚は上で示したようにふわふわした雲の上に乗ったような感覚で、とても不安定な感じ。そんなわけで、本来ベッドサイドに座った上で自分の目の前にある机に両腕を乗せて支えているのなら
自分の体は両足の裏、お尻と両腕で支えられているので、とても安定している姿勢だったはずなのですが、既に述べているようにこの頃の自分にはお尻から下の感覚がほぼ無かったので
机の上に乗せていた両腕の力だけで、ベッドサイドに座っていた自分の体を支えていたようなものでした。で、こういう状態だとどうなるのか?
両腕の力だけで自分の体を支えていたことになるので、当然自分の体は安定しません。例えるなら、両腕が『ニョキニョキ』と生えたダルマが、自分の目の前にある机にしがみついて
必死に自分の体を立たせているようなものでした。だからこの頃の自分はこの姿勢から片方の腕だけでも外そうとすると、当然ダルマのように『…コテン』と横に転んでしまうことになっていました。
しかもこの体勢で座っていることは、この時点での自分には10分でも大変なことでした。そんな自分が情けなくなってきて、自然と涙がぽろぽろとこぼれてきたこともありました。
あの涙は思えば何をやっても上手くいかなかった、当時の自分への憤り、悔し涙だったのでしょうね。まぁでも、あれを乗り越えてこられたから今の自分があるわけで、ロクに苦労もしてこなかった自分には『いい薬』になったのかもしれないな-。今はそんな風に思うことにしています。
■この頃の自分の体の状態
ところで、これで03年分の入院生活の記録は全て書き終わりました。で、ちょうど区切りがいいので
ここでこの時点での自分の体の状態を整理しておこうと思います。
・手足の状態
入院当初の頃と比べると、両腕はかなり動かせるようになりました。腕はまだ自分の力で自分の頭の近くまで上げることはできませんが、前方にパンチを繰り出す姿勢を取ったり、だいぶ自分の力で動かせるようになりました。
一方、両足はこの時点でも入院当初の頃と変わらずピクリとも動きません(涙)。それどころか両足とも膝から下はほとんど感覚がありませんでした(さらに涙)。
この頃の自分は『本当に足が再び動かせるようになるのか?また自分の両の足で歩けるようになるのか?』という不安と毎日戦っていましたね。正直、それを考えると毎日気分が本当に憂鬱でしたよ……それでも再び足が動かせると信じて、毎日不機嫌モードになりながらも歯を食いしばって懸命に『今動く』腕の方のリハビリを必死にこなしていましたけど。その『厳しすぎる現実』を少しでも考えないようにするためにも。
・腹筋など、その他の体の状態
この時期、自分の腹筋はまだほとんどありませんでした。普通の人は平らなベッドから自分の腹筋の力だけで『ムクッ』と起き上がることができると思うのですが、この時期の自分にはそんなことはとてもできませんでした。例え起き上がろうとしても、自分の首がほんの少しだけ起き上がろうとするだけでしたね。
その代わりといっては何ですが、手や手の指の力はだいぶ上がってきました。入院当初の握力はほぼゼロ、計測不能という感じだったのですが
この時期握力は左手が7、右手が5くらいまで戻っていました。1ヶ月前までは押すことさえできなかったナースコールも、割と押しやすいパッド型のものならどうにか押せるレベルにはなりましたね。これも毎日、ゴムボールをニギニギしていた成果が出たのかな…。
・毎日のトイレやお食事
この2つに関しては、以前照会した状態とほとんど変わっていないですね。唯一変わったことといえば、上で示した通り、
食事(流動食)を摂る方法が、片方の鼻の穴に挿していたいわゆる『鼻チューブ』から上で紹介した『胃瘻』に変わったことくらいですかね。
トイレ(排泄物を出す)をする方法に関しては本当に変わっていないので、03年10月分の頃の入院生活の様子を記したこちらの記事を参照してください。
・この時点で体に取り付けられていた医療器具
入院当初、自分の体には点滴やら呼吸器やら体に医療器具が結構着いていたのですが、この時点では
それらはほぼ無くなっていましたね。この時点で体に着いていた医療器具といえば、上で紹介した『胃瘻』と膀胱から自力で出すことができない尿を出すためにつけていたおしっこの袋、通称バルーンカテーテルくらいのものでしたから。ちなみにおしっこのバルーンカテーテルについての詳しい解説は過去のこの記事を参照してください。
自分が動く時には常に一緒に動いていた点滴台も無くなり、自分の周りが非常にスッキリして、入院当初の頃と比べれば遥かに動きやすくなっていたと思います。
・それ以外の体の状態
一応上で挙げた以外の体の状態を記しておくと、耳はかなりハッキリ聞こえていました。いいのか悪いのか、脳の意識は相当ハッキリしていましたね。ま、だからこそこんな『入院回顧録』を長々と書くことができるのでしょうが…。
それとこの時点では『におい』はかなりハッキリと分かりました。隣のベッドに寝ていた患者が食べていた食べ物のにおいが漂ってきて、本人はすごく嫌な思いをしていましたけど…。
と、ここまでが体の『正常に動いていた部分』のお話。ここから先は体の『異常をきたしていた部分』のお話。
この時点でも目は全然見えませんでした。もっとも、今も『全盲の視覚障害者』を自認しているのだからそんなのは当然なのですが…。
また基本的にしゃべることもまだ出来ませんでしたね。『スピーチカニューレを装着する』という裏技を使えばどうにか声は出せたのですが、これも以前紹介した通り、
座った状態でこれを着けると呼吸困難になる、という何とも悲しい状態がまだまだ解消されそうにありませんでしたから、基本的にこのスピーチカニューレを付けられるのは、自分があお向けに寝ていられる時だけでしたね。というわけで、実質はまだ自分の力でしゃべるというのはこの時点ではまだまだ出来ないって感じだったよなぁ…。
ところで話は変わるのですが、自分の口からしゃべれなくなると本人もそれを自覚してなのか、口そのものを動かそうとしなくなるんですよ。
誰かに何かを問われたとしても、首を縦や横に振って自分の意思を示そうとしたり……とにかくだんだん人間が横着になってくるんですよ、これが。
これはスピーチカニューレを装着して一時的にしゃべることができるようになった状態でも、自分のその行動パターンはあまり変わりませんでしたね。本人の中でも『この傾向は非常にマズイ』という認識はあるんですが……しゃべることができなくなると自然とそうなっていってしまうんです。
言い換えれば『何に対しても、だんだん無気力になっていく』という感じだったと思います。
この時点で実はまだ全体の3分の1にも達していないんですよね。約10ヶ月か……我ながらホント、長く辛い入院生活でした。
そんなわけで、過去の入院生活の記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、こちらからどうぞ。
■頭髪を丸刈りボー図頭に
ところで、この頃頭髪を丸刈りボー図頭にしました。自分は病気になるまでは、普通のいわゆる『五部分け』のような髪型だったのですが、
それをこの時期、長さ6ミリ程度のボー図頭にバッサリと切ってしまいました。その理由は割と単純。
先月の記事でも触れた通り、この頃の自分はお風呂に入れませんでした。1週間に一度程度は髪を洗ってもらえたとはいえ、正直頭がずっとかゆい上体が続いていたんですよね。おまけにこの頃の自分は、頭にはシラミのようなものまで沸いていたという話だったし。
で、この時期の自分はほぼ外部の人間と接触する機会が無かったし、悲しいかな、必然的に外見を気にするような必要もありませんでした。なので、だったらいっそのこと-。というわけで、看護士さんにバリカンでバッサリと切ってもらいました。
それにこの頃の自分には『今は修行中の身だから』などという、今考えると自分でも訳のわからない理屈が働いていて『退院するまでは髪はボー図で』という、ちょっとナンセンスな思いが働いていました。
でもまぁ、結果的にはこのボー図頭からの流れで今も割と短いスポーツ刈りの髪型は、2011年8月現在も続いているわけで、今考えるとこの事は自分にとってはちょっとしたエポックメイキングな出来事ではありました。
それとどうでもいいことですが、この時期自分が突然『かなり短いボー図頭』になったことが当時入院していた看護士さんたちの間で話題となり、
あろうことか、自分のシャリシャリした頭を触ることがちょっとしたブームになってしまいました。何でも自分の頭は割りと形がいいらしく、かつ自分のシャリシャリした頭は、タワシを触っているみたいで気持ちが良かったとのこと。
…まぁ別にいいですけどね。それとこの頃の自分は『それ』から逃げられるほどまともには動けなかったし、この頃の自分はほとんどの時間をベッドの上に寝転がっているか、そうでなければ車椅子に座っていたので、立って歩いて動いていた、周りの看護士さんたちからは、自分の頭は撫でやすい、丁度いい高さにあったことも、こんなことをされていた要因だったのかもしれませんね。
■この頃、食事を摂る方法を少し変えました
03年10月頃の入院生活に触れた記事でも紹介した通り、この頃の自分の食事を摂る方法は一般的な『食事を摂る』方法とは明らかに異なっていました。
その方法は、片方の鼻の穴に細長いチューブのようなものを突っ込みそのチューブを点滴台に引っ掛け、その上でそのチューブから流動食を自分の体の中へ1時間ほどかけてゆっくり流し込んでいく-。というような方法で、毎日の食事や水分を摂っていました。
そもそも何でこんな面倒な方法で食事を摂っていたのかというと、この時点での自分は、普通に口から食べ物を飲み込んだ時にその飲み込んだものが胃ではなく肺にいってしまい、この状態をほったらかしにしてしまうとあっという間に肺炎になってしまうからでした。
なので、この方法であれば口から食事を摂ることができないこの時点での自分でも安全に栄養を補給することができたわけなのですが、この方法には少し問題もありました。
それは常にこの『栄養を摂るためのチューブ』を装着していなければならないため、それに伴って必然的に点滴台を抱えて移動しなければならず、また体に常にチューブのような『長いコードのようなもの』がついているため
非常に動きにくい。今までは自分もそんなに自分自身で動くことができなかったのでそれほど問題にはなってこなかったのですが、この頃の自分は入院当初と比べればだいぶ動けるようになっていました。
言い換えると、この『栄養を摂るために装着しているチューブ』がリハビリの明らかな邪魔になってきていました。
そこでお医者さんから提案されたのが、今回紹介する方法で栄養を摂る方法。それは胃瘻(いろう)と呼ばれるものを腹部に取り付け、そこから胃へ直接栄養を送り込もうというものでした。
これを腹部に取り付ければ前述の『鼻チューブ』は完全に要らなくなるわけだし、体には腹部に15cm程度のチューブが『チョロ』とついているだけなので、リハビリをする時にもこれまでよりも格段に動きやすくなります。
体を動かす時の制限はほぼ無く、普通の人と何ら変わらないとさえいえます。
で、この胃瘻を腹部に取り付けるためには、全身麻酔を打ってから簡単な手術で取り付けることになるのですが
その前に自分には『胃カメラ』と『バリウム』を飲み込まなければならないという、非常に憂鬱な問題をクリアしなければなりませんでした。
しかも胃カメラを飲み込む時には、体を左向きに寝転がって飲みこまなければならず、大変大変苦しい思いをした覚えがあります。
それにバリウムは妙に甘くて気持ち悪かったし……でもまぁ手術事態は30分程度で終わったし、あとは全身麻酔の効果で3時間ほど眠っていたらしいので、手術そのものは本人の中では『何となく』終わってしまったような感じでしたね。この手術をした後も『毎日の『食事』を摂るために1時間程度掛かるのは変わらないわけだし。
でも前述の『鼻にチューブが常に挿し込まれている状態』が無くなっただけでも、本人的にはかなり楽にはなりました。ま、考えてもみてくださいよ。
今までは常に、自分の鼻の穴の中(片方)にチューブのようなものが挿し込まれていたんです。つまり、自分の鼻の穴の中には1日24時間、ずっと違和感があったわけですよ。
この『違和感』から開放されたというだけでも、今回のこの胃瘻取り付けの手術は本人的にはやって本当に良かったという感じでした。
■人生で初めて車椅子を漕ぐ
先月の終わり頃、ようやく止まっている車椅子に2時間ほど乗っていられるようになったこともあり、リハビリの先生の薦めもあってこの頃から車椅子を自分の手で漕ぐリハビリをするようになりました。
ところで自分は生まれてこの方、この頃まで車椅子と触れ合うことが一切無かったので知らなかったのですが、車椅子の車輪というのは
タイヤの部分の他に、乗っている本人が車椅子を漕ぐ時のために別の車輪が、タイヤの内側についていたんですね……これは自分で車椅子を漕ぐまで本当に知りませんでした(汗)、恥ずかしながら。
ところで、この時点の自分には視力なんぞはほぼ無かったので、実際には車椅子本体を漕ぐことはできたとしても、その車椅子が一体どこに向かって進んでいくのか?というのが全く分からない、自分の意思でコントロールできない状態でした。
なのでこの時の自分が車椅子を漕ぐ時は、誰かに車椅子の前で手を『パン、パン』と叩いてもらい、その音を頼りに車椅子を漕いでいました。何だか自分が犬になったようで情けないのですが…。
でもまぁ、車椅子を漕ぐという動作は、ある程度の腕力、握力が必要なわけだし車椅子に座っていることがそんなに負担にならないということも、一つの条件になってきます。
そもそも『車椅子を漕ぐという動作』は特に腕力や握力を鍛えることになっていたと思いますから、やはりこの時点での自分には必要なことだったのでしょうね。例え犬のような扱いをしてまで車椅子を漕ぐことになったとしても。
■この頃のその他のリハビリメニュー
ところで、上では車椅子を漕ぐリハビリについて紹介したのですが、ここではこの頃にやっていた、その他のリハビリについても紹介しようと思います。
この頃の自分は他にこんなリハビリを主にしていました。
1.リクライニングベッド(自分が普段寝ていたベッド)を目一杯起こし、なるべく座った状態に近い姿勢にして両腕の体操。
2.ベッドサイドに座り(もちろん解除されて)、自分の目の前に配置された簡単な机(たぶん机の脚が1本だけの単純なものだったと思う)を支えにして座る練習
3.これと平行して、先月までにしていた口元のリハビリと手の指の可動域を広げるための運動も続行
とまぁ、これだけではよく分からないと思うので、例によってちょっと補足説明。
ただし、3.に関しては先月に書いていた内容とやっていたことは全く同じなので、その内容については03年11月の事を記した記事を参照してください。
ではまず1.について。この頃の自分は両腕に関しては入院当初よりもだいぶ動くようになり、両腕ともだいたい自分の肩の高さと平行くらいの位置までは腕が上がるようになっていました。
また、ここまで腕が動いてくれれば自分自身の意思があれば体操のような動きもできるわけで、この頃から約半年くらいの期間、
自分は両腕をひたすら動かす、擬似ラジオ体操のような動きを黙々と繰り返していました。腕を上げたり下げたり、腕を前に出してパンチを繰り出すような動きをしたり-。それこそ、こんな単調な動きを
朝50回3セット、昼と夜もご飯の前に同じだけ、みたいにノルマを自分の中で課して、毎日毎日繰り返しこなしていました。
実はこのリハビリは誰に言われるまでもなく、ほとんど自主的に始めたものだったのですが、こうして書くと『毎日単調なだけでただ辛いもの…』のように聞こえてくるかもしれないですね。
ただ本人の中では実はそうでもありませんでした。ここまで読んできてもらった方にはお分かりでしょうが、自分は相当体のレベルが低い状態から回復を目指してリハビリを始めることになりました。
でもそのおかげで、リハビリをしていて自分の体の状態が良くなっていく、リハビリの成果が現れていくのがかなり目に見えて分かってくるんですよ、これが。
それがまた、TVゲームのRPGの主人公のレベルアップをしているようで、これが結構楽しかったりしていました。毎日毎日リハビリを繰り返していると、どこからともなくファンファーレが流れてきて『♪きうっちはレベルが上がった!』みたいな(笑)。
そして2.について。同じように座る練習について先月の段階までは『車椅子になるべく長く座る』練習をしていました。ただ、上でも書いているようにこの頃の自分は車椅子にはだいぶ座れるようにはなってきていたので
今月からは少し段階を上げて、ベッドサイドに腰掛けた状態で、自分の目の前に設置された机を支えにしてベッドサイドに座る、という練習をしていました。
…まぁこんな事は何の障害もない、普通の人から見たら『そんなの簡単じゃん』という感じかもしれないですが、実はこれ結構大変だったんです。
この頃の自分の下半身、腰から下の部分はまだ感覚があまりありませんでした。ベッドサイドに座っていても、ベッドが下にあるはずのお尻の感覚はほとんどなくて
何だか雲の上に座っているような、ふわふわしている変な感覚でした。それに加えてベッドサイドに座っていたので、ベッドの下の床を踏みしめているはずの両足。
このベッドサイドに座る練習をしていた時、自分ははだしだったので本来床を踏みしめている感じはかなりあったはずだったのですが、この頃の自分には床を踏みしめている感覚がほぼありませんでした。
それどころかこの頃の自分は膝から下の感覚がまだほとんどない状態だったので、自分の足が床についているのかどうかということも全く分かりませんでした。
で、自分のお尻の感覚は上で示したようにふわふわした雲の上に乗ったような感覚で、とても不安定な感じ。そんなわけで、本来ベッドサイドに座った上で自分の目の前にある机に両腕を乗せて支えているのなら
自分の体は両足の裏、お尻と両腕で支えられているので、とても安定している姿勢だったはずなのですが、既に述べているようにこの頃の自分にはお尻から下の感覚がほぼ無かったので
机の上に乗せていた両腕の力だけで、ベッドサイドに座っていた自分の体を支えていたようなものでした。で、こういう状態だとどうなるのか?
両腕の力だけで自分の体を支えていたことになるので、当然自分の体は安定しません。例えるなら、両腕が『ニョキニョキ』と生えたダルマが、自分の目の前にある机にしがみついて
必死に自分の体を立たせているようなものでした。だからこの頃の自分はこの姿勢から片方の腕だけでも外そうとすると、当然ダルマのように『…コテン』と横に転んでしまうことになっていました。
しかもこの体勢で座っていることは、この時点での自分には10分でも大変なことでした。そんな自分が情けなくなってきて、自然と涙がぽろぽろとこぼれてきたこともありました。
あの涙は思えば何をやっても上手くいかなかった、当時の自分への憤り、悔し涙だったのでしょうね。まぁでも、あれを乗り越えてこられたから今の自分があるわけで、ロクに苦労もしてこなかった自分には『いい薬』になったのかもしれないな-。今はそんな風に思うことにしています。
■この頃の自分の体の状態
ところで、これで03年分の入院生活の記録は全て書き終わりました。で、ちょうど区切りがいいので
ここでこの時点での自分の体の状態を整理しておこうと思います。
・手足の状態
入院当初の頃と比べると、両腕はかなり動かせるようになりました。腕はまだ自分の力で自分の頭の近くまで上げることはできませんが、前方にパンチを繰り出す姿勢を取ったり、だいぶ自分の力で動かせるようになりました。
一方、両足はこの時点でも入院当初の頃と変わらずピクリとも動きません(涙)。それどころか両足とも膝から下はほとんど感覚がありませんでした(さらに涙)。
この頃の自分は『本当に足が再び動かせるようになるのか?また自分の両の足で歩けるようになるのか?』という不安と毎日戦っていましたね。正直、それを考えると毎日気分が本当に憂鬱でしたよ……それでも再び足が動かせると信じて、毎日不機嫌モードになりながらも歯を食いしばって懸命に『今動く』腕の方のリハビリを必死にこなしていましたけど。その『厳しすぎる現実』を少しでも考えないようにするためにも。
・腹筋など、その他の体の状態
この時期、自分の腹筋はまだほとんどありませんでした。普通の人は平らなベッドから自分の腹筋の力だけで『ムクッ』と起き上がることができると思うのですが、この時期の自分にはそんなことはとてもできませんでした。例え起き上がろうとしても、自分の首がほんの少しだけ起き上がろうとするだけでしたね。
その代わりといっては何ですが、手や手の指の力はだいぶ上がってきました。入院当初の握力はほぼゼロ、計測不能という感じだったのですが
この時期握力は左手が7、右手が5くらいまで戻っていました。1ヶ月前までは押すことさえできなかったナースコールも、割と押しやすいパッド型のものならどうにか押せるレベルにはなりましたね。これも毎日、ゴムボールをニギニギしていた成果が出たのかな…。
・毎日のトイレやお食事
この2つに関しては、以前照会した状態とほとんど変わっていないですね。唯一変わったことといえば、上で示した通り、
食事(流動食)を摂る方法が、片方の鼻の穴に挿していたいわゆる『鼻チューブ』から上で紹介した『胃瘻』に変わったことくらいですかね。
トイレ(排泄物を出す)をする方法に関しては本当に変わっていないので、03年10月分の頃の入院生活の様子を記したこちらの記事を参照してください。
・この時点で体に取り付けられていた医療器具
入院当初、自分の体には点滴やら呼吸器やら体に医療器具が結構着いていたのですが、この時点では
それらはほぼ無くなっていましたね。この時点で体に着いていた医療器具といえば、上で紹介した『胃瘻』と膀胱から自力で出すことができない尿を出すためにつけていたおしっこの袋、通称バルーンカテーテルくらいのものでしたから。ちなみにおしっこのバルーンカテーテルについての詳しい解説は過去のこの記事を参照してください。
自分が動く時には常に一緒に動いていた点滴台も無くなり、自分の周りが非常にスッキリして、入院当初の頃と比べれば遥かに動きやすくなっていたと思います。
・それ以外の体の状態
一応上で挙げた以外の体の状態を記しておくと、耳はかなりハッキリ聞こえていました。いいのか悪いのか、脳の意識は相当ハッキリしていましたね。ま、だからこそこんな『入院回顧録』を長々と書くことができるのでしょうが…。
それとこの時点では『におい』はかなりハッキリと分かりました。隣のベッドに寝ていた患者が食べていた食べ物のにおいが漂ってきて、本人はすごく嫌な思いをしていましたけど…。
と、ここまでが体の『正常に動いていた部分』のお話。ここから先は体の『異常をきたしていた部分』のお話。
この時点でも目は全然見えませんでした。もっとも、今も『全盲の視覚障害者』を自認しているのだからそんなのは当然なのですが…。
また基本的にしゃべることもまだ出来ませんでしたね。『スピーチカニューレを装着する』という裏技を使えばどうにか声は出せたのですが、これも以前紹介した通り、
座った状態でこれを着けると呼吸困難になる、という何とも悲しい状態がまだまだ解消されそうにありませんでしたから、基本的にこのスピーチカニューレを付けられるのは、自分があお向けに寝ていられる時だけでしたね。というわけで、実質はまだ自分の力でしゃべるというのはこの時点ではまだまだ出来ないって感じだったよなぁ…。
ところで話は変わるのですが、自分の口からしゃべれなくなると本人もそれを自覚してなのか、口そのものを動かそうとしなくなるんですよ。
誰かに何かを問われたとしても、首を縦や横に振って自分の意思を示そうとしたり……とにかくだんだん人間が横着になってくるんですよ、これが。
これはスピーチカニューレを装着して一時的にしゃべることができるようになった状態でも、自分のその行動パターンはあまり変わりませんでしたね。本人の中でも『この傾向は非常にマズイ』という認識はあるんですが……しゃべることができなくなると自然とそうなっていってしまうんです。
言い換えれば『何に対しても、だんだん無気力になっていく』という感じだったと思います。