約束の地をめざして

I STILL HAVEN'T FOUND WHAT I'M LOOKING FORー めぐりあう人々と出来事とともに

大阪地検特捜部の証拠改ざん・隠ぺい事件について

2010-10-04 23:08:15 | 世相・ニュース・TV番組


 こんばんは。なかなかゆっくり丁寧なブログは更新はできないのですが、今日も短い時間で上記テーマについて、専門的視点ではなく、自分自身の背景からなる視点で書きたい。事件のくわしい概要は多く知れ渡っており、またネットニュースなどでも今からでも見ていただけるであろうから、割愛します。とにかく厚生労働省村木厚子元局長冤罪事件に関する、大阪地検特捜部のフロッピーディスクの証拠改ざん・隠ぺい事件のことについてです。

 自分は司法については素人である。だから検察についても、特捜についても世間並みか、あるいはそれ以下かもしれない。しかしそんな自分でもこの事件は本当に驚かされた。正義を貫くべき検察の、しかも特捜部が、何を目的に、映画やドラマでも考えつかないような、犯罪ストーリーの「見立て」に合うようにフロッピーディスクの改ざんを行わねばならなかったのか。

現在事情聴取中のため、真相はまだわからない。大阪特捜のエースと言われた前田恒彦検事が、プレッシャーの多い特捜の仕事の中で、自分の評価や積み上げた立場を守るためだったのか。あるいは大阪、東京、両方の地検全体を考えてのことだったのか。そして、その改ざんを告白した前田検事に対して「俺に任せろ」と佐賀元明前特捜副部長が言ったのか、言わないのか、まだわからないが、それで故意の改ざんから過失による改ざんとされるようにしたのか。あるいは、本当に過失だったのか。

 司法については素人だが、僕は公務員として長い間 市役所勤めをしていた。仕事はあまり出来る方ではなかったが、一応立場的には行政マンだった。その中で大切にされ、守らなければならないことは、市民からも業者からも、他行政機関から突っ込まれても、きちんと弁明でき、市側がまっとうな判断の上、この職務を成し遂げたことを言葉や、特に決裁文書で残すことであった。そこで市の信用と、そこに関わった担当部署や職員の信頼が高まっていったのである。その逆であったら、最悪、市は訴えられ、裁判で負けることになる。それで一職員が法的に責任を負わされることはめったにないとは言え、その後の人事や立ち位置には響いてくることはありうる。

だから、自分も現役の職員だった頃は、ずいぶん言葉と書類作成には気を使った。自分の場合、言葉はいまいち乱暴だったが(反省)、書類作成には本当に気を遣いすぎるくらい使った。まあ、すべてが完璧でしたとは言い切れないが、でも一所懸命やった。それは職務を全うしようとしてやったのだが、同時に自分が何か誰かに突っ込まれないように、また法的にひっかかることはないように、正直自分を守ることも常に考えていた。

しかし今回のこの大阪特捜の一連の事件は、何をどう考えて、何を守ろうとしてFDデータを改ざんしたのか、よくわからないのだ。故意であれば、何のために故意の改ざんをしたのかわからないし、過失による改ざんであれば、なぜそれを早々と公表して非を認めず、こんなになるまでそのままにしておいたのか、わからないのだ。僕の知識不足・情報不足かもしれないが。
どういう基準で、どういう判断をしたのか、その芯がはっきりわからないのだ。うまく説明できないが、彼らが故意でも過失でも、何を一番大切にしようとしたのか、わからないのだ。

 今日は僕の学んでいる東京神学大学で、受講者4名だけの臨床牧会教育という授業があった。メインワークは精神科専門病院の病棟内での実習だが、その中で担当教授と学生でグループディスカッションする時間もある。その中で、われわれ将来牧師をめざす者たちとして考えねばならないモラルの問題を話し合った。

当大学は小さな大学だが、勉強はかなりの量をやらねばならない学校なのである。だから知的にはかなり鍛えられる。しかし、知的な神学という学問を修めただけでは、その学びは必要だが、将来どこかの教会に赴任してから、それで牧師としてすべてやっていけるわけではない。その学びと並行して、人格形成、実践訓練、また社会人としての生活訓練が必要なのだ。だからあまりにも知的に学ぶ部分の神学に打ち込むだけだと、時にはアンバランスな学生や卒業生が排出されてしまう可能性がある。私たちが現実の社会でぶつかるのは、生身の人間であり、生の世の中の現実なのだ。その時に筋の通った社会人としてのモラルや、真実で誠実な人間関係が持てなければ、その人の語る言葉は説得力を持たない。

今日はその授業で、現在当大学の学生にありがちな社会人としてのまだまだ未熟な部分を、お互い反省しながら、将来この社会のただ中で牧師として生きる上で基本的なモラルについて改めて話し合った。その芯にあるのは、人が見ているかどうかではなく、人が見ていなくても、神の前に生きるひとりの人間として恥ずかしくない生き方と社会的責任を全うしていくことである。

 人のモラルとは、もちろんケースバイケースはあるが、大きな意味でシンプルなものである。だから今回の事件はシンプルさが失われていて、複雑な動機が絡み合っている気がするのだ。この社会の正義を本当に追及しなければならない機関が、根幹において、誰にでもわかる正義を貫く機関として、再出発するつもりで、誰にでもわかるように、この事件の真実を明らかにしてもらいたい。


けいぞうツイッターはこちら→ http://twitter.com/keizzo 

(関心のあるジャンル↓ にクリックお願いします。ブログアクセスランキングに反映されます。)
にほんブログ村 エッセイ・随筆
にほんブログ村 ロック
にほんブログ村 キリスト教・クリスチャン

人気ブログランキングへ (←こちらもクリックよろしくお願いします。別ランキングに反映されます。)