水瓶

ファンタジーや日々のこと

指させるもの・させないもの

2016-12-24 11:44:07 | 日記
言葉には、指させるものを示す言葉と、指させないものを示す言葉がありますよね。
指させるものは物で、指させないものって概念ていうのかな?
たとえばペンとかリンゴって指でさし示せるけど、それこそ「概念」を指さしてみろって言われても指せない。
「思想」を指さして示してみろって言われたら、そうだな、、、哲学者とかの本指すかなあ。
民俗や歴史の本をよく読むようになったけれど、民俗も歴史も指さして示せる物(人や都市などの特定の土地や、起きた出来事とかの事物も含めて)を通して見てゆくもので、そういうのが自分は好きなんだな、向いてるんだな、と最近思うようになりました。
一方で、指さして示せない言葉が多く使われる本は、もともとそんなに読んでたわけじゃないんだけれど、あんまり読まなくなりました。
そういう本は大抵すごく難しいってのもあるんですけれど、なんか怖いんですよね。
火を素手で扱おうとする感じがして、すごく怖いと思うようになった。

歴史には、現在当たり前にあるそれが、どうして当たり前になったのかっていう経緯を見てゆく面があるんだと思います。
ある国や土地や民族での当たり前が、他の国や土地、民族では当たり前じゃないって、よくある話ですよね。
日本では玄関から家に上がる時靴ぬぐけど、アメリカとかじゃ靴のままベッドに寝ちゃうとか、
(フルハウスっていうアメリカのテレビドラマ見て結構びっくりしました。外歩いて来た靴のままじゃ汚いじゃん!って。)
イスラム教徒の人が豚肉食べないとかヒンズー教徒の人が牛食べないとか。
どうしてそうなったか、歴史的背景、文脈といってもいいかなと思うけど、そういうことが理解できる、納得できるのが歴史で、
それってすごく大事なんだと。
概念的な言葉って純粋で、原理的というんでしょうか、文脈や歴史的背景を無視して(普遍化して?)語れる便利な一方で、
とても危うい面もある言葉だと、けっこう強く自覚してないといけないんだと思うようになりました。
ええと、たとえば概念的な言葉で語る時に起こりやすい大きい弊害の一つには、理想とか目的を果たすのに、
大多数の人間の受容能力を無視して、すっとばした結論や方法を選んじゃうような所があるんじゃないかなと。
大規模で高い理想や目的ほど、時間をかけて少しずつやってかないと、弊害が大きいだろうと。
なんかこのこと、年取るほどすごくうなずけるようになってきて。
実は私、もともとそういうことがすごく苦手なんですよね。せっかちで。
でも、せいてはことをしそんじる、って言うじゃないですか。実際よく仕損じて来たんですさ。もー懲りたよ、おらぁ。

「音楽」も指し示すのにちょっと困るかな?こないだ音楽はレコードそのものだって書いたけど、
あれも音楽を指し示せって言われたら、レコード指すと私はそれほど違和感ないんです。あと楽器とか、歌手の人とかもあるかな。
でも私はレコードがないと、「音楽」指し示すのに少しちゅうちょしてしまう。
なんだか音楽が落ち着く所を失ってふらふらさまよってる気がするって、そういうことなんです。
私はまだ、物がないと不安なんだと思います。
物は、ろうそくの火のまわりにかけるランプシェードみたいなもので、それがあって初めて安心して火を使える。

でも多分未来って、どんどん指でさし示せるものを減らしてゆく方に進んでゆくんだろうなとも思います。
身体の不自由さを感じさせなくなってゆくこと。物に縛られなくなってゆくこと。どこの誰であろうとみんな同じになってゆくこと。
それは多分一つの理想なんだとも思うんだけれど。究極のバリアフリー。
ただ、うーん、人間に体がある限り限界はあると思うんだけれど、なんか今のITとか医療の進歩具合とか見てると、
そういう限界もある時パッと越えちゃったりするのかもと。イーガンの小説みたいにプログラムとして生き続けるとか。
その辺りはもう、私にはちょっと想像できない。。。

なんかつかみどころのない話になってしまいましたが、三人ぐらいの人がわかってくれたら上々な話なんです。
なんせ自分でもまだよくわかってないので。。。
まあ今はまだ、重い体を引きずって生きてゆくほかないんですけどね。それもつらい悲しい話なんだけど、ちょっと安心します。
なぜならそうして生きて来た人が過去にいっぱいいて、それが当たり前だったからだ。

と、なんかクリスマスイブになんだかアレな終わり方もいやなので、「恋はあせらず」
シュープリームスではこれが一番好きかな。ロックは聞けなくなったけど、モータウンはいけるだ。
あ、でも音楽ってさ、時間をかけて少しずつってやり方で、かなりいいサポート効果出すんじゃないですかね。

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