さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

ハプスブルグ家の物語(3)

2014-11-26 | 名画に学ぶ世界史
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カール5世(1500~1558)
 
今回のドラマはハプスブルグ家の絶頂期に神聖ローマ帝国皇帝として君臨し、ヨーロッパの統一という夢に後一歩及ばなかったカール5世の生きざま。そして何が何でもその行く手を阻止しようとしたフランス王・フランソワ1世との壮絶なライバル対決の物語である。
 
小心者のフリードリヒ3世の自慢の長男マクシミリアン1世はハプスブルグ家を押しも押されもせぬ神聖ローマ皇帝に相応しい地位に躍進させた。そしてローマ皇帝の権威をフルに活かして、婚姻政策によりハプスブルグ家の勢力を拡大した。マクシミリアンとブルゴーニュ・公女マリーとの間に生まれた美男のフィリップ公をスペインの公女ファナと結婚させ、スペインを支配下に置いた。その長男がカール5世である。
 
 
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フランソワ1世(1494~1547)
 
生まれながのエリートであり、帝王学を学んだカール5世は16歳で父、19歳で祖父のローマ皇帝マクシミリアン1世を亡くすと、ローマ皇帝が用意されていた。しかし世襲に待ったをかけ、皇帝選挙に名乗りを挙げたのがフランソワ1世(1494~1547)だった。文化を誇るフランス王国はハプスブルグ家の勢力がスペイン、オーストリア、ドイツに及び、孤立する脅威に晒されていた。カール陣営とフランソワ陣営は双方莫大な資金を投じて選帝侯たちを買収し、選挙に臨んだ。結果はカールが全員の得票で勝利した。
 
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 バヴィアの戦い
 
両国が譲らず死力を傾けていたのがイタリアの各都市を支配下にするイタリア戦争だった。最も有名なのは1525年の「バヴィアの戦い」である。フランソワ1世自ら指揮してバヴィアのハプスブルグ軍を包囲したのだが、夜の闇を突いてフランス軍本隊正面に突入したハプスブルグ軍によりフランソワ1世は捕虜となり、投獄された。翌年、北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード条約を承認し、釈放された。しかしフランソワは二人の息子を人質に差し出したまま、ローマ教皇を巻き込み、条約を無効として戦争を続ける。
 
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 オスマンによる第1次ウィーン包囲
 
その頃、絶頂期を迎えたスレイマン1世が率いるオスマン帝国はバルカン半島から北上し、ハンガリー、ルーマニアを狙っていた。選挙にも戦争にも負けたフランソワがなりふり構わず打った手は、オスマン帝国との同盟だった。フランスと同盟したオスマン帝国は1526年ハンガリーを壊滅させ、ハプスブルグ家と対峙する。1529年、12万の大軍でウィーンを包囲する。ウィーンを守るカール5世の弟フェルディナンドは少ない軍勢で猛攻によく耐えた。折からの冬将軍の味方もあり、オスマン軍は退却する。

カール5世にとって最も深刻にして厄介な問題は皇帝になる前からのルターに始まった宗教改革だった。(*ルターの宗教改革参照) カトリックを守るべきローマ皇帝に対しザクセン選帝侯を始め次々とプロテスタントを名乗る諸侯に悩まされた。カトリックの立場ながらフランソワ1世は反皇帝勢力ならばと陰からプロテスタント軍に資金援助をした。30年に渡る戦争を繰り返す間にフランソワ1世は亡くなり、ようやく解決するところまで漕ぎ着けたもののカール5世はもう一歩で力尽き、念願のキリスト教国統一は夢と散った。
 
~~さわやか易の味方~~
 
******** 上卦は天
******** 陽、大、剛
********
***  *** 下卦は水
******** 問題、険難、悩み
***  ***
 
「天水訟」の卦。訟は訴訟、対立、争うである。個人、集団、国家、人の世に争いごとはつきものである。この卦は天があくまで上を目指し、水が下を目指すので交わりがない象を表している。しかし、あくまで自説を主張するばかりだと、ますます対立は激化する。つまらぬ意地は捨てて、親愛と強調を心がける必要がある。いつまでも争えば凶を招くので、大人(たいじん)に中に入ってもらうことである。
 
二人の徹底したライバル対決には驚くしかない。犬猿の仲を何とかしようと、カール5世の叔母・マルグリットとフランソワ1世の母・ルイーズはバヴィアの戦いの4年後に話し合いの場をもった。(二人は義理の姉妹にあたる)其々の領地問題を解決し、和解の証しとしてカール5世の姉・レオノールがフランソワ1世と結婚することになった。(二人とも再婚)しかしそれでも二人のライバル対決は続いた。その年にオスマンのウィーン包囲が起きている。
 
カール5世の生涯はローマ皇帝として身も心も尽くした働き詰めの生涯だった。長年の統治と戦争に疲れ果て、極度の腰痛に苦しみ56歳で退位した。最後の挨拶は「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい。」涙で演説がとぎれたという。39歳のとき愛妻イサベルを失ったが、以後再婚せず、死ぬまで黒の喪服で過ごした。退位後は妻の眠るスペインの修道院に隠棲し、2年後に死去する。

ハプスブルグ家の物語(2)

2014-11-21 | 名画に学ぶ世界史
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フリ-ドリヒ3世(1415~1493)
 
ルドルフ1世以来、約200年の歳月が流れた。ウィーンに居城を置くハプスブルグ家はそれほど目立った存在ではなかった。その後も野心を抱く皇帝たちに悩まされた選帝侯たちは選出には苦労していた。慎重な人選の結果、久しぶりにハプスブルグ家から起用することになったのが、25歳になったフリードリヒ3世だった。
 
フリードリヒは、貧乏、ドケチ、陰気、臆病、小心者、優柔不断、外見もみすぼらしい、とにかく良いイメージは一つもなかったが、人畜無害が選出理由だ。一つだけ長所と言えることは、とにかく真面目でどんな屈辱的なことを言われても大人しくじっと耐え、悪い状況にも徹底的に逆らわず、好転するまで何年でも辛抱する忍耐力を備えていた。

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エレオノーレとの結婚式

37歳のフリードリヒは1452年、神聖ローマ皇帝として戴冠するためローマへ赴き、教皇から帝冠を授かる。同時にポルトガル王の16才の王女エレオノーレ(1436~1467)との結婚式を挙げた。海上貿易で栄えたポルトガル王家からの莫大な持参金が目的であり、王家ではローマ皇帝との同盟により強国スペインへの牽制が目的であった。
 

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コンスタンティノーブル陥落(1453年)
 
その翌年1453年、全ヨーロッパを震撼とさせる事件が起きる。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノーブルがオスマン帝国により陥落。皇帝コンスタンティヌス11世の戦死により1000年の歴史を誇る帝国が滅亡したのである。その勢いでオスマン軍がヨーロッパに攻めてくるのではないかと諸侯たちは危機感を募らせた。しかし皇帝フリードリヒは対策を立てるどころか城に籠ったまま諸侯たちを招集しようともしない。人畜無害だが余りにも頼りない態度に選帝侯たちは失望し、フリードリヒを選出したことを後悔した。
 
約10年が過ぎた頃、身内からも批判が集まり、業を煮やした弟のアルブレヒト6世は遂に兄帝の留守中にクーデターを起こす。皇后エレオノーレと幼い皇太子マクシミリアンをウィーン宮廷内に幽閉し、兄帝を締め出した。屈辱に耐えていると、弟アルブレヒトはその強圧的支配のため市民に暗殺される。又、軍事力にものをいわせ勢力を拡大するハンガリー王から領土を奪われ、ウィーン城を追われたこともあったが、やがてその王が子を残さぬまま死亡したので城に戻ったりもした。

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マクシミリアン1世(1459~1519)

唯一の希望は自慢の長男マクシミリアンだった。母エレオノーレに似て美男で陽気、8歳で母を亡くしたが、文武に優れ明るく伸びやかに育った。その長男にフランス・ヴァロワ家の分家・ブルゴーニュ公国のシャルル突進公が目をつけた。公女マリーと結婚させ、ローマ皇帝という権威を借りて、公国をさらに発展させようと野心を抱いた。フランス王国と対立する程の領土と豊かな経済力があったので、フリードリヒはその縁談に乗り婚約する。

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マリー・ド・ブルゴーニュ(1457~1482)

ところがその名の通り積極的過ぎるシャルル突進公はフランス王国との戦争で戦死してしまう。フランス王国のルイ11世は一気にブルゴーニュを手に入れようと、公女マリーとフランス王太子と結婚させようとしたが、マリーはマクシミリアンと結婚する。二人は仲睦ましく順調だったが、5年後、第4子を妊娠中に落馬事故によりマリーが亡くなる。ブルゴーニュはフランス王国の介入と市民の反乱により、マクシミリアンは捕らわれの身となり、父フリードリヒに救いを求めた。

73歳になっていた戦嫌いで臆病者のフリードリヒだったが、最愛の息子のために諸侯に帝国軍を召集する。召集というよりは、「お願いします。」という呼びかけをすると意外にも1万を超える軍隊が集まった。一世一代の虚勢を張って、早速息子の救出に向かい、無事にウィーンに連れ帰った。その後皇帝を世襲したマクシミリアンはブルゴーニュの経験を活かし、ハプスブルグ家の中興の祖としての盤石の地位を築いていく。

フリードリヒ3世は戦いを避け、のらりくらりと時間を稼いでいると、自然と相手が自滅し、元の鞘に収まった。幸運にも恵まれ、何と53年間の歴代最長期に渡りローマ皇帝を勤めた。在世中の評判は最悪だったが、結果的にはハプスブルグ家を興隆に導いた名君といえるのではないだろうか。
 
~~さわやか易の見方~~
 
***  *** 上卦は雷
***  ***
********
******** 下卦は山
***  ***
***  ***
 
「雷山小過」の卦。小は陰の意味。小過(しょうか)とは陰に過ぎる。消極的、大人しい、引っ込み思案に過ぎるということで、発展や躍進とはいかない。お通夜の席では静かに俯いていることが相応しいように、発展や躍進が必ずしも良い訳ではない。大人しく生きることも一つの生き方であり、その方がむしろ低姿勢で良いという場合もある。
 
「人畜無害」だからと選ばれたフリードリヒ3世であるが、結果的には問題も起こさなかったし、世の中は平和に治まっていた。突進公のような生き方は傍からは勇壮で英雄のようであるが、国民にしてみれば戦争ばかり起こされ迷惑この上ない。とかく上に立つ者は何かをしたがるものだが、何もしないということも時には重要なのだろう。じっとして動かないことは、何かと動くより難しいものである。易でも状況の悪い時にはじっとしていることを説いている。やはり、フリードリヒ3世は名君だったと思う。
 
ブルゴーニュのマリー姫は美しく活発であり、市民から「我らの姫」と呼ばれる程人気があった。その姫を田舎者のハプスブルグ家に盗られてしまった上、事故で亡くされてしまった。フランス王国からすれば、王太子を袖にされた上、欲しかったブルゴーニュの領地まで奪われた。フランスとハプスブルグ家の対立はここから始まり、300年も続く。次のカール5世とフランソワ1世の激しいライバル関係はヨーロッパを二分する戦いとなる。

ハプスブルグ家の物語(1)

2014-11-16 | 名画に学ぶ世界史
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ルドルフ1世(1218~1291)
 
ヨーロッパ史を語る上で、ハプスブルグ家は外すことは出来ない。神聖ローマ帝国の皇帝としての地位に最も多く選ばれ、ヨーロッパを代表する名門貴族でもあった。その栄光と衰退のドラマは長編小説になってしまうのだが、ここでは3つのドラマとして語ってみたい。先ずはハプスブルグ家がどの様にして歴史の表舞台に登場したかのドラマである。
 
時代はルネサンスの始まる200年位前の中世・13世紀、十字軍遠征が何度も失敗に終わりローマ教皇の権威が危うくなってきた頃である。その頃、ローマ教皇とナポリ・シチリアに居城をおく神聖ローマ帝国の皇帝・フリードリヒ2世は戦争を繰り返すほど対立していた。イタリアやドイツの諸侯たちは皇帝側と教会側に別れて混乱を極めていた。1250年、皇帝フリードリヒ2世の死後、遺児が皇帝を継いだが4年後に亡くなる。次の皇帝が決まらない空白時代が続く。
 
強大な勢力を持つフランス王が名乗りを挙げるが、御し難いからと教皇側が反対する。ボヘミア地方で勢力を拡大してきた選帝侯の一人オタカル2世が名乗りを挙げるが、野心的過ぎると警戒した他の選帝侯たちが反対した。フリードリヒ2世が余りに教皇に対立したため混乱したことから、新皇帝は穏健派が相応しい。なかなか決まらないまま20年以上が経った。混乱を治めるため、教皇グレゴリウス10世は7人の選帝侯たちに早く決定するよう強く求めた。
 
そこで選帝侯たちは一計を案じてスイスの田舎にハプスブルグ城を構える辺境伯ルドルフを選んだ。「ルドルフなら兵隊も1000人足らずしかなく間違っても変な野心は抱かないだろうし、歳も既に50を超えている。」「取り敢えずの繋ぎとしては毒にも薬にもならないが、人畜無害で良いのではないか。」「いずれしかるべき皇帝を立てようじゃないか。」「皇帝にしては見劣りがするのでドイツ王ということにしよう。」そんな話し合いの結果、ニュルンベルク城伯のフリードリッヒが使者として出かけることになった。
 
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ルドルフ(右)にドイツ王選出の話をするフリードリッヒ伯
 
ルドルフは隣の領主との領土争いの陣中にいた。そこに旧知の仲であるフリードリッヒがやって来る。フリードリッヒの話に「冗談を聞いてる暇はないぞ。これから総攻撃をするところなんだ。」「冗談を言う為にこんな田舎に俺が来る訳はないだろう。本当の話なんだ。マジなんだよマジ。明日フランクフルトに来て貰いたいんだ。」ルドルフは吃驚したが、本当の話だと知って直ぐに相手と和睦を結び軍勢を引き揚げる。翌日、礼装のルドルフは選帝侯会議の行われるフランクフルトに向かった。1273年9月のことである。
 
思わぬことからドイツ王に即位したルドルフは、自らに課せられた運命と受け止めドイツ王として諸侯の上に君臨する決意を固めた。ドイツ王選出を伝えたフリードリッヒは自分の方が有力貴族であったが、真っ先に臣下の礼を取ったという。早速、帝国内の諸侯を招集し君臣の礼を取らせた。しかしこの儀式に参列しない諸侯もあった。皇帝に名乗りを上げ失敗したオタカル2世とその仲間たちである。ルドルフを貧乏伯爵と嘲る彼らは臣従することを拒否する。ルドルフは3度の機会を与え召喚すると、従った諸侯もいたがオタカル2世だけは従わなかった。
 
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マルヒフェルトの戦い
 
そこでルドルフはオタカル2世に対し帝国諸侯としての一切の権利を剥奪し、帝国から追放するという「帝国アハト令」を宣告した。ドイツ王としての実力を試される機会が来た。諸侯へ帝国軍を募るとオタカルに反感を抱くハンガリーを筆頭に3万人が集まった。オタカルのボヘミア軍は2万5千。1278年8月、オーストリアのマルヒフェルトで両軍は激突、ハンガリー軍の活躍、事前にルドルフが配置した伏兵も功を奏しボヘミア軍は総崩れ、オタカル2世も戦死した。
 
この戦いの勝利によりハプスブルグ家がオーストリアを所領とすることになった。。貧乏伯爵として三流貴族と思われていたルドルフであるが、次第にその政治的能力と人情深い人間的魅力は諸侯の知るところとなる。とくに弱小の諸侯たちはルドルフの人柄に惹かれ信奉者が増えていった。ルドルフは諸侯の反感を買わないように、4年間もオーストリアに足を踏み入ることはなかったが、諸侯たちに催促され、ようやく城を移すことにした。

~~さわやか易の見方~~
 
******** 上卦は天
******** 陽、剛、大
********
*** *** 下卦は雷
*** *** 活動、発想、志
********
 
「天雷无妄」の卦。无は無、妄は望。无妄(むぼう)とは思いもかけぬことが起きる。晴天の霹靂。天の下にいきなり雷が鳴る象である。人生には時として思いもかけない出来事に会うことがある。良いことも悪いこともある。問題はその出来事に対してどう受け止めることが出来るかである。狼狽えたり、舞い上がったりするようでは、たとえそれが幸運でも自分のものにすることは出来ない。運命としてしっかりと受け入れる心がけが大切である。

ハプスブルグ家にとって思わぬ幸運が天から舞い降りてきた。ルドルフが自らに与えられた運命として受け止めたことが偉大なところだろう。それが出来たのは、それ以前にその実力があったからに他ならない。田舎の領主に過ぎなかったが皇帝フリードヒ2世にもその遺児にも忠実であり、義理堅い男という評判だったという。又、ハプスブルグ家の特徴は子沢山であり、一族間にもめ事が少ないことでもある。名門貴族になる素質はそんなところにもあったのではないだろうか。

ハプスブルグ家はその後次第に名門貴族の地位を築き、その権威は20世紀まで継続する。あのナポレオンが皇帝となり、その地位を世襲しようと考えた時、連れ添っていたジョセフィーヌと別れオーストリア皇女マリー・ルイーズを妻にした。ヨーロッパの盟主になるにはハプスブルグ家の血が必要と考えたからである。王制を廃止してきたナポレオンさえ、ハプスブルグ家には一目置いていたことを証明している。

スペインのコンキスタドール

2014-11-02 | 名画に学ぶ世界史
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コルテス(1485~1547)
 
コロンブスによる新大陸発見以来、16世紀のスペインでは新しい島や陸地を征服したものをコンキスタドール(征服者)と讃え英雄扱いだった。スペイン王室は征服に成功し、入植した者に土地と住民の統治を託すというエンコミエンダ制を敷いた。そこでコンキスタドールたちにとっては、早い者勝ち、分捕り放題、成功すれば国王にもなれると野望は膨らむ。そんな環境に育った19才のエルナン・コルテスはコロンブスが発見したイスパニョーラ島に渡り植民者となる。

26歳のとき、キューバ征服を計画したベラスケスの一団に参加した。その勇猛果敢な働きによりベラスケスの秘書官になったコルテスは鉱山経営や牧畜を学び原住民を支配する方法を覚えた。34歳になったコルテスはベラスケスと対立し、500人の兵士、馬16頭、大砲を積んだ帆船11隻を率いてキューバを去る。メキシコ湾岸にベラクルシ市を建設、さらに内陸にあるアステカ帝国に向かう。アステカの周辺の部族はアステカの過酷な重税に不満を募らせていたので、コルテス軍は不満部族を結集してアステカに迫った。約2年間攻防を繰り返したが、1521年、コルテスはアステカ帝国を滅ぼした。
 
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アステカ帝国の成立から滅亡までを描いたディエゴ・リベラ作「メキシコの歴史」
 
コルテスがアステカ帝国に迫ったとき、最初アステカ王は戦いを回避して和睦しようと、黄金を差し出した。するとコルテスたちは和睦の挨拶にこれ程の黄金を出すのだから、宮殿には何百倍の黄金があるに違いないと考えたという。住民によれば、スペイン人は飢えた豚のように黄金を欲しがったと伝えている。征服者たちが禽獣と化した最大の理由は黄金である。中南米には至るところに金山や銀山があり、原住民を奴隷として使役することにより莫大な財産が手に入った。

コンキスタドールたちは多くは本国では認められることもない身分の低い、一攫千金に命を賭けた男たちだった。正規の軍隊など持たず、わずかな私兵を連れての遠征である。ほとんどの男たちは失敗に終わったが、成功しても仲間争いや、インディオたちからの復讐などで裕福に暮らした例は少ない。コルテスは38歳にしてカール5世(スペイン王を兼ねた神聖ローマ帝国皇帝)より総督に任命され、さらにカリフォルニアの探検、ホンジュラスやニカラグアへの征服を命ぜられる。55歳で総督の地位を失い62歳にて死去。

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フランシスコ・ピサロ(1470~1541)

1533年、南米のインカ帝国を征服したのはフランシスコ・ピサロであるが、仲間だったコンキスタドールを殺し、自らはその息子に殺された。コルテスもピサロも相手の文化には全く理解なく完膚なきまでに粉砕し、大量虐殺、強姦、略奪行為により征服した。原住民たちを金山、銀山で奴隷として強制労働をさせ、気に入った女たちは妾にした。一時的にはその地で君臨したが、やがてスペインの貴族たちにその地位は追われた。

~~さわやか易の見方~~
 
***  *** 上卦は水
******** 艱難、災難、悩み
***  ***
***  *** 下卦も水
********
***  ***
 
「坎為水」の卦。坎(かん)は艱難に陥ることを意味している。艱難を表す水が上下に重なるところから、一難去ってまた一難というように最悪の卦である。こんな時にどう処するかは最も苦労を必要とする。困難に打ちひしがれるだろうが、その苦労に堪えることにより人間が鍛えられる。すぐに解決する道はない。しかし信念を忘れず、忍耐することにより必ず次の時代は来るものである。
 
原住民にとっては飛んでもない災難に襲われたようなものである。中米にも南米にもそれぞれ紀元前からオルメカ文明やマヤ文明が存在していた。何万年の間、別の歴史を辿っていた訳であるから、文化に相違はあるが、アステカ帝国やインカ帝国も独自の文化があり、社会があった。人口もアステカ帝国には1100万人がいたし、インカ帝国には80部族の中に1600万人もいた。コンキスタドールの侵略と同時にスペインから持ち込まれた天然痘により人口は10分の1にも減少した。労働力が不足するとアフリカから黒人を奴隷として送り込まれた。

「大航海時代」と名付けられた征服と侵略の時代は約200年間続く。やがて国を挙げての植民地政策となり、20世紀に至るまでヨーロッパの繁栄には欠かせないものとなった。それが当たり前の文化となり、この野蛮な行為を批判する人もいただろうが、少数意見として無視された。その時代のヨーロッパ諸国はまるで理性を失った獰猛な獣たちのようだと言わざるを得ない。植民地にされた住民たちは屈辱と忍耐を強いられ、独立を勝ち取るためには、その後200年から300年、あるいはそれ以上の長い期間を要した。