カール5世(1500~1558)
今回のドラマはハプスブルグ家の絶頂期に神聖ローマ帝国皇帝として君臨し、ヨーロッパの統一という夢に後一歩及ばなかったカール5世の生きざま。そして何が何でもその行く手を阻止しようとしたフランス王・フランソワ1世との壮絶なライバル対決の物語である。
小心者のフリードリヒ3世の自慢の長男マクシミリアン1世はハプスブルグ家を押しも押されもせぬ神聖ローマ皇帝に相応しい地位に躍進させた。そしてローマ皇帝の権威をフルに活かして、婚姻政策によりハプスブルグ家の勢力を拡大した。マクシミリアンとブルゴーニュ・公女マリーとの間に生まれた美男のフィリップ公をスペインの公女ファナと結婚させ、スペインを支配下に置いた。その長男がカール5世である。
フランソワ1世(1494~1547)
生まれながのエリートであり、帝王学を学んだカール5世は16歳で父、19歳で祖父のローマ皇帝マクシミリアン1世を亡くすと、ローマ皇帝が用意されていた。しかし世襲に待ったをかけ、皇帝選挙に名乗りを挙げたのがフランソワ1世(1494~1547)だった。文化を誇るフランス王国はハプスブルグ家の勢力がスペイン、オーストリア、ドイツに及び、孤立する脅威に晒されていた。カール陣営とフランソワ陣営は双方莫大な資金を投じて選帝侯たちを買収し、選挙に臨んだ。結果はカールが全員の得票で勝利した。
バヴィアの戦い
両国が譲らず死力を傾けていたのがイタリアの各都市を支配下にするイタリア戦争だった。最も有名なのは1525年の「バヴィアの戦い」である。フランソワ1世自ら指揮してバヴィアのハプスブルグ軍を包囲したのだが、夜の闇を突いてフランス軍本隊正面に突入したハプスブルグ軍によりフランソワ1世は捕虜となり、投獄された。翌年、北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード条約を承認し、釈放された。しかしフランソワは二人の息子を人質に差し出したまま、ローマ教皇を巻き込み、条約を無効として戦争を続ける。
オスマンによる第1次ウィーン包囲
その頃、絶頂期を迎えたスレイマン1世が率いるオスマン帝国はバルカン半島から北上し、ハンガリー、ルーマニアを狙っていた。選挙にも戦争にも負けたフランソワがなりふり構わず打った手は、オスマン帝国との同盟だった。フランスと同盟したオスマン帝国は1526年ハンガリーを壊滅させ、ハプスブルグ家と対峙する。1529年、12万の大軍でウィーンを包囲する。ウィーンを守るカール5世の弟フェルディナンドは少ない軍勢で猛攻によく耐えた。折からの冬将軍の味方もあり、オスマン軍は退却する。
カール5世にとって最も深刻にして厄介な問題は皇帝になる前からのルターに始まった宗教改革だった。(*ルターの宗教改革参照) カトリックを守るべきローマ皇帝に対しザクセン選帝侯を始め次々とプロテスタントを名乗る諸侯に悩まされた。カトリックの立場ながらフランソワ1世は反皇帝勢力ならばと陰からプロテスタント軍に資金援助をした。30年に渡る戦争を繰り返す間にフランソワ1世は亡くなり、ようやく解決するところまで漕ぎ着けたもののカール5世はもう一歩で力尽き、念願のキリスト教国統一は夢と散った。
~~さわやか易の味方~~
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
*** *** 下卦は水
******** 問題、険難、悩み
*** ***
「天水訟」の卦。訟は訴訟、対立、争うである。個人、集団、国家、人の世に争いごとはつきものである。この卦は天があくまで上を目指し、水が下を目指すので交わりがない象を表している。しかし、あくまで自説を主張するばかりだと、ますます対立は激化する。つまらぬ意地は捨てて、親愛と強調を心がける必要がある。いつまでも争えば凶を招くので、大人(たいじん)に中に入ってもらうことである。
二人の徹底したライバル対決には驚くしかない。犬猿の仲を何とかしようと、カール5世の叔母・マルグリットとフランソワ1世の母・ルイーズはバヴィアの戦いの4年後に話し合いの場をもった。(二人は義理の姉妹にあたる)其々の領地問題を解決し、和解の証しとしてカール5世の姉・レオノールがフランソワ1世と結婚することになった。(二人とも再婚)しかしそれでも二人のライバル対決は続いた。その年にオスマンのウィーン包囲が起きている。
カール5世の生涯はローマ皇帝として身も心も尽くした働き詰めの生涯だった。長年の統治と戦争に疲れ果て、極度の腰痛に苦しみ56歳で退位した。最後の挨拶は「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい。」涙で演説がとぎれたという。39歳のとき愛妻イサベルを失ったが、以後再婚せず、死ぬまで黒の喪服で過ごした。退位後は妻の眠るスペインの修道院に隠棲し、2年後に死去する。