さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

J・F・ケネディの時代(3)

2017-11-16 | 20世紀からの世界史
 
大統領就任式(1961年1月)
 
大統領就任式でケネディは演説した。「我が同胞アメリカ国民よ、国が諸君のために何が出来るかを問うのではなく、諸君が国のために何が出来るかを問うてほしい。・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい。」
 
ケネディの演説は格調高いものだったが大統領就任は波乱の幕開けでもあった。1960年代は米ソ対立が最も厳しい冷戦時代であり、ヨーロッパでは分割されたドイツを起点に東西陣営が睨み合い、中東ではイスラエルとアラブの対立が一触即発の危機にあった。共産化への革命の嵐は「ドミノ理論」と言われ、アジアではベトナム戦争が始まり、アフリカ、南米各地では独立を叫ぶ革命が相次いでいた。
 
 
キューバに向かうダグラスA-4D2
 
アメリカの直ぐ南キューバではカストロが前年に革命を起こし、旧バティスタ政権の亡命キューバ軍がアメリカを頼りに巻き返しを計画していた。前大統領アイゼンハワーの承認を得ていたCIAダラス長官は就任早々のケネディに作戦を説明、カストロ体制打倒の許可を求める。仰天したケネディだったが、アメリカ軍の直接介入はしない条件で許可する。1961年4月、作戦は実行されたが爆撃機によるキューバ基地空襲、上陸作戦ともに大失敗に終わった。
 
失敗の原因は新大統領とCIAとの意思疎通が不十分だったこと、カストロ政権に作戦を知られていたこと等があるが、この「ピッグス湾事件」の大失敗によりケネディは世界から非難される。当初カストロはアメリカと協力関係を保ちたかったが、アイゼンハワーからも無視をされ、ケネディからは戦争を仕掛けられた。止む無くアメリカを見限り、キューバ政権はソ連の傘下に入る。ソ連にとってキューバは重要な戦略的な基地になるので渡りに舟である。
 
 
フルシチョフとのウィーン会議
 
米ソの間では際限のない東西対立、軍備拡大、核実験禁止、ベルリン問題と問題は山積みだった。1961年6月にケネディはソ連首相フルシチョフ(1894~1971)とウィーンで会議の場を持った。フルシチョフはエリートのケネディとは違い貧困層出身の叩き上げだが、そのしたたかさと観察眼は鋭く隙はない。10万人が粛清された「スターリンの1938年大粛清」で200人の中央委員会役員の中で生き残った3人の1人である。67歳の東の雄と44歳の西の雄は通訳のみの首脳会談で対決した。
 
ケネディは強気一辺倒のフルシチョフには少したじろいた。中でも東ベルリンから西ベルリンへの人口流失問題に手を焼いていたフルシチョフは先手を打ってきた。「東ドイツの中に西ベルリンがあるのは不自然じゃないか。問題解決のため西側はベルリンから撤退してもらいたい。」と要求してきた。ケネディは「西側の権利は断じて放棄することはない。」と応酬する。この会談は双方何の成果もなく平行線に終わったが、ケネディは難題に直面し一歩も退かない交渉で真の大統領になったと言われる。
 
 
検問所で睨み合う米ソ両軍(1961年10月27日)
 
帰国したケネディは西ベルリンを守るため国防費の増額と陸海空三軍の大幅増加を発表した。ケネディの強硬姿勢に対し、フルシチョフは1961年8月、「ベルリンの壁」建設という手段で対抗した。最初は鉄条網、次にコンクリートで西ベルリンの周囲156㎞を囲んでしまう。突然作られた壁により分断された市民の悲劇は言うまでもなく、壁を乗り越えようとして射殺される市民もいた。ケネディはアメリカ陸軍精鋭部隊1600人を東ドイツを通過させ西ベルリンに入れ徹底的に防御する決意を示した。ベルリンの緊張の最中、ソ連は突如核実験を再開する。
 
検問所でにらみ合う両軍の戦車が一触即発の危機になる。対立の中でケネディとフルシチョフは水面下で連絡をとり、両軍の戦車を撤退することに合意、危機は回避された。2年後に西ベルリンを訪問したケネディは30万人を前に市民広場で演説する。「2000年前、最も誇り高い言葉は『私はローマ市民だ。』であった。今日、最も誇り高い言葉は『私はベルリン市民だ。』である。」 西ベルリン市民は歓呼で答える。ケネディ暗殺後にこの広場は「J・F・ケネディ広場」と改名された。(ベルリンの壁は1989年11月まで続く。)
 
 
キューバ海上封鎖宣言に署名
 
ベルリンの壁建設の翌年1962年10月、キューバを偵察していたアメリカ空軍は建設中のソ連の核ミサイルサイロを撮影した。ケネディは緊急に国家安全保障会議を招集する。副大統領、国務長官、国防長官、国連大使、司法長官(ロバート・ケネディ)ら首脳たち14人が集められた。10月16日から13日間に及ぶ核戦争寸前までの張りつめた「キューバ危機」が始まる。様々な議論の中で空爆か海上封鎖に意見は集約される。しかし国連大使スティーブンは「平和的解決手段がすべて無駄に終わるまで空爆をしてはなりません。」と強く反対した。海上封鎖を実行、空爆は進展を待つことになる。
 
キューバでのミサイル建設が急ピッチで進む中、フルシチョフから10月26日「アメリカがキューバを侵攻しないと約束すれば撤去に応じる。」と、翌日「その交換条件としてトルコにあるアメリカのミサイルを撤去すること」と言ってきた。その日、アメリカの偵察機がキューバの地対空ミサイルにより撃墜されると、ほぼ全員が空爆破壊で一致した。ケネディは1日待てと命じ、フルシチョフに「ミサイル撤去が確認された段階でトルコからも撤退する」と回答する。翌朝モスクワ放送のラジオニュースでフルシチョフはミサイル撤去を発表した。
 
~~さわやか易の見方~~
 
***   *** 上卦は水
******** 困難、悩み
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***   *** 下卦も水
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「坎為水」の卦。坎(かん)は険難に陥ることを意味し、坎が二つ重なることから一難去ってまた一難という状態である。次から次へと困難な目にあうことが一生に一度か二度はある。何ものにも恐れぬ信念と至誠をもって立ち向かうしか方法はない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれである。困難の先には平安が待っている。
 
核ミサイルが運ばれていたかは不明だったが、実際に秘密裏に搬入されていたことが解った。後にキューバのカストロはフルシチョフに核ミサイルの使用を呼びかけていたと語ったという。中国の毛沢東はフルシチョフの弱腰を非難したという。キューバ危機は核ミサイルの上でソ連、アメリカ、キューバがダンスをしたようなもので、誰かが一歩間違っていたら核戦争に突入していたことになる。
 
ケネディの大統領在任は2年10ヶ月であるが、核戦争の危機についてこれ程重大な局面はなかっただろう。ケネディ暗殺の翌年にはフルシチョフも突然失脚させられ政界から去った。米ソの対立、中でもこの二人の対決は一つの頂点でもあり分岐点でもあった。両国と世界はこれ以上の核拡散がどんな意味があるのかを真剣に考えるきっかけになっただろう。今も尚、その結論は出てはいない。