瓊瓊杵尊についての記述に戻ります。大濡煮尊の御宇より弐百壱万二千七拾八年が経ちその年に三月に瓊瓊杵尊は諸臣を集め勅をだします。・・・『昔新治の宮を立て新田開発を試み、さらに原見山に移り新田を大規模工事で成功させた。以来三十万年立派な関東地方を中心とした豊かな秀真の国が出来上がった。考えて見れば私は年も老いてもう長くはない。位を彦火々出見卯津杵に譲ろうと思う』・・・この決定が筑紫の三十二県に伝わると諸神は尊を慕い残念に思われましたが勅が出た以上曲げることは出来ず、盛大な送別の宴が開かれその席で瑞穂の宮までの参内をどうするか論議されました。志賀神が「船が良いと思うが」と言うと子守命の孫鰐彦命が「大亀船(客船)なら一月以内、手漕ぎの鴨船なら一月、大型の帆かけ船の大鰐船なら直ぐに着きます」と答えます。火々出見尊は「父君のお召しであるから速く行きたい。私は大鰐船に乗り先に行く。豊玉姫は後からゆっくり来るが良い」と言われ志賀の浦より出発、追い風に乗り北の津(敦賀)に着き伊奢沙別の宮(今の気比神社がある所)より陸路にて瑞穂の宮(瓊瓊杵尊の本宮で今の野洲市) に着くと待っていた諸臣が大喜びとなりました。実は此の時、尊の努力が報われ豊玉姫は懐妊され臨月でした。豊玉姫は尊に「私は鴨舟で行きます。伊奢の松原に産屋を作って用意しておいて下さい」と伝言します。ところが産屋の屋根がまだ出来上がる前に豊玉姫の鴨船が着き、早々に産屋に駈け込みお子を産まれました。豊玉姫と生まれたお子は古くより伝わる産後の習わしに則り大切に日々を送られました。勝手神は姫に産後の椅子を用意し、又、卯葺草の湯を毎日使わせました。[戦時中【夏は来ぬ】と題した学校唱歌がよく歌われました。その歌詞の卯の花が咲き・・・夏が来ぬ を思い出します]。その葉を煎じた湯でしよう。勝手神が火々出見尊にご注意をした事があります。「君は産屋を覗いてはいけません。四月の満月の日より七十五日は日毎に卯葺草の湯を使いますので。これは古来からの習わしです」(その間姫が裸になりますので覗いて姫に辱めを与えないで下さいの意)。生れて来たお子の諱を天児屋根命は考え鴨仁とし、豊玉姫よりは鵜葺(うがや)草葺不合(ふきあえず)尊(のみこと)のお名を賜ります。君の世継ぎの御子としては不向きのお名の様に感じますが、その名の理由は姫が九州と大陸との半島の間の海(玄海灘と推定)で乗っていた鴨舟が壊れ、姫・建秖命・穂高見命が渚に落ちて溺れそうになり、姫は気強く力をふり絞って泳がれ竜や蛟(みずち)の助けも借りず岸に泳ぎ着きます。そこから釣り舟で美保崎に渡り、帆かけ船を乗り継いでで敦賀に着いたのです。名前は勇ましい心の君である様、母の願いの表れでした。
◆◆このたび、電子書籍を出版致しました。◆◆
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「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」(100円)
(この書名をクリックされますと、詳細ページへとジャンプします。)
内容はこちらでも掲載していました「木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について」に若干の訂正を加えたものです。
ブログ・ホームページよりも読みやすいかと思いますので、まずは詳細ページの「試し読みページ」からご一読いただけましたら幸いです。
よろしくお願い致します。
◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです
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