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第9回京都学生祭典を見学

2011-10-11 21:20:09 | その他

 毎年秋に「京都学生祭典」が開催され、その活気あふれた若者の演技から「元気」をいただくために数年前からその一部を見学させてもらっている。昨年までは、踊りを中心とした岡崎会場と音楽を中心とした京都駅会場に分けて2日間かけて実施されたが、今年から両方を岡崎会場で1日で実施することになり、かなり混雑することを心配したが、天候に恵まれ久し振りに人波にもまれた半日を過ごした。
 京都市は、人口147万人の約1割に相当する17万人の学生が住んでいる学生の町である。
「京都学生祭典」は、その企画立案・運営~広報・警備・営業活動などすべての行事を学生が担当して実施するユニークなプロジェクトで、配布された資料に示された共催・後援・協賛団体をみると、京都の産・官・学・地域が一体となってプロデュースした祭典である。
 企画種目は年々充実されているが、今年はその中の「京炎 そでふれ!」コンテストに絞って人垣の隙間から覗くことができた。

 「京炎 そでふれ!」コンテストの会場は、平安神宮から赤鳥居までの神宮道に7ステージが設けられ、二条通との交差点に中央ステージがあり、神宮道にそって北側に3ステージ、南側に3ステージの合計7ステージで7分ごとに競演する。この演技には幼稚園から社会人まで全国各地から年齢やジャンルを問わない120団体が参加し、夜には決勝戦まで勝ち残ったトップ演技を楽しむことができる。

            
                             
 京都会館では、ドリーム・オーケストラや京都スチューデント・ミュ-ジック・アワードが開催されており、岡崎公園と岡崎都市公園では名産店めぐりや縁日が楽しめる。
 とにかく、これだけのイベントが同時開催できる施設のそろっている場所は岡崎しかない。しかし観る立場から言えば、行事が詰まり過ぎて現場で戸惑ってしまう。来年は音楽中心に楽しみたいと思っている。


山科区民フオーラムに参加

2011-10-05 22:42:14 | その他

 今年は「第二期山科区基本計画」が策定され、今後10年の町づくりをスタートさせる年として、10月01日に記念行事「やましな区民フオーラム」が京都市東部文化会館ホールで開催された。

 定員500名のホールをほぼ埋める参加者の下で、フルートコンサートのあと橘大学・織田直文教授の司会で、「多世代を惹きつける魅力に満ちた山科区をつくろう!」をテーマにして門川京都市長もパネリストとして参加し、活気ある討論が実施された。
 司会の織田教授は、主導しておられる「山科盆地景観委員会」でお世話になっている先生で、時間いっぱい議事進行を務められた。

 当日の午前中もう一つの行事として、山科の歴史を探索する二つの団体「ふるさとの会」と「やましなを語り継ぐ会」の~山科のいまむかしを知る“山科「温故知新」パネル展”が開催された。
 とくに興味があったのは、琵琶湖疏水の灌漑用水路網が高低差のある地域に誘導されているのを、高低差地図と関係図面でくわしく説明していただいた。
 
私は山科に移り住んで約10年になるが、山科の歴史を知らぬまま過ごし、最近になって研究会や市民団体にも参加し、いろいろと教えていただき、語り合う仲間も増えてきた時期で、今回のイベント参加は私にとって有意義であった。

 


京都市にも空襲被害があったという話題

2011-08-22 10:25:37 | その他

 毎年8月15日の太平洋戦争の終戦記念日が近づくと、戦争に関連した思い出話しの報道や展示会が開催される。今年は、立命館大学の国際平和ミュージアムで開催された「戦争展」で強制疎開の実態をマップで勉強(前報で紹介)し、東山図書館では強制疎開の様子を描いた絵画と東山区馬町の空襲被害の資料を見学した。

 私は、米国の日本歴史研究者であるウオーナー博士が文化財保護の立場から、京都市を空襲の対象から外してくれるよう進言したという古い知識しか持っていなかったが、戦後に米国極秘文書の公開で事実でないことが判明していた。これによると、京都市には20回に及ぶB-29機の飛来があり、東山区馬町と上京区西陣で爆弾が投下され、大きな被害があったという事実が数年前から新聞情報としてあったことをネット検索(京都空襲で数万件のサイト)で見付けた。
 さらに、京都が大規模空襲を免れたのは、原爆の投下候補地として温存されていたという記事もあった。馬町の空襲は昭和20(1945)年01月16日に警報なしに空襲があり、爆弾が投下されて、死者41名、300戸が被災し、西陣では同年6月26日(終戦の少し前)に空襲警報があり、爆弾7発が投下されて死者50名292戸が被災した。当時は機密事項として細部の報道もなく、手紙による連絡も禁止されたという。
 私は、数年来京都の歴史といえば琵琶湖疏水に集中していたので、地元に住んでいながら空襲の事実を知らなかったが、今年は東北大震災があったため新聞を読む範囲も広がり、疏水以外の京都の歴史に触れることが多くなった。私は空襲被害を軽減する目的で、道路の拡幅(建屋の強制疎開)のための住宅撤去や空襲による実被害など京都市が無傷でなかった事実を知り、改めて人災・天災の怖さを痛感した夏であった。
 私自身、三重県桑名市への勤労動員のとき、米機による機銃掃射の経験があり、故郷の伊勢市も焼夷弾攻撃の被害(我が家は無事)も経験した。金沢の旧制高校時代は、運動場に避難壕を掘り,敵機襲来に備えた。最近では世界各地で住民を巻き込んだ戦争が絶えない。その悲惨さを伝える戦争展を見て、いろいろと思い出させていただいた。


空襲対策のため強制疎開された京都の住宅

2011-08-12 20:17:03 | その他

 最近、西本願寺北部に立地する醒泉小学校の山科郊外学舎について調査を実施したときに、強制疎開の命で撤去された住宅についても情報の提供があり、併せて検討したが、空襲の被害のなかった京都市でも、延焼防止の目的で多くの住宅が終戦間際に強制撤去された事実を知った。その報告書をホームページに投稿した直後に、立命館大学平和ミュージアムで、第31回「平和のための京都の戦争展」が開催され、“京の建物疎開展”が含まれていることを京都新聞報道で知り、見学させていただいた。
   

     
    2011-08-03-4513  展覧会案内           2011-08-03-4507  強制疎開の対象になった地域コーナー

 本土の空襲が本格化した昭和19(1944)年7月から、京都市では空襲による延焼防止の目的で堀川通・御池通・五条通などが強制的に拡幅(5m→50m)され、その作業が終戦の日まで続けられた。このために約1万戸の民家が立ち退かされたのである。この状況を説明するために、実行委員会では戦前の住宅地図30枚をつなぎ合わせ、その上に拡幅された道路の輪郭を赤ペンで重ね書きし、撤去された住宅がわかる地図に仕上げてあった。
 醒泉地区で住宅撤去の被害者となった土山年雄さんから、終戦の4ヶ月前に3日間で立ち退くように命令されたと聞いている。また、「醒泉学区強制疎開の記録(太田嘉三)」の痛ましい記録のコピーを土山さんからいただいたが、展示会の説明者によると、強制疎開の実態を示す文書が整理保存されていないのが残念として、今回の展示の意義を強調されていた。私と同年齢と推定される見学者とも語り合ったが、強制疎開の経験者が多く、戦争の痛ましさを痛感した一日であった。


旧京津線三条駅にあるZEN庭園

2011-07-17 14:59:01 | その他

 世にバブル景気と呼ばれた平成初期、京津線三条駅跡地(6400平方メートル)に京阪百貨店の建設を中心とした再開発計画が発表され話題になったが、バブルが崩壊して具体化できず、しばらく駅舎が放置されていた。平成15(2000)年になって2010年までの暫定処置として複合商業施設「KYOUEN」がオープンし現在に至っている。今回は施設の中央に存在する「ZEN庭園」について紹介する。
 地下鉄京阪三条駅を下車して地上にでるとバス停が並んでいるが、その東側に細長い2階建ての建屋があり、料理店を選ぶことができる。この建屋の中庭がZEN庭園であり、自由に出入りすることができる。外側の北西部に有名な高山彦九郎座像が存在する。
 この庭園は、現代的感覚で庭園を設計することで有名な菅宏文さんの作品である。鍵となる石造物に、旧三条大橋の架台に用いられた石柱(加工品?)が2本使用されている。
  
      2011-07-12-4371 ZEN庭園の北部にある石柱            2011-07-12-4373 ZEN庭園の南部にある石柱   

 この2本の石柱は、頂部や側面の加工デザインから見て明らかに旧三条大橋の石柱を摸している。菅宏文さんの作品は、写真などでよく拝見するが、中でもZEN庭園はトップクラスの出来栄えと感ずる。旧三条駅にちなんで三条大橋の石柱を据えたと思うが、この2本の石柱が、矩形に広がる石庭をピタリと引き締めている。どの角度からみても、落ち着いた形を保っている。しかし、この庭園に足を踏み入れる人影も少なく、広告宣伝もされていないように思う。私の仲間でも訪ねたことがない人が意外に多い。
 周辺を囲む建物は仮建築のように見えるが、場所は京都の中でも一等地であり、この庭園を生かした周辺の再開発を所有者である京阪電車グループに期待したい。


日本領海の海底に世界的規模で存在する「燃える氷」の話題

2011-07-11 17:59:24 | その他

 本ブログ226号で、「微細藻類で日本を産油国にする」と題した記事を紹介したが、今回は「日本領海内の海底に大量に存在するメタンハイドレート(MHと略称)で、日本を天然ガス(メタン)資源国にする」という類似した話題である。
 MHが永久凍土の中に存在することは1960年代に確認されており、1970年代には深海の海底に大量に存在していることが予測され、MHの研究は世界各地で進められてきた。
 MHの定義をWikipediaより引用すると、
   メタンを中心に周囲を水分子で囲んだ形になっている固体結晶である。
   低温と高圧の条件下で、水分子は立体の網状構造を作り、内部の隙間にメタン分子が入り込み、氷状の結晶をつくる。(火をつけると燃えるので、“燃える氷”と呼ばれている。
 平成に入ってから、MHの研究はさらに進み、平成12(2000)年には、日本の太平洋岸の南海トラフで存在が確認され、日本近海には日本の天然ガス消費量の100年分に相当するMHが存在することも確認された。
 そして平成13(2001)年に、官民学共同の「資源開発研究コンソーシアム(通称MH21)」が組織された。本日紹介するのはMH21の推進リーダーとなった東京大学大学院の増田昌敬准教授(53歳)で、7月3日のTBS放送「夢の扉+」に登場して大きい話題となった人物である。
   私の記事責任で要点を紹介すると、増田氏は卒業後、新潟沖の天然ガス採掘の現場責任者として活躍していたが、宿直の夜、警報ブザーで天然ガスがパイプの中で氷となって詰まるというMHとの出会いがあり、30歳で大学研究室に戻り、20年を超えるMHの研究に取り組んだ学者である。深海にパイプを打ち込んで採掘するという研究には巨額な研究投資を必要するため、増田准教授は、弟子の研究員・今野義治氏と組んで、「減圧法」という技術でMHを回収するプロセスのシミュレーションを4年あけて実施し、この結果にもとづく大型実験施設を北極圏に建設し、分離回収したメタンガスが煙突から炎をあげて燃えたという成功物語が「夢の扉+」のストーリーである。

   数十年にわたり、夢のプロジェクトといわれてきたMHも、いよいよ実用を目指した開発段階に入った。地震発生の仕組みを解明するために建造された「地球深部探査船・ちきゅう」を用いて海洋実験も予定されており、2021年商業化という目標も夢ではなくなった。
   実用化には難しい課題が残っているが、何とか頑張って成功を期待したい。


微細藻類で日本が産油国になれるビッグな話題(1)

2011-06-13 06:38:53 | その他

 筑波大学・生命環境科学研究科の渡辺信教授が、石油生産能力の飛躍的大きい藻類「オ-ランチオキトリウム」を沖縄で発見したというニュ-スを昨年発表してから評判となり、日本新党の田中康夫代表が衆議院予算委員会の代表質問で取り上げ、人気テレビ番組「そこまで云って委員会?」でコメンテ-タ-の勝谷誠彦氏も繰り返し紹介し、渡辺教授の姿もテレビで拝見したので、少し予備調査を実施してみた。専門外の私が充分な解析をせずにまとめたもので、間違った解釈をしていたらお許しいただきたい。

1) 石油の起源については、有機起源説や無機起源説などいくつかの説があるが、ここでは藻類や植物系の有機物が酸素の少ない海底に堆積し、長い年月かけて石油に変化したものと説明され、地球が何億年もかけて作った石油を、科学の力で短時間に効率よく生産する技術開発の成果が「藻類バイオ燃料」と説明している。
2) この研究は、1970年代から米国エネルギ-省が巨額(総額1兆円規模)の資金をかけて関連民間企業中心に進めており、商業化を目指した大型テストプラントで試作した藻類バイオ燃料でジェット機を飛ばす段階となっている。世界の主要研究所でも取り上げられているが、製造コスト面での競争性に難題を抱えていた。
3) 日本でも多くの研究機関で取り上げられ、1990~2000年には旧通産省の参加した「地球環境産業技術研究機構」を作って約122億円を投じて藻類研究を進めたが撤退した経緯がある。そのご政府レベルの動きがないまま現在に至っていた。
4) 筑波大の渡辺信教授は、過去40年間あまり世界の藻類の研究を進めてきたスペシアリストであるが、昨年沖縄近辺で、当時のオイル生産最高能力を持つ「ボトリオコッカス」の10倍の生産能力を持つ「オ-ランチオキトリウム」を発見したと発表した。
5) 世界には約15万種の藻類が存在しているが、今度発見された新種は条件を選ぶと4時間で倍増することができ、光合成でなく有機物を餌として炭化水素系オイルを生産する。渡辺教授は、工業化面の工夫が必要であるが、近い将来輸入石油に代替できる可能性があると示唆した。
6) この技術開発が成功すれば、近い将来枯渇が予想される石油の世界市場(250~300兆円規模)を根底から揺るがす課題となる。日本は石油のほぼ全量を輸入に頼っているので、波及効果を含めると大きい夢のプロジェクトである。
昨年6月に産官学が共同で開発を進める「藻類産業創生コンソ-シアム」がスタ-トし、日本企業や大学の研究機関の多くが参加して実用化研究体制ができ、国が主導している海外の先行研究体制を追撃する組織が完成した。
6)最近渡辺教授が提唱する「有機物含有排水処理とオイル生産」システムでは、家庭や工場から排出される有機系排水の一次処理工程で有機物を補食するオ-ランチオキトリウムによるオイル生産、二次処理工程でポトリオコッカスの光合成によるオイル処理、両工程から排出される藻残渣をメタン発酵に利用して家畜の餌にすることを提案している。
7)日本の石油必要量を年間2億トンとすると、面積は2万hr、深さ1mの培養面積が必要と試算されるが、現在存在する休耕田のわずか5%あればよいし、炭化水素系石油であるから、既存の石油精製施設が活用できるし、燃料用だけでなく繊維やプラスチックなど化学製品用にも活用できる。今度の大地震で塩害を受けた東北地区の田圃は塩分除去が必要となっているが、塩分に強いオ-ランチオキトリウムの培養には心配いらない。
8)海底油田探索や他の代替エネルギーの研究開発にも大きく影響するテ-マであり、渡辺教授の推定では10年くらい先には実用を目指したいとしている。
 技術開発面から見ると難しい課題はなさそうであるが、原料有機系排水の調達・製造オイルの需要先への搬送・大量残渣の処理問題など物流面の問題、オ-ランチオキトリウムに勝る藻類の出現による独占可否問題、他社の特許面からの制約の有無、既存石油資本による妨害の有無、他の研究との競合性など心配の種は残っている。

 渡辺教授は、現在地球上に存在する生物のすべてが藻類によって形成されおり、原点に帰って取り組むべき最重要研究テ-マであるという主張には説得力がある。
 たまたま本日の「そこまで云って委員会」番組で、注目される原発代替のエネルギーとして注目される4種(メタンハイドレ-ト、液体トリウム原発、芋エネルギ-の活用、オ-ランチオキトリウム)の技術が取り上げられ、研究者が熱弁をふるった。オ-ランチオキトリウムを「オ-ランチキチキ」と名付けて、今年の流行語大賞を狙うという話しも飛び出した。おそらく1~2年後には成功可否の見通しがつくと思うので継続して注目していきたい。


「琵琶湖の生態系を守る」ということ

2011-06-06 09:33:26 | その他

講師の川那部浩哉博士の略歴
 昭和07(1932)年生まれの79歳、櫛を入れない長髪の着物姿を数年ぶりに拝見した。外見上初老に見えたが、講演に入ると昔の名調子に磨きがかかり、時間を忘れて聞かせていただいた。川那部さんは昭和30(1955)年に京都大学理学部動物学科を卒業し、大学に残って助手・講師・助教授を経て昭和52(1977)年に教授となり、主として淡水生物の生態を研究する生物学者として活躍した。
 平成08(1996)年に京都大学を退官し「琵琶湖博物館」館長に就任した。私は工学部工業化学科出身で川那部さんより3年先輩となるが、ほぼ同時代を過ごした企業内研究者であった。川那部さんは琵琶湖博物館を退任されて名誉学芸員になった平成22(2010)年まで14年間館長を務められたので、私が「琵琶湖疏水」の調査散策を実施してきた期間と重なり、川那部さんの研究スタイルには共感する点が多く、講演会や著書に接する機会も比較的多い学者の一人であった。

今回の講演内容で感銘を受けた事項
 今回の講演は、配布資料がなくパワーポイント映像の見難い席であったが、「琵琶湖の生態系を守る」という説明は、川那部さんのこれまでの主張と重なる部分も多く、理解し易い課題であった。印象に残った事項を整理してみると、
 人間は陸地に住んで行動するので大きさの概念は面積の大小で考えてしまうが、琵琶湖の場合、表面積の6倍の集水面積があり、水位の変動も周辺の立地条件によって大きく影響を受けており、体積での考察も必要がある。通常では、水と陸の境界はなだらかな浜が形成され、多くの動植物が生息する場所であるが、琵琶湖では開発の進行で境界がコンクリート壁になり、動植物の生態系に大きい影響を与えている。
 自然科学分野では専門別の学者が多かったが、大学では専門分野を越えた総合的な研究をする必要性がでてきた。この意味で、川那部さんの活動は最近注目されている生物多様性の問題の先駆的な学者であったと思っている。
 私が共鳴するのは、動植物の現場観察を重要視している研究スタイルであり、一つの課題を長期にわたって観察しつづける姿勢である。専門の淡水魚研究を進めるにあたり、関係する気象変動、地域条件、生態系に及ぼす外的条件、研究開発手法の進化、海外の動きの考察などが、研究報告ににじみ出ている。
 このような野性的かつ独自の研究スタイルをもった人材を14年間の琵琶湖博物館の館長に迎えられたことは幸せであったと思っている。


山科アスニーで「蓮如と山科本願寺」と題した講演会に出席

2011-04-10 09:48:46 | その他

 4月6日の第553回学びのフオーラム山科で、大谷大学学長・草野顕之教授の講演「蓮
如と山科本願寺」を聴取した。草野教授は日本仏教史(中世)・真宗史の専門家で、約4年前の平成19(2007)年6月13日に山科アスニーの講師として「蓮如と山科本願寺・寺内町」と題した講演を実施し、聴取させていただいたので、私にとって2回目の講演であった。
         
          2011-04-06-3867 満席となった山科アスニー講演会

 私が藤尾地区から山科竹鼻地区のマンションに引越しし、ベランダから山科本願寺の南殿跡を見渡せる位置で生活を始めて間もない平成13(2001)年に、埋蔵文化財センターが南殿跡を発掘し、蓮如の隠居所である南殿をニ重に囲んでいた土塁と堀が出土した。この事実から、城塞に関心を持つ私は山科本願寺の存在に強い興味を持ち、関連記事の収集や関連講演会に出席するようになったのである。
 私が大学を卒業した昭和27(1952 )年生まれの草野教授が、昨年1月に大谷大学学長に昇格されたとき、その若さに驚きを感じたが、この道一筋に研究をされた草野教授の講演は貫禄ある学者の姿であった。
 「山科本願寺・寺内町を考える市民の会」が推進する史跡指定を目指した長期活動が平成14(2002)年に実現し、平成19(2007 )年に刊行されたリーフレット「山科本願寺・寺内町遺跡」を読み、現在も史跡の拡大に向けて活動する姿を見て、「継続は力なり」という言葉の手本としたいと考えている。同時に、最近の宅地開発により残存していた土塁の大部分が消えた事実を知り、遺跡保存の重要性と難しさを痛感した。
 京都新聞朝刊では「親鸞(激動編)」が連載されているが、作者の五木寛之は「蓮如」の著作でも有名で、これを機に読み直してみたいと思っている。


「ヘリテージ(HERITAGE)」という言葉の思い出

2011-03-12 10:40:46 | その他

 私が「ヘリテ-ジ」という表現に初めて出会ったのは、昭和44(1969)年に米国ミシシッピ-州コロンバス市に技術導入の仕事で4ヶ月半の長期滞在をした時である。当時のコロンバス市は綿花と牧畜が中心の田舎町であったが、歴史ある事物が残っており、南北戦争時代の旧家を巡回するツアーに“ヘリテ-ジツアー”の名前がついていて、辞書で“遺産・継承物・伝統・伝承”の意であると確認し、週末に行楽したことを想い出した。ヘリテージの名前は、技術者の世界ではあまり使用されない専門用語であったので忘れていたが、現在では観光案内や世界遺産など文化財の資料などで多用されるようになった。

 最近、世界遺産候補として積極的な活動を重ねている「九州・山口の近代化産業遺産群」関連講演の中で、来日した海外専門家の講演の通訳者が、近代化産業遺産を“産業ヘリテ-ジ”と翻訳しており、新聞紙上でも“九州ヘリテージ”と紹介していた。
 全くの勉強不足で申し訳ないが、「ヘリテージ」のヤフーウエブ検索をしてみたら、90万件を超えるビッグサイトで、ホテル・団体・商品・旅行・オークション・花の名前など幅広く使用されていることを知った。
 とくに、世界遺産の世界では、「世界遺産」そのものを“ワールド ヘリテージ”と訳していた。ユネスコ世界遺産は“Unesco World Heritage”で、知床世界遺産センターは“Shiretoko World Heritage Conservation Center”と英訳されている。
 先日、「琵琶湖疏水と世界遺産」に関する会合で講演されたニ-ル・コソン氏の紹介肩書も「イングリッシュ・ヘリテ-ジ 前総裁」であった。
 ヘリテージという表現には、日本人にとって昔のロマンを思い出させる響きがあり、流行語として定着したと考えられる。参考までに、平成6(1994)年に認定された京都の世界遺産「古都京都の文化財」の英名は、World Heritage Sites in Kyoto である。
 英文の資料を読む機会が少なくなった私にとって恥ずかしい話題であるが、若い頃の出来事を思い出すことができた私話であり、昔の仕事仲間と会話したい気持ちになった。