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●漫画・・「宇宙エース」

 コーラのお婆ちゃんが居なくなった、ということで、小さな集落のみんなで探しに出た。集落の人たちは、ほとんど農家だったけど、無論、中には学校の先生や勤め人も居た。僕の家は「電気屋」さんと呼ばれていた。僕の家族の住んでいる家は、長屋で、隣家の主は電気工事士だった。斜め前には「絵描きのおばちゃん」という、資産家の人が居たし、真ん前はもともと農家だが、僕の友達の親父は刑事だということだった。田圃と畑と連なる小山ばかりの地域だったが、今から考えると、あの集落にはけっこう、公務員や勤め人も多かったようだ。僕ん家の住む長屋の、隣家も、僕が生まれた当時までは小学校教員の家だった。僕ん家の住む長屋の庭を挟んで、柵の向こうにも長屋が有り、そこの一軒に、学校の勉強が成績優秀な高校一年生くらいの息子が居て、僕の兄の勉強を見てもらっていた。兄は当時、小六くらいだった。その家のご主人は身体を悪くしていて、奥さんが働いていたんだと思う。

 コーラのお婆ちゃんは夕方、暗くなってから居なくなった。庭向こうの優等生の息子を、僕の家の者はみんな、「前の兄ちゃん」と呼んでいた。僕の住まいの長屋には、「電気屋」の事務所が隣接していて、事務所から考えれば「前」の家は、親父さんが刑事の「ヒサボウちゃん」家になる。僕ん家、窓の縁側から見れば「前」は、長屋の「前の兄ちゃん」の家になる。僕は、懐中電灯を持った「前の兄ちゃん」に着いて、コーラのお婆ちゃん捜索に参加した。15歳くらいの「前の兄ちゃん」の手をしっかり握って、一緒に闇の田舎道、田圃道、山道を歩く僕は、当時5歳になっていたろうか。無論、4歳5歳当時の、僕の記憶がはっきりしている訳がない。この村中での捜索の記憶で、僕の頭にぼんやりと残っているのは、コーラ(コウラ)の家から村落を横断する河川まで続く、山沿いの小川を何人かの集落の人たちと一緒に、「前の兄ちゃん」の手をしっかりと握りながら、「コーラのお婆ちゃん」の名前を呼びながら、歩いた場面くらいだ。もっとも、似たような場面の記憶もある。「前の兄ちゃん」の手を握りながら、同じ小川沿いの細い道を歩いた記憶。そっちは真っ暗い夜道を、無数の蛍の光を眺めながら、歩いた記憶だ。どっちも同じ場所で、夏場のことだが、シチュエーションが全く違う。その晩はみんなで手分けして、あちこち深夜まで「コーラのお婆ちゃん」を探した。

 「前の兄ちゃん」にしろ、中三かせいぜい高一くらいだし、僕は四、五歳の幼児だ。よく覚えてないが多分、他の、捜索する大人たちより先に退き上げてると思う。僕の実兄は小六くらいだろう。この夜の、実兄や父母の記憶がない。父母は多分、別口で捜索に当たってたんだろう。その頃の噂では、コーラのお婆ちゃんは嫁に虐められていた、という話だった。その「虐め」の内容の細かい話は知らないが、そういう噂で、そのことを四、五歳の僕が当時、実際耳にしていたかは記憶になく、後に僕がもう少し大きくなって、母や母の友人知人たちとの会話の中から、聞いた話なのかも知れない。中でも、「虐め」の話の内容で生々しいのは“食べ物”の話で、当時、意地悪な嫁は義母に、ご馳走を食べさせるのが嫌で、別々の膳で、自分らだけカニを食べ、お婆ちゃんは後でゴミ箱にカニの残飯を見つけ、カニの甲羅を一生懸命ほじってわずかなカニの身を口に入れた、という話があった。まあ、僕としては後から聞いた逸話なんだけど。聞いた話としては、嫁の姑苛めが目立ってひどかったらしい。別に、幼い時分の僕が直接目にした訳ではなく、あくまで僕のまた聞きないしマタマタ聞き、くらいの、まあ昔の噂話ですけど。

 それで、この、コーラのお婆ちゃんの失踪は事実で、その晩の、集落を挙げての捜索も事実で、捜索にあたった人たちのほとんどは、その夜の深夜、ないし未明には捜索を、その晩は打ち切って退き上げたが、翌朝の早朝、僕ん家の親父、「電気屋」の親父が遺体を発見した。多分、親父は何人かの有志と共に夜っぴて、明け方も捜し続けていたんでしょうね。川に橋のたもとから入水して死んでいたらしい。何でも親父が引っ張り上げたらしいが、多分、その後だろう、立ち会った警察が自殺と判断したらしい。お婆ちゃんの遺体が自宅に運ばれた時、まあ、僕はよくは解らないけど、姑苛めをしていたという、まあ、鬼嫁さんですよね、この嫁が、家の座敷に姑の濡れた遺体を置くというので、座敷の畳の上にバーッと新聞紙を何枚も広げて敷いた。この時、カツヨさんというおばちゃんが、「布団を敷いて。この家で一番上等な布団を敷いてちょうだい。布団は私が買って返すから!」 と怒鳴って、嫁に布団を敷かせて、みんなで、ずぶ濡れのお婆ちゃんの遺体を布団に寝かせたという。

 この日の二、三日後、コーラのお婆ちゃんが入水して死んだ川のほとりから、離れた自宅方向に向かって、大きな火の玉が飛んで行った、という逸話があった。勿論、深夜の話だが、目撃した警察官が腰を抜かして、しばらく立てなかったという噂話だった。当時、僕の周囲の人たちは“人魂”とは呼ばず、“火の玉”と呼んでいた。僕も貸本で水木しげるなどの怪奇漫画を読むまでは、“人魂”などという呼び方は知らなかった。僕の幼少時には、「火の玉目撃談」の話がいっぱいあった。でも、どれも「私が見た」という話ではなく、「誰それが見た」という、また聞きやマタマタ聞きや噂話だった。で、それからしばらくして、この、まあ、僕自身はよくは知らないのだが、後から聞いた噂話では鬼嫁だった、この嫁は、コーラのお婆ちゃんの息子である亭主と離縁して、実家に戻った。コーラのお婆ちゃんの息子はその後、再婚した。“コーラ”といっても、勿論「コカコーラ」のコーラではなく、亀の“甲羅”の字でもなく、多分、“こうら”に当てる漢字のある、苗字だったんだろうが、今の僕には確かな苗字の漢字は解らない。4、5歳の年齢だった僕には、“コーラのお婆ちゃん”の記憶もない。多分、会ったことはあろうが、おとなしいお婆ちゃんだったという印象が何となくあるが、はっきりはしない。息子の顔も全然記憶に無い。しかし、噂に寄る“鬼嫁”の“コーラのおばちゃん”は覚えている。一緒に写った写真がある。4、5歳当時の僕が自転車に乗り、周りをまだ若い母親と、当時の家の近所の人たちが囲んでいる、一枚の古い写真。“コーラのおばちゃん”は巨漢だった。いつも真っ白い割烹着を着けていた。僕ん家の隣の若夫婦のおばちゃんも太っていたが、“コーラのおばちゃん”は比べものにならないくらい太っていた。

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 で、話は“カツヨさん”である。カツヨさんは、当時の僕の母いわく「おりこうさん」だった。今から考えるに、本当に、当時の僕の周囲に居た大人たちの中では、頭の良い人だった、という印象がある。母のいう「おりこうさん」とは、別に「狡賢い」という意味ではなく、単に「頭が良い」とか、人間関係の処理がうまい、コミニュケーション能力が高い、とかいう意味だったんだと思う。カツヨさんは長い間、福祉事務所か市の福祉課に勤めていた。詳しいことは知らない。カツヨさんは僕の母親よりも年長だし、ひょっとしたら親父と同じくらいか、もう少し年上だったのかも知れない。数年前86歳で亡くなった僕の親父と同い歳か、もう少し上だったら、今、どうなんだろう?という年代である。無論、僕自身、40年以上会ったことはないが、僕が東京圏からUターンで帰って来た最初の年、次の仕事にまだ就いてなく、ぶらぶらしていた時、街の中で昼間、遠くから見掛けた。無論、遠くて声など掛けていない。それでももう、30年近くも前になる。ただ、僕の子供時代のカツヨさんは福祉関係の仕事に就いていて、スカート姿だが、いつでも女性用の上下スーツを着用して、アップにした髪形からお化粧も、いつでも上品できちんとしていた。多分、決して美人という相貌ではなかったんだとは思うが、今から思うに目の光など、頭の良さを窺わせていたように思う。酒好きだった印象は、よく覚えている。

 カツヨさんは子供好きで、小学生低中学年の僕をよく、街の大衆食堂に食べに連れて行ってくれた。一度、食堂で、一緒になった隣テーブルの客が、養護学校か養護学級かの生徒数人と引率の若い男性教師だったのだが、その子供たちの騒がしいお喋りや先生とのやり取りに、僕はちっともおかしくはないのに、カツヨさんは楽しそうに聞いて、吹き出すように笑っていた。無論、馬鹿にした笑いではなく、心から愛すべき者への楽しそうな笑いだった。僕はそのシーンを今でも、印象深く記憶している。その時は「変なの」みたいな感想だったけど、後からあのシーンを思い出すと、カツヨさんの慈愛と子供好きがよく解る気がする。僕の幼年期から少年時代、僕の家にはカツヨさんを含め、たくさんのいろいろな人たちが、毎日のように訪ねて来ていた。親父の会社関係の人たち、集落の人たち、近所の人たち、街の人、母親の友達。あの時代、電力会社に勤めていた親父は、ある種、ヒーローだった。親父が電力会社を中途で辞めて家が破産し、親父が大借金を抱えたまま愛人のもとへ行き、家庭崩壊と同時に大貧乏に陥るまでは、家にはいっぱい人が来ていた。親父が居なくなって、引っ越したオンボロあばら家には、誰も来なくなった。仮に誰か来たとしても、母親も働き始めていたし、家には社交的でない田舎者の母方の祖母しか居ない、というのもあった。長年、事務所でたまの電気料金受領業務くらいしかしたことのない、ほとんど専業主婦だった母親は、いきなり仕事を始めて疲労困憊し、日曜は一日寝てたし、病院に掛かることも増えていた(その内寝込み、その後入院した)。親父が居なくなりあばら家に越してからは、それまでの何十年もの間に来ていた人たちが、本当に誰も来なくなった。カツヨさんもそれきりだ。勿論、だからカツヨさんが冷たいのではなく、自然とそうなったのだろう。母親も世間身分的には、「電気屋の奥さん」から落っこちた訳だし。僕が、それまでの友達と会いたがらなかったように、多分、母親も落ちぶれた自分を見せたくない気持ちもあったのではないか、と思う。

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 ここの記事のタイトルが、漫画作品の「宇宙エース」で、ここまで読んで来られて、何だ、「宇宙エース」なんてちっとも出て来ないし、「宇宙エース」に関係するような記述もまるで無いじゃないか、と噴飯もので思われる方も多いと思いますが、これからが「宇宙エース」なんです。“コーラのお婆ちゃん”や“カツヨさん”など、大昔の地方の一地域の片隅で生活していた一・一般人の話ばかりで、どうやって昔のSF少年漫画の「宇宙エース」に繋げるんだ、と思われるでしょうが、まあ、このBlogの記事はBlog主の僕の漫画に関する、ごく個人的なエピソードの書き込みも多く、ここも、僕の記憶のエピソードが細かく書き込まれているだけで、これから「宇宙エース」の話は出て来ます。

 子供好きのカツヨさんは、小学生当時の僕をよく、当時の自分の住まいに連れて行って、ご飯を食べさせて泊めてくれた。仕事を持っているカツヨさんは、たいてい土曜の夕方から連れて行ってくれてたんだと思う。確かに記憶しているのは二泊で、一泊目は僕が小二か小三頃、カツヨさんが大きな家の二階を、今でいうシェアハウスみたいにして下宿的に借りていた当時、僕が一泊して、日曜の朝、目が覚めると枕元に貸本漫画がいっぱいあったのをよく覚えている。二泊目はそれからしばらく経って、僕が小三か小四時で、カツヨさんは当時長屋に一人住まいしていた。玄関ドア前の小さな畑で採れたオクラなどの野菜などで、夕飯にご馳走を作ってくれた。この時、カツヨさんと二人で夕飯を食べている時に、TVで「宇宙エース」がやっていた。これはしっかりと記憶している。モノクロアニメの「宇宙エース」放映は、当時のフジテレビで65年から66年の一年間だから、多分、65年の初夏頃のことなんじゃないかなあ、と思うんだけど。当時の「宇宙エース」放送は、毎週土曜日の夕方だったし。

 と、まあ、これが随分長い、長過ぎる、SF冒険漫画「宇宙エース」に関する、ワシ自身のごくごく個人的なエピソード。で、ここからが「宇宙エース」そのものについての説明です。

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 「宇宙エース」は僕が小学生の頃、集英社の月刊誌で連載され、TVアニメとして放送され始めてからは大人気の、子供向けの漫画・アニメ作品だった。宇宙からやって来た、スーパー超能力少年・宇宙人のエースが、地球の平和を守るため、地球のマッドサイエンティストや凶悪組織、地球侵略を狙う異星人団たちと、パールム星人の超能力や科学力を使って、知恵と勇気で、人類の敵たちと戦い抜き退治する、というSF冒険漫画作品。集英社の月刊誌「少年ブック」新連載が、1964年7月号からですね。まだあの、東京オリンピックの前だ。それから約二年間も連載が続いて、「少年ブック」の66年5月号まで掲載され続けたんですね。「宇宙エース」は、当時の「少年ブック」の看板漫画の一つで、常に本誌カラーページからB6判別冊付録へと続く形の掲載でした。アニメ化は雑誌連載開始から一年遅れて、1965年5月から調度一年間放送されました。TVはフジテレビで、66年4月末まで全52回放送。勿論、当時のアニメはモノクロ放送です。タツノコプロの製作第1号アニメで、当時は大人気放映されてました。あ、「宇宙エース」の後番組が、「ハリスの旋風」だったんですね。漫画とTVアニメの終了は、調度同時期ですね。

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 「宇宙エース」の雑誌連載もTV放送も、始まりから終了までの間、僕は小学生時代で、TV放送も多分、毎週見ていたんだと思います。僕ん家の近所の貸本屋が店閉まいするのが、僕が小五の春くらいだったんじゃないかと思うから、僕は、「宇宙エース」連載当時の「少年ブック」は、たいていは貸本屋さんで借りて読んでますね。たまには購読してたと思いますが。「宇宙エース」が当時の僕が特に大好きだった漫画作品という訳でもないですが、当時は、TV人気に煽られて朝日ソノラマソノシートを買って来て、レコードプレイヤーで聴いたりして楽しんでいました。小学生六年間の僕の、家での遊びは、毎日の鉛筆漫画殴り描き、でしたから、「少年ブック」の別冊付録やソノシート冊子のカラーイラストを真似て、鉛筆描き漫画で僕オリジナルの「宇宙エース」を描いてました。まあ、頭の悪い小学生ガキの単純で他愛も無い鉛筆描き漫画ですけど。まあ、この当時の僕の「漫画描き」は描き上げて冊子にまで作り上げたからといって、別に誰か他人に見せる訳ではなく、オール自己満足です。まあ、当時の僕には、家では常に五、六人の空想の友達が存在してましたから、エア友達の彼らには、いつも見せていたのかも知れない。評価も貰っていたのかも知れないなあ。実際、独り言の一人芝居ですが。まあ、当時は僕の、決して裏切らない友達、だったのかな。でも、小学生時の僕は、学校や放課後には、現実の友達も多かったんですけどね。

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 「宇宙エース」の作者、吉田竜夫氏は1950年代から大活躍していた売れっ子漫画家で、62年に漫画製作のプロダクション、タツノコプロの原型を作りました。漫画「宇宙エース」は64年の吉田竜夫とタツノコプロの作品ですが、もともと、基本的なアイデアは当時の東映動画がアニメ企画として持ち込んで来たもので、企画自体はアニメ先行型だったんですね。実際のアニメ化は、漫画連載から一年遅れた66年(65年)からですけど。タツノコプロは「宇宙エース」を皮切りに、どちらかというと雑誌漫画よりもアニメ製作に力を入れて行きましたね。アニメ作品は「宇宙エース」の次が「マッハGoGoGo」、それから「おらぁグズラだど」「ドカチン」「紅三四郎」「ハクション大魔王」「いなかっぺ大将」から「科学忍者隊ガッチャマン」などへと続いて行きます。吉田竜夫先生は、僕が漫画を読み始めた幼少時、もう既に幾つもの雑誌の看板漫画を抱える、超売れっ子漫画作家でした。1932年生まれだから、昭和13年か。77年に惜しくも45歳という若さで急逝されてますが、吉田竜夫先生も、日本漫画史に足跡を残す偉大な漫画作家の一人ですね。

 (追記)。忘れてた。“コーラのお婆ちゃん”の話で、“コーラのお婆ちゃん”の死んだ後の逸話には、発見された橋のたもとから自宅まで大きな火の玉が飛んだ、って話の他にもう一つ、逸話があった。噂話。当時は昭和30年代半ばくらいの時代で、個人の家庭の火力はほとんどが、まだ、薪、石炭、炭、豆炭、練炭とかだった。だから家庭には一人、薪割りの係りが居た。特に風呂、竃、暖取り用ですね。コーラ(コウラ)の家では、薪割りの係りはお婆ちゃんだった。コーラのお婆ちゃんの死後、夜中になると、この家の裏で、生前、お婆ちゃんが薪割りしていた場所あたりから、薪を割る音が聞こえて来ていた‥、という噂話。この家はねえ、民家が集まった場所からちょっと離れた、山沿いの一軒屋だったんだよねえ。家の前面は広い田圃、裏はもう山々。怖かったろうなあ。ちなみに当時の僕ん家は電力会社の一応、社宅だったから、電気使い放題で、風呂も調理も暖取りも全部電力だった。親父は戦争から復員して良いところに就職してた。まあ、あの時代に、親父に電気技術があったからなんだろうが。途中からがなあ‥。

(2021-2)YouTube動画で中森明菜の♪I Missed The Shock を聴いてたら、僕は80年代アイドル歌手の代表的な一人、中森明菜の歌では「I missed the shock」がことの他好きだったんだが、昔、この歌を鼻歌で替え歌で歌ってたのを思い出した。その替え歌を歌ってた時分、缶チューハイでコーラショックというアルコール飲料が売り出されていて、要するに普通のチューハイがソーダ割りならコーラショックはコーラ割りの酒なんだけど、この商品のテレビCM 見てて“コーラのお婆ちゃんの話”を思い出して、替え歌を作って鼻歌で歌ってた。替え歌の内容は、お婆ちゃんを苛めてた鬼嫁の太ったオバサンが夜なんか一人で家に居ると、誰も居ない筈なのに、裏庭から斧で薪を割る音が聞こえて来る。コーラのオバチャンはショックを受ける。そういう内容の歌詞を勝手に作って、中森明菜の♪I Missed  The Shock のメロディーに乗せて鼻歌で歌ってた。サビの♪アイミスドザショック·ショック…、という部分を♪コーラショック、ショック、コーラのオバサン·ショック、ショック…、というふうに暇なとき独りで口ずさんでいた。という何でもない、ドーデモイイ話。しかしまぁ、あの当時のあそこの家は山沿いのぽつんと一軒家だったから、誰も居ない筈なのに斧で薪を割る音が聞こえて来たら、そりゃあ怖かったろうなぁ。アルコール飲料·コーラショックと中森明菜のヒット曲とコーラのお婆ちゃんの怪異譚とを掛けた僕の独り言みたいな替え歌の話でした。

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