◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆(その11)木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について:その11

2010-10-28 12:15:58 | ◆木花咲哉姫と浅間神社・子安神社
 瓊瓊杵尊は近畿・中部地方を巡幸し諏訪を経て新治に入るが、巡幸の途中酒折の宮に立ち寄った。酒折宮は若仁天照大神の誕生地ともいわれ、前述した即位の大祭が営なまれた宮ともいわれている。宮の留守居役大山祗命が歓待の宴を催された。その夜、大山祗命の御女子葦津姫が君に召され、契りを結ばれた。新治に入った尊には仕事が山積するが、考える所があり、天児屋根命を新治に留め、伊勢に向かって再び海辺を行幸される事になりお触れを出した。大山祗命は今の三島に仮屋を建てて尊を迎え、饗応し、宴会の食事の合間をはかり、娘の葦津姫が御子を妊娠したと報告した。忍穂耳尊の御子の皇子は二人とも未だお子に恵まれず、懐妊の知らせは世継ぎの御子の誕生の希望を持たせ皇統安泰のため待望久しい吉報であった。伊勢の天照君に早速報告しようと尊は出立の支度を整えている時に、葦津姫の母が姉の磐長姫を伴って尊の仮宮にきて、母親は『前回は次女の葦津姫を召されましたが、私には姉の磐長姫を愛おしく思っております、どうぞ姉もお召くださいませ』と申します。母の熱心さに心を動かされ、又、未だ若い尊は磐長姫を召すと、妹とは違い、体付きがごつごつとし、話し方にも振る舞いにも女の潤いがなく、顔もしこめで驚いた尊は姫を敬遠、昂揚した心も消え失せて、それ以上同席を中断した。それを聞いた大山祗命は烈火の如く怒り、妻を叱りつけ「あれほど磐長を連れ出すなと申したものを、出過ぎた事をしおって、父の気持も察せず大君である尊に対しても大変礼節を欠くことが分からなかったか。此の短慮者めが、磐長を連れて早々に立ち去れ」と二人を仮宮から追い出したのである。同じ親であっても男と女は違うのであろうか。生まれ来る御子の後ろ盾となり一門の栄達を第一と考える父、事の大局をつかめず、母情が全てで、先のことは真っ暗の母、若しこれを現代に置き換え、身近な事として見聞きをしたと仮定すれば、私ならずともいずれを責めるべきか判断に迷う筈だ。母の才たらずか、父のエゴか。
 母と娘はこの仕打ちをひどく悲しみ、骨の髄にも達する恨みを感じたのは理解できる。両人は復讐にはしる。尊に仕えている女官を抱き込み有る策略を授けたのである。尊と葦津姫一行が旅を続け伊勢に近いシロコの宿(三重県鈴鹿市白子)に宿泊した夜、機会を狙っていたその女官が瓊瓊杵尊に「葦津姫が身籠ったのは他の男が居るからです」と告げ口をする。一夜の契りで妊娠したことから尊は葦津姫を強く疑い、葦津姫を置き去りにして真夜中に伊勢に向け出立してしまう。翌朝一人置き去りにされた姫は大変に驚き、たつた一人で行列を追い松坂まで辿りつく。しかしそこには尊の共の者が待ち構えていて、「これ以上付いてきてはならぬ」と足止めをしてしまう。身重の体で一体どうしたら良いか、奈落の底に突き落とされ悲嘆にくれる姫、若しこれが自身に降りかかったとすれば、どうする。男であれ女であれ、何人も姫の気持を察するに余りある。仕方なく白子の宿に戻った姫は宿の庭に桜の木を植え、「此の様な仕打ちを受けるのは誰かの妬みに相違ない、桜よどうかこの生き恥をそそいでおくれ」と木に生きている人間のように話しかける。姫の祖父は有名な桜内の神であった。桜の木を大内に植え、花の咲き具合で妹(いも)と背(せお)、男女の道の正しさを占ったと云う故事の神様なのだ。イモ・オセの前後の頭をとつて伊勢と云ったとの説がある。
「桜ょ心あれば聴いておくれ、わたしのお腹の子がアダ種ならばし萎め、マサ種ならば子を産む時に咲いておくれ」



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◆(その10)木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について:その10

2010-10-27 12:42:39 | ◆木花咲哉姫と浅間神社・子安神社
 余談であるが後世の大和統制に最後まで頑固に抵抗した長弥彦は、この大玉命の直か側かは不明だが後裔であつた。完訳秀真伝の神々の系図はその様に記している。太玉命の忌部氏が次第に中央での影響力を失い、同じ重臣であった天児屋根命の中臣氏との格差の開きに抗議し、古語拾遺の一巻の上奏した一件の背景に、総祖であるこの太玉命の失敗とも云える古傷が遠因ではないか、私が考えるこの推理も成り立つのでないか。大神からの指示も仰がず、自身から職を去り当面手空きとなった大物主に、処罰でなく、天照君は日頃より考えていた列島中央地部にある未開拓の良い候補地の調べと、中心となる新治の宮の新しい建設を命じたのである。その地は茨城県下館市の周辺(現在の筑西市)である。日本書紀の日本健尊の東征や風土記には『にいはりのさと』としてよく統治整備された条里が記録されている。この新治に里は既に瓊瓊杵尊が長年稲作を試みていた、當時の稲田は山の傾斜を区切り湧水を田にひく工法であったが渇水や台風に拠る被害が多く収穫は伸びず、開発計画は行き詰まり苦悩が続いていた。尊は雨風に強くより豊かな収穫が望める稲作のため各地を巡りより多くの知識の基としたく、その許可を大神に願い出ていたが許しがでず伊雑に留まっていたのある。
 新治の宮が多くの障害を乗り越えて完成に近付くと、天照大神は御織の留め、八咫鏡、天叢雲剣を瓊瓊杵尊、と左右の臣として子守命(三代目大物主、事代主の子で子供が多いためこの様に云われた)・天児屋根命に授け、広く国土の開発役を公に任命した。先に忍穂耳尊は十種の神宝を日乃明に授けている。秀真伝の記述のみでは相互の合意確認済みか不明だが、国の主権の委譲とも思える神器を瓊瓊杵尊にも与えている。国の分裂にも思えるが、私には不明である。後年の神武天皇の大和進攻、最後まで抵抗したのは飛鳥君と言われた日乃明尊の後裔と関係が深い前述した長髓彦であった。長髓彦には我こそ真の皇統であると大義名分が有ったのである。天照は後年の内乱の因を作った。裏を探ればその様に思えないこともない。  



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◆(その9)木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について:その9

2010-10-24 18:48:05 | ◆木花咲哉姫と浅間神社・子安神社
 時は早春と思われる。弥生時代、大民は田起こし、その他多忙の時期である。千に近い大部隊の接待は行く先先に民の大切な仕事を延滞させ、不満は日々に大きくなり、この事態は天照大神の耳にも達した。大民の生産・努力で此の国の活力が生まれて来る。これは大神の信条に反する事であった、天照神は直ちに當時、自身の願いとする国土開発計画を実行に移せるよう日高見から大神の元に寄留し嘆願していた火乃明りの弟瓊瓊(にに)杵(ぎ)尊(みこと)を使い、陸路関東にまで来ていた部隊を海路で目的地まで行くよう命令する。熊野の沖を通り熊野灘の難所を無事に通過し火乃明尊の部隊は大阪湾のから上陸した。尊(みこと)の部隊は一年を超える大民の協力で斑鳩の地で宮殿の完成にこぎ着けた。

 その盛大な祝典の翌日、火乃明饒速日は高殿に登り、遠く南の空の景色を眺め、幼少時父の君と暮らした熊野の景色を彷彿させるのに感動し、宮を南の飛鳥に移せと云いだしたのである。遠い日高見より太玉命の脇役として尊を補佐してきた大物主命と天児屋根命はこの命令に大反対であった。「君はこの年余の民の労苦をどのように考えていられるのですか。『宮が完成したがこの場所が矢張り何かと不便の点が多い、南の飛鳥に移した方が良いと思うが、皆の考えを聞きたい』との下達なら未だ理解されましょう。宮が完成し未だ間がないのに、根拠の薄い飛鳥の空や山の形が熊野に似ているから都を移せ、というのでは、・・一体何を御考えなのか」この強い反対にたいし、太玉命は煮え切れない態度で「我々は尊の考えの補佐の大任を任されている。我々の君はこの尊である。その君がそう願うのなら従うのが臣としての本筋であろう」「太玉命、あなたは尊の母方の叔父にあたる身内の家臣です。身内であればこそ、新しいこの土地で民の心を思い、君も民も豊かになるよう、尊を強く正しく導くのが使命ではないですか。肝心のあなたかその考えではこの先火乃明君の将来は知れたものです。最早臣下の礼はとれません」大物主と児屋根命は憤然として斑鳩の宮を去り、天照大神にこの一部始終を報告したのである。民を重んじその基礎の上に国の発展を眼指す。天照の信条に相反する新しい開拓地の状況を大神はどのように思ったか・・・多分大神の心中も穏やかでなかった筈だ。先ののろのろと日高見からの陸路移動が大民に大きな負担を強いる結果となったこと、重ねて今回の常軌を逸した根拠の薄い飛鳥に宮の移動計画、国を束ねる大君にふさわしい人柄にあらずと火乃明尊は見放され、後見の太玉命も、能力不足でその器にあらずと大いに大神の信用を落とし、将来を期待しての登用からは此の機を境に外されたのでないか。



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◆(その8)木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について:その8

2010-10-17 22:44:06 | ◆木花咲哉姫と浅間神社・子安神社
 やがて終戦後の昭和の中頃、世に隠れ、日の目を見なかった秀真伝が松本善之助氏により神田の古本屋の棚で発見さがれ、神代の思いもしなかった意外の事実を我々は今見聞きする事が出来る。
 文の冒頭に述べた木花咲哉姫と浅間神社・子安神社の関連を中心として、記紀の如き御伽の神話物語でなく、現代に通じる現実味あふれる秀真の記述から、今と変わらない人間どうしの強欲と軋轢の間を、唯、おろおろと這えずり歩く、神代の人たちの物語を紹介したいと思う。
 若仁天照大神は幼くして所謂帝王学の教えを学ぶため遠く日高見の豊受大神の元で成長した。弥生時代の成長期、海上の交通も丸木船より大型の構造船の出現により、近海の交通、さらに大陸との行き来も、常に死を覚悟する程至難ではなくなった。これは天照大神の高皇産霊皇統にとり大陸方面よりの侵攻に対し常に対応できる体態の確立が必要になったことを示す。私は海上交通網を一切取り仕切っていた猿田彦命の進言により、天照大神が新しい都を日本海に近く防御にも便利な飛騨高山盆地に選んだと考えている。これに関し既に拙著でその考えに達した根拠を述べているので詳細を省くが、日本書紀・秀真伝の記述を塾読・比較すれば、多くの同じ意見の賛同者を得る事が出来ると思っている。天照大神は長寿を全うし、在位の年を積むごとにその非凡の才能を行使したと考えているが、非凡の余り自分の近親に対しやや独裁的の行動が記紀や秀真伝の事述からみてとれる。戦前の教えの天孫降臨と日向の高千穂の峰への進攻も、大陸からの圧力への対策の一環であるが、秀真伝によると実は天孫降臨は二組あった。高皇産霊は遠く仙台に近い日高見に都を定めたが、縄文中期の温暖の気候への回帰は望めない事が現実となり、稲作中心の農業にはやはり東北は関東・近畿より効率が劣っていた。九州は既に大陸からの移住民で溢れ、進んだ農耕技術で人口の爆発的増加が考えられ、余った力で列島中央部に集団で移住してくる脅威を肌で感じていた。引退し伊雑に移った大神の威光は尚絶大で、東北日高見の地は国の中心からも北に外ずれ過ぎ、京都から奈良周辺の平坦地は當時とすれば列島一の平坦な平野であった。天照を継いで二代目の君であつた忍穂耳尊に、天照君は東北から国の中心奈良盆地に遷都するよう要請したのである。忍穂耳尊は幼少から病弱であった。そのためか自ら先頭に立って行動するタイプの御方で無かったようだ。此の度の大任は自身でなく息子の皇子に任せ下さるよう大神に願い出たのである。その許可が下りると、忍穂耳尊は兄の奇玉火乃明饒速日尊に自ら十種の神宝を手渡し、皇子の母方の叔父の太玉命を後見人に、事代主命(二代目大物主命)と天児屋根命を脇役とし、多くの武人を警護として周りを固め、畿内奈良盆地に出立した。多くの神宝を手ずから皇子に渡した事は、忍穂耳尊が二代目の大君の位を三代目に委譲した事を意味すると考える。部隊は陸路をとった。


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◆(その7)木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について:その7

2010-10-17 22:26:14 | ◆木花咲哉姫と浅間神社・子安神社
 政府高官の天下りが問題になり新聞その他マスメデヤを通じ広く報道され、これを知らない日本人は殆どいないと思う。定年後、関連機構を管理職として渡り歩き、そのたびに税金を支出源とする高額退職金を受けて晩年を無為に過ごす。極少数の人が対象であろうがマスコミの絶好の攻撃目標となり、表面上は全面禁止になったように素人の私の目には映る。しかし振り子の針は常に左右に振れる。最近になり円滑な多くの天下りまで廃止となり官公庁の人事面で混迷の基になっているとの記事をしばしば見かける。天下り、つまり横滑りの禁止により官公庁が丸抱えとなり人件費は高騰、後進の官吏は先がつかえて頭打ちと鳴り、使命感を注ぐ的を失い士気も衰える。このままでは国を支える有能の士は官公庁を敬遠し、それは国の衰退にもつながるのでないかと心配である。素人の無駄な心配と云われれば口を紡ぐしかないが。

 戦前の神話教育では、遠い、遠い、見知らぬ空の上の国で偉大なる女の神様天照大神が孫の瓊瓊杵尊に『眼下に見える葦原の中つ国は悪人がはびこり、ウジ虫などがうようよして大変乱れている。汝が云って族共を平らげ、豊かな国として治めるように』と八咫鏡・八坂瓊勾玉・天叢雲剣の三種の神器を御手ずから手渡し、孫神は多くの武官文人を従えて日向の高千穂の峰に天下ったと教えていた。この部分は當時の国是であった八紘一宇の志の浸透を国民に図る最重要の教課であったと思う。戦前には四大祭日が制定されていて元旦節・紀元節・天長節・明治節があった。全ての公共機関は休みで、私たち生徒はお祝いの式に登校し紅白の御供物を頂き家族一同で割って食べた記憶が今でも鮮明である。校長先生は東京農大の出身で海軍士官歴もあり、昭和天皇の大礼式に参列した経歴もあるのであろう、式には威儀を正し、大礼服に身をつつみ、ナポレオンの肖像で見るような船型の長い帽子を被り奉安殿から講堂に紫の袱紗(ふくさ)に包んだ教育勅語を三方に入れ、高く捧げて粛々と運び、朗々と勅語を読み聴かせた。その間、私たち小学生は緊張して頭を下げ、顔を上げて周囲を見渡すなどの勇気などなかった。その四大節で一番重要な式は2月11日の紀元節であったと思う。各式典にはその祭日の歌が有り声を上げて毎回斉唱した。その紀元節の歌『雲に飛びえる高千穂の 高根下ろしに草も木も 靡き伏しけん大御代を 祝う今日こそ楽のしけれ』。格調がある名曲であったと今でも思う。



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