◆神代の案内人ブログ

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◆「蘇我太平記」第十章 皇位後継審議に異議あり・・山背大兄王の抗議・その3

2012-01-25 15:09:25 | ◆蘇我太平記
 推測を根拠とした論方で説得力にやや欠けるが、第二点の根拠のヒントは書紀の記述にある。次の記述である。蝦夷大臣が体調を崩し山背大兄が見舞いに元興寺に行った事がある。その時、推古天皇は采女の鮪女を遣わして山背に教訓めいた言葉を告げている。「汝の叔父蝦夷は何時も其方の事を心配だと言い、百年後にはやっと天皇に成れるのでは・・と漏らしている。その事を考え己を精進して高めよ」。山背大兄の父聖徳太子は若くして聡く、事に対して機敏であった。物部との丁未の役に太子の働きが無ければ勝負の帰趨は逆であったかも知れない。蘇我血筋の真只中に生を受け、年を重ねるにつれ深い信仰心は釈迦の教えの真髄の大乗仏教に次第に傾注していったと考える。天皇・馬子その他群臣に法華経・勝(しょう)鬘(まん)経(きょう)を講義して、心の目覚め啓蒙し、遂には斑鳩に居を移し蘇我との間を置くのもその証であろう。その背中を見て育った山背大兄は、父に輪を掛けた大乗の教えにどっぷり浸かった申し子であった。[己の本能を殺し総ての生類に身を捧げる。其れが日常となり、己が無と成り、昇華した時が悟りであり、涅槃の世に至る]。この教義は幻の理想であり、政治も社会経済が成り立たない。山背には困ったものだ、あれでは天下の事は任せられない。推古天皇は蝦夷に話しかけ、蝦夷も同じ意見で無かったか。良く推古天皇は馬子の操り人形であったと言われる。私は晩年、特に太子の死後、次第に推古天皇が優位に成っていたと考えている。その馬子の死後三年、推古帝の意志は完全に蝦夷の行動に直結してといたと思もう。山背大兄は父と違い苦労知らずの人が良い性格であったようだ。教訓を期待され将来天皇に、と望まれていると、解釈し喜び感激したのだ。後継の天位を選ぶ軋轢の間、山背兄は幾度も推古天皇の遺言の詳しい内容を明かにせよ、と要求している。山背兄を不可とする主な理由は、釈尊が説く教義の本筋、大乗仏教を否定するものだった。仏教を後ろ立に自族の繁栄を成し遂げ、幾重にも周りを取り巻く群族の信仰心の支えに拠り、盤石の基盤を持つ蘇我氏である。その根元の教義を否定する事は、自らの蘇我氏を排除すると同じであった・・・。これが遺言の機密を絶対に表に出せぬ理由と考えたい。
 尚一つ疑問が残る。境部摩理勢臣は自らの死を招く危機を知りながら何故最後まで蝦夷に反抗したのであろう。摩理勢は馬子の弟であった。馬子は七十六で二年前に他界している。是より勘案すれば、此の時既に七十の坂を越していたと思う。血筋と云い年齢と云い、最長老であった。蝦夷はこの摩理勢を司会役として後継の天皇を選ぶ会議の議決を一挙に田村皇子に決めようと思っていた。これは推古天皇の意向でもあったと考える。しかし根回しとなる二人の話合いは、案に相違して摩理勢臣が山背大兄王を推挙したことであった。蝦夷は摩理勢に翻意を何度も促したと思う。しかし話は物分かれと成った。その後蝦夷から音沙汰も無く、最初の蝦夷の館での宴会となった。この席に摩理勢は招待されなかった様子である。そして進行役・司会役を務めたのは阿部臣であった。以下前述の如く次第に緊迫した経緯となった。子供扱いにされた。摩理勢が激怒するのは当然である。若し馬子が生きていたら、と考える。人を包み込む老練さが未だ蝦夷には無かった。その子の入鹿の不逞な態度も、肝に据えかねるものであったと推測される。侮辱されたと思う無念さ。男の一分(いちぶん)で身を捨てる行動に出て、摩理勢父子は生を見出した。これは後世の武士の一分(いちぶん)に理を同じくするものであろう。
推古天皇三十八年破乱の年が明け舒明元年正月四日、蘇我蝦夷・群卿らが選んだ天皇の認証を舒明天皇に奉る。天皇は是を辞退し、皇統を繋ぐことは並大抵の人が出来る事とは思っていない。私はその才覚も人格もない、と堅く辞退をされる。「田村皇子を先帝は大変に愛おしく思われ、又、神も人もそれに相応しい人柄と心からお慕い申しております。天位をお継ぎ頂、国中の大臣(だいおみ)の心を安んじ下さい」と奏上し皇子はこれを受けた。舒明天皇の正式の誕生である。翌二年、正月十二日、宝皇女を皇后とし二男・一女をお産になった。長男を葛城皇子、次が間人皇女、末子が大海皇子である。葛城皇子は後の中大兄皇子、即ち天智天皇になる。
(この章 了)

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