◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆「蘇我太平記」第十章 皇位後継審議に異議あり・・山背大兄王の抗議・その1

2011-12-21 14:33:02 | ◆蘇我太平記
 又、山背大兄王の異母兄弟の泊瀬中王は影響力のある中臣連・河部臣を呼びだし「我ら親子はみな蘇我氏の血筋を深く受けていることは、皆に良く知られている事だ。故に蘇我氏を高く聳え立つ山の如く信頼している。次代の帝位を軽々しく口にしないで欲しい」と告げ、更に三国王・桜井臣に命じ議政官と一諸に「ご返事をお聴きしたい」と申し出た。 これに対し蝦夷大臣は紀臣・大伴連を三国王・桜井臣に送り、次の様に返事をした。「先の言葉で全て終わった筈だ。その後に変わった事はない。念の為言って置くが、私蝦夷は何れの王を軽く見て、何れの王を重く見ているわけでは無い」と答える。更に日数を経て山背大兄王は又桜井臣を蝦夷のもとに送り「先日申した事は私は聞いた真の事を申したに過ぎません。どうして叔父御方に異論を持つ事がありましようや」と言わせた。この日蘇我大臣は体調がすぐれず、桜井臣に合わなかったが、次の日に大臣は桜井臣を呼び出し、阿部臣・中臣連・河辺臣・小墾田臣・大伴連らに桜井臣に合わせ、山背大兄王に伝える様に次の如く言わせた。「欽明天皇の御代より今に至るまで、仕える群臣は皆頭が冴え立派な者たちある。唯、私だけが至らぬ者と思っているが、代わる人材がおらず、多くの臣の上に立っているが私の人徳不足の為か事がどうしても中々決まらないでいる。次の帝位の決定の遺言の内容は機密で伝える事は出来ない。心労が重なりこの問題から逃げたい気持ちだが、はっきりと申し上げたい。遺言の事は間違っていない。是は私の意志では無い」この伝言を阿部臣・中臣連に伝えた際、蝦夷は更に境部臣に向かい質問したと書紀に記されている「田村皇子と山背大兄とどちらが天皇に良いだろうか」蝦夷の叔父に当たる境部臣摩理勢は「何で言う事がありましょうか」と怒りを露わにしてその場から立ち去った。この時、死んだ馬子大臣の墓を造る為、蘇我氏の面々は各々の作業場を墓所の近く造くっていた、摩理勢臣はその作業場を壊し、自分の寮に引き揚げ、以来出てこなかった。蝦夷は是を怒って身狭君勝牛・錦織首赤猪を使いとして摩理勢に伝言した「叔父が不礼を働いていても身内であるので、罰する事を控えている。若し私が非条理で叔父が正論を言っていれば、私は叔父に従う。もし叔父が間違を知りながらそれに固執するならば、私はこれを許さず断固反対する。それでも尚、私に逆らうならば貴方と絶縁する。されば国が再び乱れる。後世の人は二人がこの国を駄目にしたと云うであろう。これは末代までの恥である。この事を考えて反抗は止めてくれ」。しかし摩理勢は依然としてこれに従は無かった。余程腹に据えかねぬ事が有ったのであろう。自身の館を出て斑鳩の山背大兄の異母弟の泊瀬王の宮に移り住む。蝦夷大臣は激怒し、又、議政官を使いに出して山背大兄に仲立ちを頼むと思わせる発言をしている。「摩理勢叔父が我に逆らい泊瀬王の宮に隠れて音沙汰が無い。摩理勢叔父を出頭させてくれないか、その訳を聞きたいと思う」これに対し山背は「摩理勢臣は私の父聖徳太子と強い親交があり、色々と有って来辛く成ったのでしょう、蝦夷大臣に心の芯から逆らう気など無いと思います。お願いですから臣を咎めないで、様子を見てください」。次に山背大兄は摩理勢に次の様に語っている「摩理勢臣が私の父太子に恩義を感じ、私の為に強く働いてくれている事を大変感謝しております。しかし、貴臣が逆らうことで乱が起こる心配があります。父太子が臨終の席で私ら子供の向かい『どんな事でも悪い事はするな、良きことの実踐に努めよ』と申された。私は此の事を常に心の戒めとしています。私は今回の経移には納得できませんが、我慢して蝦夷大臣を恨むこと有りません。良く私の為に尽くしてくれた貴臣を、これ以上窮地に落としたくないのです。なに憚る事無く大勢に加わり蝦夷大臣に従って下さい、お願いをします」摩理勢の近従たちも口を揃えて「山背大兄の言葉に従うべきです」と摩理勢に進言する。摩理勢臣の心は乱れに乱れても纏まりがつかず、号泣して館に帰り閉じこもって十日余り、泊瀬王も心痛の極みで急逝してしまう。摩理勢臣は身の置き所を失い「この後、生きるとも誰を頼たらよいか」と絞るような声で言った。



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◆「蘇我太平記」第九章 馬子から蝦夷へその3

2011-12-14 15:00:44 | ◆蘇我太平記
 実はこの会合の前に蝦夷は蘇我氏の稲目からの分家、境部摩理勢臣に「今推古帝が無くなって後継が決まってない。誰を天皇にから良いかのう・・・」と身内の相談する。これに対し摩理勢は「山背大兄が良いでしょう」と答えている。蝦夷はその意見を知っての上で自宅に皆を招き謀ったのだ。その会合の紛糾の様子を斑鳩の山背大兄は聞いて、三国王と桜井臣和滋古を密かに蝦夷の元に送り、次の様に自身の思いを伝えた。「私が聞くところによると、叔父上は田村皇子を後継の天皇にしたいと様子と聞きました。この事を聞き私は立つて思い、座って思っても、どうしてもその理由が解りません。この際、叔父上の本心をはっきりとお聞かせ下さい」この使いの言葉を聞き、蝦夷はその場で返答に困り、返事を先延ばしにした。蝦夷は再び阿部臣・中臣連・紀臣・河辺臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣らを招き、山背大兄が使いを送って来た事と、その伝言を詳しく皆に伝え、次いで蝦夷の基に仕える議政官に命令をした。汝らは斑鳩の宮に行き山背大兄王にこう伝えてこい『蘇我蝦夷は群臣の中に単の家臣の一人でしかない。どうしてその私が一人で次の天皇を決める事が出来ようか、唯推古帝の意言を郡臣に伝えただけである。群臣は揃って遺言は田村皇子が自分から天皇になると云え、との意味と考え、誰も異を唱えない。これは郡卿の決定である。私蝦夷の心ではない。私一人思っている事が有っても、亡くなられた天皇のお心を尊び言葉には出来ない。いずれその時が来るであろう、その時には申すであろう』と伝えろ」と云った。議政官たちは斑鳩宮に行き三国王・桜井臣を通じて大臣の言葉を山背大兄に伝える。山背大兄は使いの議政官達に疑問に思っている事を伝えさせる。    山背大兄は「推古帝の遺言を詳しく知っているか」「私共は詳しく知りません。唯大臣に云われた事を言っているだけです。天皇は病で床に就いた日に田村皇子に『国政とは重い責任があり、軽々しくあれこれ云うべきものではない。田村皇子、肝を決めて云え、だらだらと自分の気持ちを暈かしてはいけぬ』又、山背大兄王には『汝は未だ若い、あれこれかしましく言っては成らぬ。群臣の決めた事に必ず従うように』これが床の周りにいた多くの女王・采女達が聞いたところであり、又、天皇が口にされた言葉と聞いています」と答える。
大兄王は更に質問を続ける。「いま、遺言と言われたが、その遺言を一体誰が聞いたのだ」「私たちはそれは機密である為、知りません」。さらに山背大兄王は静かに、しかし、心の中を吐きだす様に議政官達に言った。「親愛する蝦夷叔父君を労しく思い、汝ら使いの者のみでなく、阿部臣ら重臣たちにも真実を教え諭すのであるから、良く聞いて欲しいのだ。今そなた達が言われた遺言とやらは少し私が聞いた言葉とは違う。私が推古帝が病重しと聞き、急いで禁中に参じ待機していると、中臣連彌気が迎い入れ「天皇がお召しになられる」と申された。進んで奥の中門に行くと栗隈采女黒女が迎えに出ていて、大殿に導かれた。そこには近従の栗下女王を初めとして女孺鮪女ら八人、合わせて数十人、推古帝の傍にはべっていた。田村皇子も居られた。天皇はお苦しいのであろう、私を見ることが出来ないご様子であった。栗下女王が「お召しになった山背大兄王がお傍に参っております」と申すと、天皇は床の上で頭を挙げて座り『朕は才能もなく身不相応にも天下の業を取り仕切り疲れ果て、それも終わった。もう長くはないと思う。山背王とは同じ蘇我の血筋であり、頼りにし愛おしく思っている。天位に付くと云うことは何時の世も大変な務めである。山背王、汝は未だ若い、その事を良く弁えて心を定めよと申された。この事はその時に座にいた多くの者皆が知っている筈だ。それ故に帝の温情あるお言葉を聞き、恐れお多く、又悲しく、その一方心の隅では小躍りする程嬉しく、何をしていいか手に付かない程であった。しかし落ち着いて考えてみれば、国を背負うと云う事は並大抵の者が出来る業ではない。我は若く、至らな過ぎる人柄で、何んでその地位に登る事が出来ょうか。その時が来れば私の心中を、叔父や重臣たちに申し上げようと思っていた。その機会もなく今になってしまっただけだ。以前の事だが私が叔父御の病気見舞いで奈良の豊浦寺に行ったことがあった。その時、推古帝は八口采女鮪女を私に遣わして言われた事は『汝の叔父の大臣は口癖のように汝山背のことを心配し、百年の後には成長して帝位に付ける様になるだろう・・・と云っている。自覚して心身を修め己を高める事だ』と申された事がある。はっきりとこの様な事実があるのだ。私は今回の大君の言葉を疑っていない。私はしかし天位など望んでいない。唯、帝が枕辺で言われた真の言葉を、皆にはっきりと知ってもらいたい。私は真の遺言を知りたいだけだ。 使役の方がたは言葉の橋渡しをする役目であるから、天地神明に誓って、此の事を正確に叔父に伝えて頂きたい』と申された。


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◆「蘇我太平記」第九章 馬子から蝦夷へその2

2011-12-09 14:40:59 | ◆蘇我太平記
 その年の九月二十日、推古天皇の喪礼が始まり竹田皇子の陵に葬った。未だ後の天皇は決まっていない。馬子・守屋は生存せず蘇我蝦夷が一人の大臣でこの難事を決めなければならない。しかし蝦夷が馬子に変わって年がまだ浅い。群臣に一応計るのが丸く収まると安易に思ったのであろう、蝦夷は阿部麿呂臣と図り群臣を自分の館に招いて饗応した。宴が終わり皆が帰り支度の合間となり、阿部臣が蝦夷に促されて群臣に話を切り出した。「推古天皇が薨じられ時が経つが、未だ後をつぐ天皇が決まっていない。これを延ばしていくと万事が乱れる元となる。いずれの君を後継と定めるべきか、先帝が危篤と成り田村皇子に詔して『天下は大任なり、本より輙(たやす)く言うものに非ず。汝田村皇子、慎みて察(あきらか)にせよ。緩らんこと不可(まな)』と申された。次に山背大兄王を召して申されるには『汝独り騒がしく申すではない。必ず群臣の決定に従うよう慎むべし』と申された。是が天皇の遺言である。今誰を天皇とすべきか諸臣の意見を聞きたい」と述べた。座はシーンとなり誰も答える者がいない。阿部臣は重ねて問うが、だれも答えない。「もう一度聞く、誰も答えが無いのか・・」ここで大伴鯨連が座を進めて口を開く「天皇が遺言で云われた事であり、我我臣下が申し上げる事ではないと思います」阿部臣は「その返事では判らん、汝の思う事を申してみよ」大伴連がこれに答え申すには『天皇が如何に思われていたか。『天下を治める事は大仕事である。だらだらとした態度で事に臨むでない』と申された。これに拠れば、先帝の意志は既に決まっている。誰が一対異存を申せましょうか と言う。これに対して采女臣摩伶礼志・高向臣宇摩・中臣連彌気・難波吉士見刺の四臣が「今の大伴連の御言葉は最もな考えと思います」と言う。許勢臣大麿呂・佐伯連東人・紀臣鹽手の三人が進み出て「山背大兄王を後継天皇と私共は考えています」と申し出る。唯蘇我倉麿呂だけは黙して語らず、やがて「私はただ今の所即座に意見を申せません。後ほど考えを申します」と答える。蝦夷は皆の意見が纏まらず、一日で後継の天皇を決める事は無理だと考え、途中で席を去ってしまった。


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