◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆万葉徒然想(その6)

2014-02-26 19:12:39 | ◆万葉徒然想
 石川女郎女の歌
 みやびをと 我は聞けるを やど貸さず われを帰せり おそのみやびを
大伴宿弥田主は容姿美麗、風流卓越、見る人、聞く人、嘆息しないものは無かった。石川女郎女は夫婦になろうと思い、意中を手紙に書いたが、使いの者がいない。そこで年寄りの女に扮し、土鍋を下げて田主の家に行き戸を叩いて「東隣の舎女ですが、火を頂きたくて、伺いました」といった、田主はそれが美人の女郎女だと気が付かず、女を引き泊めて交わるなど毛筋も思わず、火を貸してすぐに帰らせてしまう。次の朝、女郎女は仲人なしで突飛な求婚をしたことが恥ずかしく、又、田主の無粋さが恨めしく、この歌を送ったのである。
その歌に対する田主の返し歌。
  みやびをに 我はありけり やど貸さず 帰しし我そ みやびをはにある
私は風流者です、あなたを泊めないで帰した私こそ、本当の風流者です。
持統天皇の雑歌の中の歌。
  否と言えど 強(し)ふる志斐(しひ)のが 強い語り この頃きかずて 朕(われ)恋ひにけり
いやと言っても志斐婆さんがする、しつっこい昔話でも、この頃きかないので、聞きたくなってきた。
すかさず志斐婆さんの返し歌
  否と言えど 語れ語れと 詔らせこそ 志斐には奏(まを)せ 強い語りと言う
志斐婆さんは若い時からのお付の女官であろう。ほほえましい和歌喧嘩である。
  憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむ
なんの飾りもない胸にジーンとくる山上憶良の歌である。
大宰師大伴卿の酒を讃める歌十三首から三首。
  生るれば 遂には死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
  あな醜 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
  もだ居りて 賢しらするは 酒のみて 酔ひ泣きするに なほしかずけり
大伴坂上郎女の歌 宴席での一首。
  山守の ありけるしらに その山に 標結ひたてて 結ひの恥しつ
大変親しい女性がいるのを知らないで、その人に恋文を書いてしまって、なんと大恥をかいたこと。
その返し歌。
  山守は けだし有りとも 我妹子が 結ひけむ標を 人解かめやも
恋している人はいますが、あなたの恋のしるしは大切にして、忘れません。
 古今和歌集には社寺に関する歌が一首もない。やっと万葉集に出てきた一首
  千早振る 神の社し なかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを
左近岩弥赤麻呂が娘にあてた恋文に対する返し歌で、神の社でなかったら粟を蒔いて鹿を呼び寄せるのですが(あなたが夫婦者でなかったら粟[逢う]いたいとは思いますが)、とやんわり断ったのである。神が出てきても神心の一片もない。
  来むと言うも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを 
「瓜売りが 瓜売りにきて 売れ残り 売り売りかえる 瓜売りの声」という昔覚えた歌が頭に一瞬にして、浮かんだ。
高田女王の三首。
  人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み 会はざりき 心有るごとな 思ひ我が背子
  わが背子し 遂げむと言はば 人言は 繁くありとも 出でて逢はましを
  この世には 人言繁し 来む世にも 逢はむ我が背子 今ならずとも
今も昔も人は他人の噂を面白がる、あまり噂が大きいので、この世でなくて、あの世にでゆっくり逢いましょう。終わりの一首はすさまじい。
神を中心にしている少ない歌の中に一首。
  思はぬを 思ふと言はば 大野なる 三笠の杜(もり)の 神し知らさむ
嘘で好きだと言っても、三笠の神はお見通しです、ネガティブの意味だと思っていたら、解説は「嘘ではありません、本当に好きです」の意味になっていた。
大伴旅人の一首。
  ぬばたまの 黒髪変わり 白けても 痛き恋には 会ふ時ありけり
女性の歌。
  汝をと我を 人ぞ離(さ)くなる いで我が君 人の中言(なかごと) 聞こすなゆめ
私とあなたの仲を裂こうとして、色々と中傷しているようですが、本当にしないで、お願いだから
華やかな坂上女郎女が老いて引きこもった時、ある天皇に献じた歌。
  あしひきの 山にし居れば みやびなみ 我(わ)がするわざを とがめたまふな

  瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ まなかいに もとなかかりて 安眠しなさぬ
「まなかいにもとなかかりて」は目の前にちらついての意味。
返歌。
 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも 
4500首は人様々で、その首数の多さを堪能される方も居られるが、素人の私には膨大すぎる。このあたりで止めておきたい。その上、なんと恋歌が多いことかと思う。歌の題材として、あらゆる角度の見方があったはずである。名もなき下草の民が主体であったなら、なお率直で目が潤うような歌が数多く出てきたはずだ。奈良・平安期は長い平和の日々であった、と上層の人々には言えるであろう。男女の恋が人生苦の大半を占めていたのであろうか。




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◆万葉徒然想(その5)

2014-02-19 17:22:11 | ◆万葉徒然想

 古今和歌集と万葉集の違いを探ってみたい。万葉集には前述の如く序文がない。そのため世に出た背景が全く分からない。勅撰であるとの説、上層の人びとから自然発生的に出てきた歌集であるとの説、編者も分からない、一人の編者ではあるまい、各巻がそれぞれ違う撰者により選ばれたという説、編集者の長として大伴家持が選ばれていたとの説など数限りない。古今和歌集の100年以上前のものならばその間に作風にどのように変化が見られるか。歴史上奈良・平安の還都でみるように律令国家の安定期であり、大きな世情の変化は歴史の表面には出ていない。しかし人の心の移り気は昔も今も同じで、万葉人は和歌を代役にして 己の心の芯を明かしたのであろう。それに何があるのか、面白い。
 万葉集は全部で4500首をまとめた大巻である。一回目はただ頁を捲っただけで、斜め読みにも達しない。二回目は斜め読みで、それも900番まできて後はあきらめた。万葉集をテーマにしている専門家で無い限り、根気に限界があるのでないか。しかし何か傾向が有るように思われる。識者が読めば噴飯物であろうが、これを飛ばすと文体に大穴があいてしまう。相聞(恋歌とみてよい)部類には古今集に近い凝った言い回しのものがあるが、素直に心を表したものが多い。挽歌は葬送の時の歌である。大部分を占める雑歌は行幸や遊行、狩猟での歌合わせなどを広く含む。天皇・皇后・皇族の歌が多く、天皇への返歌の形をとるものがかなりある。第一巻に晴れの部分が集中する。
 第一巻、巻頭の歌、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)
  籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな
名告(の)らさね そらみつ大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそは 告らめ 家も名をも
この岡で若菜は摘んでいる児(一角の家の女児であろう)よ、良い籠をもち、良いへらを美しく使うことよ、その家と名を名乗りなさい、我こそこの大和の総てを支配している、私を措いて大和はないぞ、私こそ名乗ろう、私は稚武であるぞ。
 この歌は豊かな表現で高らかに天皇の御世を謳歌している。今や基盤から安定している王朝の主を、文化の証となる大々的な歌集、万葉の一番の歌に据えることは、選者として大きな意義を感じたのであろう。
 雄略天皇を私は暴君だと思っている。日本書紀は歴代天皇をはるかに凌駕する史筆で多岐にわたりその暴君振りを詳しく述べている。国の正史でありながら、虚飾を捨て、淡々とその経緯を追っている。しかも既に滅んだ国でなく今なお権勢ますます盛んな皇統の、いわば恥を自ら暴いているのである。世界史に於いて真に稀であり、一部学識者の書紀に対する誹謗は其の点に関し、為にする曲解と考える。
 暴君を語る場合、織田信長を挙げる人が多い。しかし暴君の所業といわれる比叡山焼き討ちは、自らの信念を固く信じての行為で、当時の宗門との関係を勘案すれば、軌道を外れた暴挙ともあながち言えないと思う。雄略天皇はそらみつ大和の国はすべてが自分の物と言っている。天も水も、山もその草木も、また男も女も、である。女性は皆己の物であり、人妻とて例外でない。そんな天皇であった。その行状に付いては後述するとして、万葉集の話を続けたい。
 20番に載っている
  あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る  額田王
 21番
  紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも  大海人皇子
 大海人と額田王は恋仲であつた。額田王は天智に横取りされた。二人の間には未だ未練があつた。雑歌と言うより相聞に属すべきものであると一般に解釈されている。紫野は薬草の御料地であり、野守はその番人である。薬草狩には天皇を始め女官・皇族が同行し、そのなかに大海人もいた。自らを番人に見立てて「君(大海人)が私に袖を振っているのがわかります。私は天皇様の妃(又はそれに近い)ですよ、他の番人が見ているではありませんか、袖など振らないで、私の立場も考えて」。このように私は考えていた。最近筑波大の伊藤博氏も同じ事を言っているの知って、私の解釈力も捨てたものではないと安心している。
  春すぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香久山  高天原広野姫天皇(持統天皇のこと)
 同じ歌が新古今和歌集では「衣干したり」が「衣干すてふ」となっている。「夏来たるらし」が「夏来にけらし」となっている。
 編者が勝手に変えたのではなく、平安時代以後の万葉集の訓読の一つだそうである。
  ますらをや 片恋せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なほ恋ひにけり  舎人皇子
 男だから、片恋などするものか、と思うのだが、男だから、矢張り恋しくて、しかたがない。

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◆万葉徒然想(その4)

2014-02-12 18:44:40 | ◆万葉徒然想
 といって、心に残る歌が全くないとは思わない。数多くの歌に、心に響き的を射抜く物がある。「おや、あの歌はここにあったのか」、と知識の段差を埋めるのに大いに役立ったことも事実である。
  世の中に 絶えて桜の無かりせば 春の心は のどけからまし   業平朝臣
  久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ   紀友則
素性法師の歌が多く載っていた。この人の歌はインパクトが強く眼を引いた。
  見渡せば 柳桜を こきまぜて 都ぞ 春の錦なりける
  木伝へば 己が羽風に 散る花を 誰に仰せて ここら鳴くらん
  思ふどち 春の山辺に 打ち群れて 其処とも言はぬ 旅寝してしが
『こきまぜて』『思ふどち』等が当時として、雅の言葉か卑なるものか、詠む人にパッと来る、詠み人の一つのテクニックであろう。
  春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香りやは 隠るる  躬恒
四人の編者の一人の凡河内躬恒の作である。編者であるから高貴の方であろう(先代旧事本紀、奇玉火之明命の河内国降臨の随員 に、天御陰命凡河内直等祖の記載がある)、歌は底深く心は澄んでいて、それ以上のものを詠っていない、凡夫の私が躬恒の代わりにこの歌の続きを夢でみる。
 深黒の闇である、香りのする方に手探りで歩み出す。白い顔が浮かんできた。若き頃、情念を打ち捨てて別れたおみなの顔である。笑みを含んだ潤いの目が近づく。手を伸ばし、顔を探る。生きていたか、今どこにいる、問いを重ねるうちに眼が覚める。小野小町の歌に同じようなものがある。
  思いつつ 寝ればや 人の見えつらん 夢と知りせば 覚めざらましを
 小野小町の晩年は侘しき人生であった。数ある周囲の男どもが彼女を聖女として押し上げ、華で飾り、いわゆる褒め殺しにした。最早、人並みの女性に帰れなくなったのである。そして容色が衰えれば、周囲はそれを朽ち落ちた花のごとく掃き除き、踏み付けたりもする。小町の歌には有為転変を滲ませた悲しい歌が多い、
  転寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふ物に 頼み初めてき
  色みえで 移ろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける
  侘びぬれば 身を憂き草の 根を絶えて 誘う水あれば 去なんとぞ思ふ
  花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる 眺めせしまに 
 『夏は来ぬ』は戦中・戦後の人が好んで唄った歌である。その歌詞の原点がここにあった。
 我が宿の 池の藤波、咲きけり 山郭公(ホトトギス)何時か来泣かむ  詠み人しらず
同じ詠み人しらずの歌
  我が君は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔のむすまで
  秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる  藤原敏行
  木の間より 漏り来る月の 影みれば 心尽くしの 秋は来にけり  詠み人しらず
  奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき  詠み人しらず
 豊臣秀吉の人柄を示す逸話に出て来る歌である。
  千早振る 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くるるとは  業平朝臣
  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも  安倍仲麻呂
  海の原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海女の釣り船  小野篁朝臣
 在原業平の伊勢物語の中の有名な歌
  名にしおはば いざ言問はむ 都鳥 我が思ふ人は ありや無しやと
これは古今和歌集の収録歌であった。いまひとつ
  月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは 旧(もと)の身にして
 若い頃から記憶の中に埋もれていた歌が「あれここに」、「おや、この本に」と続出して頭を和らげ、次第に親しみ深いものになって来る。最後に非常に解かり易い業平の歌
  遂に行く 道とは予ねて 聞かしかど 昨日今日とは 思はざりしを


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◆万葉徒然想(その3)

2014-02-05 19:20:47 | ◆万葉徒然想
 天照大神の姉神の和歌姫(下照姫)とはどの様なお方であっただろうか、秀真伝の一部を現代風に書いてみたい。
 和歌姫は父が40歳、母が31歳の時の第一子であった。3年経つと父42、母33、和歌姫は3歳で三人厄となるため、その前に厄除けで川に流したのである。前もって命を受けていた金柝命(住吉の神と同一神)が姫を引き取り育てた。厄が明け再び両親のもとに帰った姫は紀志伊国(和歌山県)の玉津宮に住まわれる。和歌姫は大変に聡明でその上に積極的なお方であったらしい。勅使として来られた天智彦命(思兼命)の優雅な姿に強く恋心を抱かれた姫は、自ら短冊に
「きしいこそ つまおみきわに ことのねの とこにわきみお まつそこいしき」
 と書を染めて天智彦命に手渡したのである。当時、既に求婚には仲人を立てて正式に進めるのが一般の習いであった。天照大神の姉君である方からの異例の恋文である。天智彦命はすっかり気が動転してしまい、返事はまたあらためて、とそそくさと高天原に帰り金柝命に相談する。歌をもらえば返歌をしなければならないのが礼儀であった。金柝命がこの歌を見ると、これは回り歌で返事が出来ないという。回り歌とは上から読んでも下から読んでも同じに読める、回文のような和歌のことである。上記の歌を読んで頂きたい。
 金柝命は困り果てて上に言上すると、金柝命を仲人として天智彦と和歌姫は夫婦になるようにと勅命が下された。大神から和歌姫には下を照らす下照姫と名が贈られた。その後夫妻は天照大神から根の国(北陸)と細矛(山陰)の統轄を命じられる。神通川と飛騨川は高山の南で分かれ、高山・古川・国府は日本海側で根の国に属していたと思いたい。奥飛騨の位山には巨大な盤座があり和歌姫夫妻に関係している遺跡だと私は密かに思っている。この和歌姫が天照大神と混同され、後世の古事記・日本書紀に、意図的か否か知る術がないが、記述されていて、現在なにかにつけて記紀がネガティブな目で見られる原因になっているのでないかと思って居るが、これに関しては表題から外れるので他の機会に譲りたい。
 私は和歌・俳句の文集を、目を凝らして読んだことがなかった。今回、古今和歌集・万葉集を斜め読みながらずーっと始めから終わりまで、眼を通してみた。普通、知らない文学の知識を身に付けようと、古典の頁を繰るならば、まずその解説部分から読み始めると思う。気をはってその細部まで眼を通せば通すほど、次に続く本文を初めからそれに影響されて色メガネを透して読むことになる。万葉集の一人ひとりの作者が胸裡に湧き上がる感情を詠い上げようとするリアリズムに比べると、古今和歌集は異なり、その時々に生まれる感情や美意識のあるものを、彼等の胸の中でより純粋のものとして増幅し、強調して普遍的に歌に結晶させている。現実以上の観念を歌に織り込む努力が必要である。そのため作者は様々の技法を凝らす。
 明治31年、正岡子規は『貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候。崇拝している間は,歌といふものは優美にて古今集は其粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋も一朝にさめてみれば、あんな意気地のない女に今迄ばかにされていたことかと、くやしくも腹立たしく相成候』等痛烈に批判している。
 今回この随筆を書き始める一カ月前、初めて古今和歌集というその道の聖典を手にして、解説の全文は精読したと自分では思っている。私はかなりのせっかちで、本文の和歌が次から次に並んで出て来る段になると、例の如く斜め読みになり、よく解からないのに先へ先へと目が自然と流れてしまう。これではならじと再び読み直しても、また目が斜めにそれる。よく10を知って1を語れと言うが、10分の1も知らず、またなにか書く心算でいる。この愚を何を言うか。後ろ頭が急に重く、こめかみに軽い痛みが走る。古代について何かを語るとき こじつけ談議と名を冠して私はこれを傘にしている。この度もまた心の向くまま書き述べてみた。名の如くこじつけそのものであろう、その名に免じ,続けて目を通していただきたい。
「美しい」「すごく美しい」「悲しい」「淋しい」「恋しい」「会いたい」
 古今和歌集といえば、この連続である。万葉の大宮人の目に映り、心を打つものは、このような限られたものだけだったのか。歌集に和歌の載る人びとは、底辺を支える大多数の人たちの、汗と泥にまみれた真の生活のあり方を知らぬ。彼らとて「美しい」「どこかに行きたい」「恋しい」といった感情はある。しかし厳しい現実がそれを引き戻し、原点の生活に縛り付ける。和歌は所詮上辺だけで、生活の苦しさを知らぬ言葉の遊びなのでないか。これが私のうけた感想である。
冒頭からの20首程は 「春は何故こない」「暦は春なのに何もない」と嘆き、続く梅には「美しい」「香りがたかい」、桜には「何故散るか」「風がにくらしい」「花を針で留めておきたい」といった歌が続く。以下「青柳」「春雨」「雁」「鶯」「春霞」「河鹿」「不如帰」 「郭公」「月」「叢雲」「蟋蟀」「秋風」「鹿」「萩」「女郎花」「紅葉」「菊」「雪」など一年を通し花鳥風月の連続である。
 不思議に思うことは、生に対し最も大切な太陽に関する歌が一つも無いことである。太陽は強烈すぎて、風流や雅から毛嫌いされるのだろうか。
 驚くことは神や仏に関しての歌もない。心の拠り所や、社殿の霊気を詠じる歌も一つもない、私の見る限り見当たらない。心の拠り所は神仏ではなく、自然を愛でる風流の雅にあるというのか。何よりも耳に優しく、甘美な口調で詠唱し、視覚に応える万葉文字がその甘美さを増幅する。この流れこそが詠者の力量であり、風流とは矢張り日々の生活苦とは関係ない奈良・平安の上流層の遊びに過ぎなかったのではないか。正岡子規の論断が大方の標を射ているように思われる。


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