◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆神武以前三代記 第四章  海彦山彦物語が語る神代の社会 その5

2012-06-27 15:05:51 | ◆神武以前三代記
 瓊瓊杵尊についての記述に戻ります。大濡煮尊の御宇より弐百壱万二千七拾八年が経ちその年に三月に瓊瓊杵尊は諸臣を集め勅をだします。・・・『昔新治の宮を立て新田開発を試み、さらに原見山に移り新田を大規模工事で成功させた。以来三十万年立派な関東地方を中心とした豊かな秀真の国が出来上がった。考えて見れば私は年も老いてもう長くはない。位を彦火々出見卯津杵に譲ろうと思う』・・・この決定が筑紫の三十二県に伝わると諸神は尊を慕い残念に思われましたが勅が出た以上曲げることは出来ず、盛大な送別の宴が開かれその席で瑞穂の宮までの参内をどうするか論議されました。志賀神が「船が良いと思うが」と言うと子守命の孫鰐彦命が「大亀船(客船)なら一月以内、手漕ぎの鴨船なら一月、大型の帆かけ船の大鰐船なら直ぐに着きます」と答えます。火々出見尊は「父君のお召しであるから速く行きたい。私は大鰐船に乗り先に行く。豊玉姫は後からゆっくり来るが良い」と言われ志賀の浦より出発、追い風に乗り北の津(敦賀)に着き伊奢沙別の宮(今の気比神社がある所)より陸路にて瑞穂の宮(瓊瓊杵尊の本宮で今の野洲市) に着くと待っていた諸臣が大喜びとなりました。実は此の時、尊の努力が報われ豊玉姫は懐妊され臨月でした。豊玉姫は尊に「私は鴨舟で行きます。伊奢の松原に産屋を作って用意しておいて下さい」と伝言します。ところが産屋の屋根がまだ出来上がる前に豊玉姫の鴨船が着き、早々に産屋に駈け込みお子を産まれました。豊玉姫と生まれたお子は古くより伝わる産後の習わしに則り大切に日々を送られました。勝手神は姫に産後の椅子を用意し、又、卯葺草の湯を毎日使わせました。[戦時中【夏は来ぬ】と題した学校唱歌がよく歌われました。その歌詞の卯の花が咲き・・・夏が来ぬ を思い出します]。その葉を煎じた湯でしよう。勝手神が火々出見尊にご注意をした事があります。「君は産屋を覗いてはいけません。四月の満月の日より七十五日は日毎に卯葺草の湯を使いますので。これは古来からの習わしです」(その間姫が裸になりますので覗いて姫に辱めを与えないで下さいの意)。生れて来たお子の諱を天児屋根命は考え鴨仁とし、豊玉姫よりは鵜葺(うがや)草葺不合(ふきあえず)尊(のみこと)のお名を賜ります。君の世継ぎの御子としては不向きのお名の様に感じますが、その名の理由は姫が九州と大陸との半島の間の海(玄海灘と推定)で乗っていた鴨舟が壊れ、姫・建秖命・穂高見命が渚に落ちて溺れそうになり、姫は気強く力をふり絞って泳がれ竜や蛟(みずち)の助けも借りず岸に泳ぎ着きます。そこから釣り舟で美保崎に渡り、帆かけ船を乗り継いでで敦賀に着いたのです。名前は勇ましい心の君である様、母の願いの表れでした。



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◆神武以前三代記 第四章  海彦山彦物語が語る神代の社会 その4

2012-06-20 16:21:13 | ◆神武以前三代記
 その後、尊は海神の女(むすめ)豊玉姫を妻として此の海神の宮で三年が経ちます。平穏の日々が続き心は安らかですが、尚、元の国を懐かしく思い時々ためいきをついてしまいます。豊玉姫がそれを聴いて父神に「天孫はここに飽きて仕舞ったのでしょうか、元の所を思い出して嘆いて居らっしゃるのでしようか」、海神は火々出見尊に静かに聴きます。「天孫、君が元の宮裏に帰りたい思いがお有りなら、送り返して差し上げましょう」と言い例の釣り針を取り出し、「この針を兄君にお返しの時は安物の針と言いながら、後ろの方に投げなされ(兄君を怒らせる意味)、更に潮満瓊(しおみちのたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を取り出して、「潮満瓊を水に漬ければ忽ち満ちて兄君は溺れそうになります。兄君が謝れば潮涸瓊で水が引きます。この様に何度も懲らしめれば兄君は降伏して尊に長く従いましよう」と玉の使い方を教えます。尊が帰る寸前に豊玉姫が「妾(やっこ)(女性が己を卑下する言葉、男はやっがれ)は既に妊娠しています。臨月が近づいています。波風が強い日に浜辺に出て船で必ず貴方の所に参ります。ですから浜辺に産屋を作って待っていて下さい」火々出見尊は宮に帰り教えられた通りにして兄に会います。兄酢芹尊は大変に怒り、策にはまって弟に降伏し長く弟に仕える事と成ってしまいます】。

 秀真伝と日本書紀の比較、如何でしたでしょうか。前者が稍現実的の様ですが殆ど同じと思いますが、お考えはお任せ致します。
 更に秀真伝と書紀の記述の違いを追ってゆきます。一見無意味の如く感じますが次第に書紀の目的がおぼろげに見えて来る筈です。秀真伝は次の様に記しています。
 『此の後波堤神は卯津杵尊に「我子達が君に御挨拶をさせたく思います。豊祗彦、豊玉姫、建祗彦、乙玉姫を連れてきまた」。尊は子達との拝顔の儀式が終わると、お筑紫の多くの神々を集めさせ「私は妻を召そうと思うがそなた達はどう思うか」と問いを出します。穂高見命が進み出て「尊が父君瓊瓊杵尊に筑紫巡幸を願い出された時、父君より筑紫治君のお名を既に頂戴しておられます。此の事は筑紫を治める位でおられます。私達にお任せ下さい。君の御母上の此の花咲く哉姫は父君の一夜の契りで尊や兄君達を授かり後に正式にお妃とされ、その間大変な御心配事が続きました。その失敗を成さらぬ様、尊が私共を集められ意見を聞かれる事は大変良いお考えです」。その後諸神の審議により波堤神の娘豊玉姫をお妃に選び先例に倣い典(す)侍(け)、内侍(うちめ)、御下(おしも)を二名ずつ選定しました。中宮及び六局も整い婚礼の儀は昔の大濡煮尊・小濡煮尊の婚礼の儀に則り行われました。この後、火々出見尊は父君の作られた井堰の後を巡幸され、加えて新田を開いて回り、筑紫32県を巡幸し襲緒の波堤神の宮にお帰りになりました。年年作物は実りを増し灌漑が整備された為日照りでも水不足に成らず豊作でした。国々は豊に賑わい六万年の歳月が流れました。・・・【この年月に対し私の考えを後ほど述べますが今は其の侭記述します】。しかし阿蘇の国は未だに土地が荒れて作物が増えません。火々出見尊はそこで阿蘇に宮を作り近くの海で取れるカゾ魚を肥料として田畑に撒きますと見る見る内に田が肥え火の肥国と言われるようになりました。阿蘇には六万年滞在しましたが、志賀の神田が尚豊作に成らず相談と援助を願って来ました。尊は地質を考えられ今度は油(あぶら)糟(かす)を田に入れ良いたんぼとします。この次第を聴き多くの県から支援と技術の応援の依頼が来ます。それらの国々を回り、又、六万年が経ちました。筑紫の宮に坐してより18万年の月日が流れ、その間休みもなく民の事を思われて閑がなく内つ宮や他の局達もお子を産む事が有りません。その事を大事と考えられて筑紫の宮から退出され鵜戸の仮宮に戻られます。波堤神が鵜戸でなく鹿児島の宮に帰られる様招かれたのですが尊は行かれません。波堤神の娘で尊のお妃がその事を父神に報告しますと父の波堤神は「君は鹿児島の宮は楽しくないのでお嫌いですか」と率直な質問をよせてきます。其れに対し尊の返事は「そうではないのだ、后は常に居るのだが閑が無く子供をつくる閑がなかった。それ故に他の宮を見捨て唯ひとり豊玉姫だけを連れて鵜戸の仮宮の留まっているのだ。筑紫の事は常に思い心から離れて居ない」と申されました。』


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◆神武以前三代記 第四章  海彦山彦物語が語る神代の社会 その3

2012-06-13 14:13:25 | ◆神武以前三代記
 彦火々出見尊卯津杵のこの場合も、秀真伝の記述をすべて事実と仮定して、波堤神は港を構築し、付随する漁業・海運に関系する階層を統合する財豪であり己の地位の保持の目的が有ったのでしょう。塩土翁は金売り吉次的役割でしょうか、良い機会を狙い、義経に似た環境の末子を手に納めたのだと推理しています。神代、神代と霞か雲の中の如く考えると混沌としますが、弥生時代とは云え現代人と殆ど変わらぬ人間模様を各人が描く有為転変の世であったと私は考えています。

 秀真伝の記述を基に種々考察をしてきました。この部分を比較として日本書紀の記述を記します。先代旧事本紀にはこの海彦・山彦の話は載っていません。古事記には火々火出見・鵜葺不合葺尊の御宇は殆どと云えるほど記述が有りません。日本書紀は例によって次に曰く、次に曰く、と参考文が載っています。全部を載せると読む方々を余計に混乱に導きますので私の判断で選択し、普遍的の通説を述べてみます。
 【兄弟は弓と釣り竿と針を交換しますが互いに獲物を得ません。これは駄目だと兄が言いだし、弓と釣り道具の交換を迫りますが、弟の山彦は針を魚に取られて返せません。元の針を返せと兄は言い張ります。弟は己の刀を鉱炉で溶かし新しい針を山盛にして差し出すが兄は受け取りません。「元の針を返せ、あの針は普通の針とは違う、元の針だ」。と突き返します。弟は途方に暮れて、どうしたら良いか考えあぐねて浜辺を彷徨っていますと、塩土老翁に会います。何故ここの居られるかと翁の尋ねに対し山彦は事の仔細を話します。翁は「その様に悩みますな、私に良い考えが有ります」と目の細かい籠を作りその中に山彦尊を入れて海に沈めます。すると籠は自然に美しい浜辺に着きました。山彦尊はそこで籠を出て、歩いて行きますと、すぐに海神の館の前に来ました。館は十米に近い土塀を廻らし高殿は光輝く豪壮な構えです。門の前に井戸が有りました。井戸の近くに桂の木があり葉が茂っております。尊はその木の周りをヨロヨロと歩きどうしたら良いか迷っています。暫くして乙女が門を開けて出てきて桶で井戸の水を汲みますが、顔を上げて尊を見つけ驚いて門の中に駆け込み、父母に「門前の木の下に貴い男の服装をしたお方が居ります」と告げると海神は畳を敷き詰め、尊を中に導きいれて座席に休ませ如何してこの所の来られたかを問われ尊は事の始終を話します。海神は大小の魚を集めて「何かそんな話を知らないか」と聴きますが皆が「そんな事はしりません、ただ鯛が口の中が具合が悪いと言って来ませんでした」と答えます。その鯛を召して調べると探していた釣り針を発見しました。


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◆神武以前三代記 第四章  海彦山彦物語が語る神代の社会 その2

2012-06-06 11:49:44 | ◆神武以前三代記
 波堤神は住吉神の系列の神で海運・造船・港の埠頭や防波堤を作る今で云うゲネコン集団の長でしょうか、当時既に労働職種が専門化し始めていたと考えます。塩の満ち干を自在に熟(こな)す玉とは此の事を示すと推理が走ります。志賀神とは福岡市近くの志賀半島の豪族でしょう。山咋命は山林の伐採の奉行に当たりましょうか。
 『待ちぢ』は待たれよと、安物の釣り針でないか、 の意味をかけた言葉で、物語の裏を巧みに表現した秀真伝の記述者の力量で、数多くいた秀真伝の草創文の解説者の中の一人が後年の付け足しではないかとも考えられます。
 更に時代の背景を探って推理を進めます。何かの話に似ている、読まれている方の中には気付かれているかも知れません。思いだして本棚の奥に仕舞い込み、ここ二十年程目も遣らず、やや埃の付いた吉川英治全集34巻を取り出して、新・平家物語の義経の鞍馬山脱走の部分を読んでみました。平泉の豪商金売り吉次、吉次は姓を金沢と言い元家臣で当時の日本全国、京、熊野、大阪、更には瀬戸内、北陸、を股にかけ奥州の金を財源として平泉の必要とする物産を豊富に送り込み、京に劣らぬ華やか繁栄を藤原氏に齎(もたら)した今は商人とはいえ、秀衡が最も信頼する重臣に匹敵する人物でした。吉次が商売に行く諸所の四方山話は秀衡(ひでひら)の最も興味がある、将来の夢にも繋がる心が弾む世間話であった筈です。鞍馬山の小輩牛若丸の話は度々出たことでしょう。「その小倅(こせがれ)を攫(さら)ってこれないか」、酒の上の話しか、しらふの席での話か不明ですが、「私にお任せあれ」と吉次は胸を張ったと新 平家物語では書かれています。
 時代は総て平家の思いのままでした。しかし、至る所に源氏の残党は息を凝らし、土に潜り、再起の機を窺っていたのです。京周辺にも源氏の残党は土蜘蛛の如く蠢いていました。吉次の計画はそんな簡単なものではなかったのです。身を預けられた鞍馬寺では戒律を守らず仲間の学僧からは苛められる毎日が続きます。それでも悲しむことも怒ることもなく、身は機敏で、まるで猿の様に木立の上を渡り歩き、奇人なのか、爪を隠す鷹なのか、計りしれない未知の塊、それが大きな魅力でもあったのです。決起には指令塔が必要です。昔の軍の連隊旗の如く心を高揚させ戦うため、己を無と迄も落として心の奥を鼓舞するする源氏の嫡流の血、牛若丸を必要とする組織が至る所にいたと思います。それら組織との戦いを吉次は潜り抜け足柄を越え、坂東の地の今の浅草の浅草寺で九郎義経(熱田神宮で元服している)に逃げられてしまいます。義経の心の中で秘めているものは奥州よりも坂東で自身の思いで存分に振る舞いたかったのでしょう。結局は吉次の輩下の手配で平泉に行き着くのですが、秀衡が吉次に依頼したのも同じく未知の将来に託す投資あったと思います。


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