歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

2024年の中国の祝日―中国雑感〔56〕―

2023年12月02日 14時44分34秒 | 中国祝日

明年の祝日(休日)に関して、2024年10月25日(水)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2024年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。例年の12月初頭の発表が早くなり、遅くなりましたが、これを載せます。

 

一 元旦(1月1日)

12月30日(土)~1月2日(月)の3日間を休日。

二 春節(旧暦元旦 2月10日) 法定休日(旧暦元旦~3日)

2月10日(土)~17日(金)の8日間を休日。

2月4日(日)〔14日・木〕・2月18日(日)〔15日・金〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月4日(木)~6日(土)の3日間を休日。

4月7日(日)〔5・金〕振替出勤日。

四 労働節(5月1日)

5月1日(水)~5月5日(日)の5日間を休日。

4月28日(日)〔3日・木〕・5月6日(土)〔4日・金〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月10日)

6月8日(土)~10日(月)の3日間を休日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月17日)

9月15日(日)~17日(火)の3日間を休日。

9月14日(土)〔16日・月〕振替出勤日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(火)~7日(月)の7日間を休日。

9月29日(日)〔4日・金〕、12日(土)〔7日・月〕振替出勤日。

 

 

国務院の発表原文は、

国务院办公厅关于2024年部分节假日安排的通知

国办发明电〔2023〕7号

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2024年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:1月1日放假,与周末连休。

二、春节:2月10日至17日放假调休,共8天。2月4日(星期日)、2月18日(星期日)上班。鼓励各单位结合带薪年休假等制度落实,安排职工在除夕(2月9日)休息。

三、清明节:4月4日至6日放假调休,共3天。4月7日(星期日)上班。

四、劳动节:5月1日至5日放假调休,共5天。4月28日(星期日)、5月11日(星期六)上班。

五、端午节:6月10日放假,与周末连休。

六、中秋节:9月15日至17日放假调休,共3天。9月14日(星期六)上班。

七、国庆节:10月1日至7日放假调休,共7天。9月29日(星期日)、10月12日(星期六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅 

2023年10月25日

カレンダー表示もあります。

(2023.12.02)


伊達氏関係地巡り(3)大崎八幡宮―歴史雑感〔88〕―

2023年11月26日 14時01分55秒 | 日本史(近世・近代)

(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺

(2)仙台城跡

(3)大崎八幡宮

 

2023年11月19日(日)午後、最後の訪問地は大崎八幡宮(仙台市青葉区八幡4丁目6-1)です。本宮は坂上田村麻呂が創建したのと由来があり、慶長9(1604)年に伊達政宗が仙台城北西の現在地に勧請しました。社殿(本殿・石の間・拝殿)が1952年に国宝に指定されました。

写真1は、大崎八幡宮の入口です。奥に見える大階段を上ります。

写真2は、藩時代に整備された四ッ谷用水跡です。大階段下の橋のところから下流を撮ったものです。

写真3は、大階段を上ってすぐのところから撮った三之鳥居です。

写真4は、本殿へと入る長床(重文)です。

写真5は、拝殿です。

写真6は、本殿です。

最後の写真6は、るーぷる仙台の車内から撮ったもので、仙台城跡から青葉山植物園西の途上です。

なお大崎八幡宮のホームページはhttps://www.oosaki-hachiman.or.jp/です。

(2023.11.26)


伊達氏関係地巡り(2)仙台城跡―歴史雑感〔88〕―

2023年11月25日 13時13分43秒 | 日本史(近世・近代)

(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺

(2)仙台城跡

(3)大崎八幡宮

2023年11月19日(日)午後、瑞鳳殿に続いて仙台城跡(仙台市青葉区川内1)を訪れました。写真1は、本丸詰門の脇に立てられている仙臺城鳥瞰図です。

写真2は、本丸の東崖上に建てられた懸造跡です。

写真3は、本丸からの仙台市街展望で、中央当りが仙台駅方向です。

写真4は、仙台藩藩祖伊達政宗騎馬像です。戦後再建された本像は東北大震災で破損しましたが、本年3月31日、伊達政宗公騎馬像帰還記念式典を行ない、修復がなり元の位置に鎮座しました。

写真5は、同じく伊達政宗騎馬像です。

写真6は、本丸大広間跡遺構表示です。

写真7は、反対方向から伊達政宗騎馬像を入れての本丸大広間跡遺構表示です。

写真8は、大手門へと到る詰門跡です。

写真9は、詰門跡です。

写真10は、本丸北壁石垣です。

写真11は、中門跡です。ここも東北大震災で破壊され、修復中です。

写真12は、大手門跡です。

写真13は、大手門脇櫓です。現在の建物は戦災で大手門と共に焼失し、現在の建物は1967年に再建されたものです。

大手門復元を見通した発掘調査を本年から行ない、本日午後、「大手門跡および周辺発掘(第1次)遺跡見学会」が開かれました。ちょうどこれに出会い撮ったのが写真14です。写真に見るように礎石跡が確認され、3か所に及びます。大手門南面には5本の柱があり、写真の礎石跡は他の遺構からと合わせると2~4番目の南面柱跡に相当すると推測できます。

写真15は、二の丸の北東角の堀です。

最後の写真16は、二の丸東堀です。

(2023.11.25)


伊達氏関係地巡り(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺―歴史雑感〔88〕―

2023年11月24日 09時26分35秒 | 日本史(近世・近代)

(1)瑞鳳殿・瑞鳳寺

(2)仙台城跡

(3)大崎八幡宮

 

2023年11月19日(日)午後、仙台市の伊達氏関係地を巡りました。利用交通手段は仙台市交通局の「るーぶる仙台」を利用しました。最初に訪れたのは経ヶ峯に位置する瑞鳳殿(仙台市青葉区霊屋下23-2)です。本殿は仙台藩々祖伊達政宗の御霊屋です。寛永13(1636)年に2代藩主伊達忠宗により造営されました。戦前に国宝に指定されましたが、1945年に戦災により焼失し現在のは1979年に再建されたものです。他に2・3代藩主の御霊屋や子孫の墓があります。

写真1は、瑞鳳殿入口からの杉参道です。上がって左側に折れて上ると瑞鳳殿で、

写真2は、瑞鳳殿に入る涅槃門です。

写真3は、左右に大香炉と正面に唐門です。奥が瑞鳳殿です。

写真4は、唐門越しの瑞鳳殿です。

写真5は、瑞鳳殿です。

写真6は、涅槃門から唐門への階段に並ぶ伊達政宗の重臣寄進の石灯籠で、10基有る内の代表として片倉小十郎のものです。

写真7は、瑞鳳殿を出て奥にある戊申戦争弔魂碑です。戊辰戦争で仙台藩は奥羽列藩同盟の中心として1200名の戦死者を出しました。1877(明治10)年に建立されました。

写真8は、2代藩主伊達忠宗(1599~1658年)の御霊屋の感仙殿です。

写真9は、左に位置する3代藩主伊達綱宗(1640~1711年)の御霊屋の善応殿です。

写真10は、両殿の右側に広がる妙雲界廟です。奥のが第9代藩主伊達周宗(1798~1812年)墓です。以上で、瑞鳳殿は終わりです。

次いで杉参道を下ったところにある臨済宗正宗山瑞鳳寺(仙台市青葉区霊屋下23-5)に行きます。本寺は藩祖政宗の菩提寺として寛永14(1637)年に2代忠宗のより創建されました。

写真11は、山門の冠木門です。

写真12は、本堂です。

写真13は、本堂左手前の花塚にある紅葉です。

写真14は、山門内右側の紅葉です。

写真15は、紅葉を背景とした石塔です。

最後の写真16は、山門内右側と本堂間の紅葉です。以上の通り山門内右側には少ないですが紅葉が盛りです。

(2023.11.24)


安倍氏関係遺跡―歴史雑感〔87〕―

2023年10月23日 19時24分43秒 | 日本史(古代・中世)

2023年9月29日(金)午前、昨年4月(「衣川北岸の安倍氏・藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―)に回れなかった衣川北岸に位置する安倍氏関係遺跡を巡りました。今回は昨年は徒歩でしたが、今回はより遠いためもあり、JR平泉駅前のレンタル電動自転車を利用しました。

最初は白鳥舘遺跡(岩手県奥州市前沢白鳥舘地内71)です。北上川が東側に大きく湾曲する西岸の旧領北端部に位置します。本遺跡は前九年の役で安倍貞任の弟白鳥八郎則任の柵と伝えられてきました。発掘調査により10~16世紀にかけて長期間利用されていたことが分かりました。現在の遺跡は15世紀の郭・土塁・堀跡等の城館跡が良く残されています。

最初の写真1は、駐車場から遠望した白鳥舘遺跡です。中央の丘陵です。下に人家が見えます。

人家のところから順路に従うと、写真2の、郭Ⅰ(伝本丸跡)に出ます.説明板の前からに撮ったものです。木々で見えませんが約250m先が北から南へと湾曲した北上川です。

写真3は、郭Ⅰを南から北へと撮ったものです。

写真4は、郭Ⅰから左に郭Ⅱを見たもので、下が空堀です。

写真5は、郭Ⅰと郭Ⅱ間の空堀です。

写真6は、左が郭Ⅱ(伝二の丸跡)の東面です。

写真7は、郭Ⅱの西から東へと撮ったものです。こちらが主郭と考えられています。

写真8は、郭Ⅱの北側内に位置する神社です。

写真9は、郭の南東部分での発掘調査です。

写真10は、南西角の出口で、ご覧のように郭西側に土塁があります。

次いで、長者ヶ原廃寺跡(岩手県奥州市衣川区田中西)に移動しました。本廃寺は金売商人吉次の屋敷跡とも伝えられてきました。1958年の発掘調査により、一辺約100mの築地塀・本堂跡・西建物跡・南門跡が確認され、寺院様式の建造物群跡であることが分かりました。そして、発掘遺物から約1000年間に安倍氏が建立したものと推定されました。

写真11は、説明板から遺跡を東に撮ったものです。

写真12は、北へと遺跡を撮ったものです。

写真13は、本遺跡の道路脇では発掘調査中で、これを撮ったものです。

長者ヶ原廃寺跡西北隅から道路を挟んで約170mに渡船場跡があります。発掘調査で衣川川岸に約1間間隔で3列の柱脚跡が20個発見されました。廃寺跡に近接しており、衣川水運と密接に関係した遺跡と考えられます。写真14は、この説明板です。

最後の写真15は、木々の間から見た衣川です。以上、駅前を9時過ぎに出発し11時前に遺跡探訪は終りました。

(2023.10.24)


武蔵国畠山荘関連史跡―歴史雑感〔86〕―

2023年08月30日 16時14分04秒 | 日本史(古代・中世)

2023年8月26日(土)午後、武蔵国畠山荘(埼玉県深谷市畠山)の関連史跡を巡りました。畠山荘は立荘経緯等や荘園領主は不明です。この地は、桓武平氏良文流の秩父武基から嫡宗の武綱、重縄、重綱、重弘と続き、その長男重能が秩父郡吉田郷(秩父市吉田)から本荘に移転し、初めて畠山氏を名乗ったところです。

まず畠山重忠公史跡公園です。ここは竹山重忠墓(五輪塔)の地で、公園として整備されました。写真1は、『源平盛衰記』第三十七・義経落鵯越並畠山荷馬付馬因縁事に、「馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸に余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき、岩の迫をしづ/\とこそ下けれ。東八箇国に大力とは云けれ共、只今かゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。」とあるのを、すなわち福原合戦の「鵯越」で畠山重忠が馬を担いで崖を下ったとの故事を像としたものです。

奥に入り五輪塔を保護する覆堂が見えます。ここには6基の五輪塔が収められています。写真2は、左側の2基で、奥のが伝本田親常五輪塔で、13世紀後半のものと推定されます。近常は『吾妻鏡』では二俣川合戦で重忠郎従として戦死しています。手前は鎌倉後半を降らないと推定されます。

写真3は、中央にある伝畠山重忠五輪塔で、近常墓より新しいですが、鎌倉後半を降らないと推定されます。

写真4は、右の3基で、奥は13世紀後半、中は室町初期、手前は南北朝と推定されます。

写真5は、嘉元二年甲辰(1304)卯月(4月)九日と刻された三弁宝珠種子阿弥陀一尊・種子の板石塔婆です。重忠没後百年に当たるので、重忠百回忌供養として立てられたと伝わっています。

写真6は、伝畠山重能(重忠父)墓で、一枚板の自然石と伝わります。

写真7は、右に覆堂、左に伝重能墓です。

次いで北に移動して、真言宗豊山派の白田山観音院満福寺です。平安時代後期創建とし、重忠が寿永年間に再興して菩提寺としたと伝わります。写真8は、重忠の守本尊である千手観音像を安置する観音閣です。

写真9は、本堂です。

写真10は、重忠廟です。奥は観音堂です。

満福寺から左(西)に回り込み北に行くと、荒川に出ます。重忠が帰路で豪雨にあい、荒川を渡れなかったところ、鶯が鳴いて浅瀬を知らせたとの伝承があり、ここを鶯の瀬といいます。写真11は、この案内板の脇から見た荒川です。

 

奥(東)に少し行くと、秩父氏の発祥地の秩父郡吉田郷の井椋五所宮を重能が分祠した井椋神社です。最後の写真12は、本殿です。

(2023.08.30)


福井県(4)―三方五湖・氣比神宮―

2023年07月07日 16時44分45秒 | 観光(日本)

2023年6月24日(土)、9時50分過ぎ、リフトに乗り三方五湖レインボーライン山頂公園での観光開始です。写真1は、三方五湖の、手前に水月湖、これと繋がった奥に菅湖、右奥に三方湖です。

写真2は、公園奥(北)に進み、公園の位置する常神半島の東側を撮ったものです。

写真3は、公園から西側撮ったもので、右奥の小島は鳥辺島です。左に水月湖が見えます。月

写真4は、手前が水月湖、奥に三方湖です。

写真5は、山頂公園奥の梅丈岳(400m)から南に公園を見たものです。

写真6は、東を眺めたもので、手前左が日向港、右に少し見えている水面が日向湖です。奥に久々子湖です。

写真7は、五湖全部が見えているものです。手前左が日向湖、奥が久々子湖、右が水月湖、これと繋がった奥が菅湖、この右に少し見えているのが三方湖です。

写真8は、日向港と、手前に日向湖口が見え、この湖が海と繋がっていうことが分かります。

写真9は、リフトの下りから撮ったものです。以上で三方五湖は終わりです。

日本海さかな街で自由昼食後、最後の観光地は北陸道総鎮守と称される氣比神宮です。12時50分過ぎに到着です。本神社は予定の観光地には含まれておらず追加されたものです。写真10は、日本三大木造鳥居の大鳥居(重文)です。高10.9m(36尺)で、正保2年(1645)の造営です。クラブツーリズムの旗が少し写し込まれています。

写真11は、本殿への中鳥居です。中に外拝殿が見えます。

写真12は、外拝殿です。奥に内拝殿、本殿となります。本殿の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)で、御食津大神(みけつおおかみ)とも称します。

最後の写真13は、廻廊からの外拝殿です。

以上で観光は終わりで、福井駅を15時54分発車し、東京駅に19時20分着でツァーは終わりです。

(2023.07.07)


福井県(3)―一乗谷朝倉氏遺跡・一乗谷朝遺跡博物館―

2023年07月04日 16時56分51秒 | 観光(日本)

2023年6月23日午後(木)、一乗谷朝倉氏館遺跡と一乗谷朝倉氏遺跡博物館を見学しました。応仁の乱で越前国守護代の朝倉孝景は下剋上をして斯波氏に代わり守護となり、戦国大名に成長します。天正元年(1573)の織田信長により義景が滅ぼされまで、5代に渡り約百年弱の間戦国大名朝倉氏の本拠として朝倉氏館を中心に家臣等の城下町を形成したのが一乗谷です。国特別史跡に指定され、発掘調査も行われ遺構や各種の遺物が発見されました。

13時50分過ぎに復原町並横の駐車場に到着し、見学開始です。写真1は、南(右)に上木戸と北(左)に朝倉氏館に挟まれた米津を南から北へと撮ったものです。米津には炉跡などの遺構があり発掘品と合わせて金工師がいたと想像できます、また奥の高台は諏訪館跡です、

写真2は、諏訪館跡への登り道です。

写真3は、諏訪館への上り道途上から下に米津、奥に上木戸跡を見たものです。

写真4は、中の御殿跡への上り道(遺構)で、御覧のように石板が引かれ、脇に石溝が設けられています。

写真5は、朝倉氏館遺跡に、復元された正門(西門)です。館の前面は堀と土塁で囲まれています。

写真6は、門から入ったところで奥(東)へと撮ったものです。

写真7は、さらに進んだところにある説明版です。

写真8は、主殿遺構です。

写真9は、館奥から主殿遺構、正門、土塁を見たものです。土塁はご覧のように下が石垣で覆われています。

写真10は、奥にある池庭です。

写真11は、館右奥隅にある朝倉義景墓です。

14時30分、復原町並に移動し見学です。写真12は、中級武家屋敷群の復原武家屋敷です。屋敷内に見える建物は蔵です。この右側に主殿があります。

写真13は、主殿です。

写真14は、将棋を打つ武士像です。遺構からは将棋の駒が出土しています。左には朝倉義景が家臣に与えた「黄金乃甲冑」複製品が飾ってあります。

写真15は、復原武家屋敷と路を挟んで西側の上級武家屋跡の庭園跡(復原)を中心に撮ったものです。

写真16は、上級屋敷跡を北へと撮ったものです。隣の屋敷の境には低い塀が設けられています。

写真17は、南の隣の屋敷跡を見たもので、御覧のように境には低い石垣がります。この上に塀が設けられていたことになります。

写真18は、北へと路地を撮ったものです。

写真19は、中級武家屋敷群と道路挟んで南に町屋群があります。これは「染」の暖簾から紺屋を復原したものです。

写真20は、町屋内の厠復原です。

写真21は、復原町屋を出てさらに南に行って屋敷遺構を撮ったものです。以上で一乗谷朝倉氏館遺跡は終わりです。

一乗谷朝倉氏遺跡博物館に移動し、15時過ぎに到着しました。写真22は、1階の遺構展示室の石敷遺構です。長38m、幅5.6mで、大量の川原石が敷き詰められ、溝が切られています。

2階に上がり、基本展示室を見ます。写真23は、城下町ジオラマです。

写真24は、石仏で、左が千手観音菩薩立像で元亀4年(1573)3月11日の銘があります。右は地蔵菩薩立像です。

写真25は、手前右が聞香札(重文)、中が青磁香炉(重文)、奥が青磁花瓶です。聞香をして楽しんでいたことが分かります。

写真26は、暮らし関係の出土品です。下に左から雪下駄、ハンドコ(炭火を入れて手足を温める)、温石、灯明皿です。奥はバンバ(雪かき用品)、火桶、手燈です。

写真27は、建物関係の出土品です。下に左から板、柱です。奥は門柱、鏨、柱、釿(複製品)です。

写真28は、左が石臼(重文)、右が石工用の釿です。

写真29は、貨幣関係の出土品です。右は武家屋敷から纏まって出土した銭で備蓄銭(重文)です。中はさし銭です。

写真30は、織物職人関係の出土品です。手前は針と鋏で、右は砧(重文)です。奥は糸車、紡錘車です。

写真31は、鉄砲関係の出土品です。左は手前から火縄鋏(重文)、弾金(重文)、台締輪金具です。中は弾丸が入った容器(重文)です。右は弾(重文)です。奥は鉛棒(重文)です。

最後の写真32は、朝倉氏館再現室の朝倉氏館ジオラマです。以上で朝倉氏関係の見学は終わりです。

(2023.07.04)

 


福井県(2)―平泉寺白山神社・東尋坊日没・丸岡城―

2023年06月30日 16時43分42秒 | 観光(日本)

2023年6月23日(金)に関しては、朝倉氏関係は別途とします。最初は平泉寺白山神社です。10時5分に到着です。福井・石川・岐阜3県にまたがる白山(2702m)は信仰の山で、養老元年(717)に神託をえた泰澄が平泉寺を開山し、白山信仰の中心地となりました。明治維新の神仏分離で寺号を廃し白山神社となりました。写真1は、奥に一の鳥居の立つ精進坂です。

写真2は、一の鳥居です。

写真3は、泰澄が神託を受け当社発祥の地とされる「林泉」御手洗池です。

写真4は、御手洗池傍らのある三叉杉です。泰澄が植えたと伝える杉で、上部がご覧のように三又に分かれ、白山三山(三社)をかたどっています。

写真5は、奥に拝殿です。

写真6は、拝殿です。

写真7は、御本社です。祭神は伊弉冊尊(いざなのみのみこと)で、白山主峰の御前峰(2702m)です。

写真8は、左の越南知社(おおなむちしゃ)です。祭神は大己貴尊(おおなむちのみこと)で、大汝峰です。

写真9は、右の別山社(べっさんしゃ)です。祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)で、別山です。

写真10は、開山の泰澄を祀る開山社です。

以上で参拝は終わり、「おろし蕎麦と天婦羅の昼食」を終えると、一乗谷朝倉氏館遺跡見学を経て、「ズワイガニ1杯とノドグロ釜飯」の夕食後、天気も晴れており、昨日のリベンジとして東尋坊日没鑑賞に向かいます。写真11~14までがその写真です。水平線上には雲がかかり完全な日没は見えませんでしたが。

最後の観光地は丸岡城です。20時から20分間行われるプロジェクションマッピング鑑賞のためです。写真15~20はその写真です。

(2023.06.30)


福井県(1)—永平寺・東尋坊—

2023年06月28日 16時05分37秒 | 観光(日本)

2023年6月22日(木)~24日(土)、クラブツーリズム主催の「東尋坊・永平寺・三方五湖までぐるりっと7名所を周遊本当にあなたに見てほしいはじめての福井3日間」で福井県を旅行しました。観光旅程は

1日目 永平寺、東尋坊 三国観光ホテル泊

2日目 平泉寺白山神社、一乗谷朝倉氏遺跡、一乗谷朝倉氏博物館、東尋坊日没、丸岡城(プロジェクションマッピング鑑賞) 同泊

3日目 三方五湖レインボーライン山頂公園、氣比神宮、日本海さかな街

です。

北陸新幹線から乗り継ぎ、13時6分に福井駅で下車し、観光開始です。最初の観光地は曹洞宗大本山永平寺です。13時50分に到着です。写真1は、通用門から寺内の建物に入り、吉祥閣を経て、傘松閣2階の総天井の間を撮ったものです。

写真2は、東司・僧堂を経て上り、左に行ったところにある、本寺開山の道元以下の尊像が安置されている、聖廟の承陽殿です。正面の「承陽」額は明治天皇の書です。

 

写真3、 下り正面にある仏殿です。釈迦牟尼仏が祀られています。

写真4は、大庫院です。地下1階・地上4階の木造建築です。

写真5は、中雀門からの仏殿です。この奥が法堂です。

写真6は、仏殿と大庫院です。

写真7は、中雀門からの山門です。

写真8は、山門からの中雀門です。14時40分に撮影が終わり、以上で本寺は終わりです。

次の観光地は東尋坊で、15時40分過ぎに到着しました。写真9は、遊覧船乗り場へ下るところから北へと雄島を遠望して撮ったものです。

遊覧船に乗り撮ったのが、写真10の、雄島です。

写真11は、雄島の柱状節理です。

写真12は、後方に東尋坊タワーを入れて撮った北側の東尋坊です。

写真13は、柱状節理の大池です。

写真14は、南側にある軍艦島です。

写真15は、ライオン岩です。

最後の写真16は、上からの大池です。16時35分でした。

以上で本日の観光は終わりです。本来は東尋坊日没鑑賞の予定でしたが、曇天のため中止となりました。このため夕食が早まり、18時半からホテルでの「若狭牛・アワビを含む和会席」でした。

(2023.06.28)


鉄道発祥関係地―歴史雑感〔85〕―

2023年05月18日 16時46分44秒 | 日本史(近世・近代)

2023年5月14日(日)午後、武蔵野文化協会例会の「高輪築堤の現在―海上鉄道―と泉岳寺「浅野長矩墓所」の拝観」に参加しました。今回はこの参観地を紹介します。

最初の参観地は臨済宗大徳寺派東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11−1)です。写真1は、入口から上がったところの左側にある沢庵墓(国史跡)です。沢庵宗彭(1573~1645)は但馬国出石の出身で、慶長14年(1609)の京都大徳寺の住持となり、紫衣勅許事件で寛永7年(1629)に出羽国上山に流されたが、同9年(1632)に赦免され、3代将軍徳川家光に重用されて東海寺の開山に迎えられました。正保2年12月に死去し享年73です。

写真2は、同じく沢庵墓、ご覧のように墓石は自然石です。

奥の墓地に入ると、写真3の、渋川春海墓です。渋川春海(1639~1715)は暦学・天文学者で、平安時代の宣明暦長く使われたため誤差が甚だしく、改暦を幕府に建言し、貞享元年(1684)に日本独自の新暦(貞享暦)が採用され、初代幕府天文方となります。正徳5年に死去し享年77です。以後も鉄道庁長官を退官する明治26年(1893)まで鉄道行政のトップとして全国への鉄道展開の尽くし「鉄道の父」と称されています。明治43年に死去し

写真4は、井上勝墓です。井上勝(1843~1910)は長州藩士で、文久3年(1863)に伊藤博文等と英国に渡り鉄道・鉱山技術を学んだ。明治維新政府では大蔵省に出仕し、鉄道敷設推進派となり、工部省に移籍し鉄道頭として鉄道敷設を推進した。明治5年(1872)9月12日(新暦10月14日)に新橋・横浜(桜木町)の日本最初の鉄道を開業させました。明治20年(1887)に子爵を授爵します。鉄道庁長官を退官する明治26年(1893)まで鉄道行政のトップとして、全国への鉄道展開に尽くし、「鉄道の父」と称せられいます。明治43年に死去し享年66です。写真に見るように宇佐子夫人と共に葬られています。なお、井上亥六は息子です。

写真5のように、井上勝墓の脇には新幹線が走っています。

写真6は、賀茂馬淵墓(国史跡)です。賀茂馬淵(1697~1769)は遠江国の神官の出で、江戸中期の国学者です。荷田春満に学び、元久3年(1738)に江戸に出て学塾を開いた。田安宗武に仕えた。宝暦10年(1760)に隠居し、その後近畿を旅行し、この時に本居宣長が入門した。明和6年に死去し享年73です。写真のように墓の前に鳥居が立っています。

写真7は、同じく賀茂馬淵墓です。以上で大山墓地は終わりです。

本来ならば、高輪築堤を見学すべきですが、現時点では非公開のため割愛となりました。次いで泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)です。写真8は、山門です。

写真9は、四十六士墓の手前にある「首洗い井戸」で、ここで吉良上野介義兼の首を洗い主君浅野長矩墓に捧げたとされるものです。

写真10は、井戸の隣り奥にある浅野長矩墓です。

写真11は、四十六士の墓の奥右端にある大石内蔵介良雄墓です。以上で泉岳寺は終わりです。

写真12は、高輪大木戸跡(国史跡 東京都港区高輪2-19先)です。高輪大木戸は東海道からの江戸府内への入口に位置しました。木戸は両脇に長五間(9m)・幅四間(7.2m)・高一丈(3m)の石垣です。

写真13は、側面からのものです。

写真14は、旧新橋停留場鉄道歴史展示室(東京都港区東新橋1-5-3)です。本館は旧新橋停留場の同位置に復元した駅舎外観となっています。駅舎は木骨石張の構造で、明治4年(1871)12月に完工しました。

写真15は、再現された線路とプラットホームです。

写真16は、0標です。

最後の写真17は、新橋SL広場のC11です。土台の回りの石積みは高輪築堤跡から出土した石を再現して積んだものです。

(2023.05.18)


2023年久保田城の桜

2023年05月12日 16時20分29秒 | 

 

 

2023年4月15日(土)午前、昨日の弘前城に続き、秋田市の久保田城の桜を愛でてきました。この写真をお見せします。

写真1は、二の丸入口の東門(黒門)跡です。正面土手に「千秋公園桜まつり4月13日木~4月24日月」の看板があります。日付は例年通りですが、すでに満開から1週間ほど経っており、ここも例年以上に早い桜模様です。

写真2は、二の丸から本丸の一ノ門(表門)を見上げたものです。

写真3は、二の丸からの本丸土手の桜です。

写真4は、一ノ門です。

写真5は、一ノ門の裏側です。

写真6は、本丸から裏門坂へです。

写真7は、本丸の桜です。

写真8は、本丸の隅櫓です。

写真9は、本丸の桜です。

最後の写真10は、本丸上からの二の丸の湖月池です。

(2023.05.12)


2023年弘前城の桜

2023年05月10日 15時01分41秒 | 

2023年4月14日(金)昼、弘前城(弘前公園)の桜を愛でてきました。今年は全国的に暖かく、弘前城の桜も2日前に満開宣言が出ていました。遅れましたがこの写真をお見せします。

まずは追手門から三の丸、二の丸、本丸、四の丸を経て北門から出ました。写真1は、追手門口からの三の丸南濠の桜です。

写真2は、追手門です。

写真3は、二の丸東南角の辰巳櫓です。

写真4は、二の丸への杉の大橋です。

写真5は、南内門です。

写真6は、二の丸西南角の未申櫓です。

写真7は、本丸への下乗橋です。

写真8は、修理中の本丸石垣から奥に移転された天守です。

写真9は、南からの天守です。

写真10は、東南からの天守です。

写真11は、北からの天守です。

写真12は、西南からの天守です。

写真13は、天守上からの本丸の桜です。

写真14は、修理中の本丸石垣と桜です。

写真15は、西濠に沿った桜のトンネル東側です。

写真16は、桜のトンネルです。

写真17は、春陽橋からの西濠です。

写真18は、四の丸の北門です。

写真19は、奥に北門口の亀甲橋です。

最後の写真20は、三の松東濠です。すでに桜筏が水面に浮かんでいます。

(2023.05.10)


2023年鶴見川太尾堤の桜

2023年03月28日 16時15分59秒 | 

2003年3月27日(月)午前、鶴見川太尾堤の桜を愛でてきました。満開を少し過ぎて盛りでした。この写真をお見せします。

(2023.03.28)


2023年大倉山梅林

2023年03月01日 16時07分33秒 | 

2023年2月25日(土)午前、大倉山梅林に観梅に行きました。ほぼ満開でした。下入口から上と上っていきます。この写真を木全体を基本としてお見せします。

〈紅垂れ桜〉

〈白垂れ桜〉

〈白加賀〉

〈玉垣〉

〈鹿児島紅〉

 

〈長寿〉

〈八重垣〉

〈玉牡丹〉

 

〈紅千鳥〉

 

〈古今集〉

 

(三吉野)

〈唐紅〉

〈田子の浦〉

〈紅千鳥〉

 

〈冬至

梅〉

〈月影〉

〈見驚〉

〈野梅〉

〈緑荸梅〉

〈八重寒梅〉

 

〈玉簾〉

〈春日〉

〈冬至梅を前に各梅〉

最後は、25日(土)・26日(日)に開かれる第35回大倉山寒梅会での「和太鼓ユニット三色だんご」による和太鼓演奏風景です。本会はコロナにより3年振りのものです。

(2023.03.01)