◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆管理人より(2014.3.26~)◆

長らく閲覧を頂きまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。
暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。
                                      船越 長遠   平成26年3月26日       

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◆万葉徒然想(その10)(最終回)

2014-03-26 19:36:05 | ◆万葉徒然想
 5世紀は中国では南北朝の時代であった。南の呉は一般的に宋といわれている。北は北魏、その都は平城(大同)で今の山西省にあった。北魏は東の高句麗や新羅・百済と接していたが何かと不穏な空気が流れていて、それが大和朝廷の加羅、任那の統治運営をも不安にしていた。5世紀に倭の5王が70年の間、断続的に南朝の呉に朝貢した事が宋書に明記されていて、日本書紀にもその事が記録されている。地理的には北の魏が近いのだが、この王朝は北方の異民族で、大多数の漢民族を従えていた.呉朝は漢民族で豊かな地を持ち、文化の香りがする国であり、大和朝廷は将来摩擦の起こりそうな魏を牽制する意をも込めて、南の呉に物心の応援を望んでいたのであろう。呉からも、返礼の使者が来た。
 『14年の春正月、身狭村主青等、呉国の使と共に、呉の献(たてまつ)れる手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊る。是の月に、呉の客の道を作りて、磯歯津道に通す、呉坂と名く。三月に臣・連に命せて呉の使を迎ふ、即ち、呉人を檜隈野(奈良県高市市)に安置らしむ、因りて呉原と名づく』
 と大変な気の使いようである。夏4月、天皇は呉人を歓迎の宴を開くことを決めた。その接待役の長は誰が良いか諸臣に聞いてみると、多くの人が根使主こそ最適と名を挙げ、石上の高抜原で根使主は接待の主役を任される。天皇は密かに舎人を遣わしその様子を報告させる。
「根使主は立派に応対していました、頭につけていた珠縵は大変見事で引き立っていました」
 と報告する。別の係りの者も
「この前の宴の時も髪に付けていました」
 と言うので、天皇はどの様な珠縵か見たく思い、根使主に同じ服装で参内するように命令する。
 根使主は参内し天皇の前に畏まる。すると側にいた皇后が急に天井を向いて嘆き、顔をくしゃくしゃにして泣き出したのである。
「皇后は何で其のように泣き叫ぶのか」
 と天皇の問いに対し、皇后はつつっと高座を下りで、下座の床に額を擦り付けるように深く平伏して、
『この珠縵は、昔妾の兄大草香皇子の穴穂天皇の勅を奉(うけたまは)りて、妾を陛下に進(たてまつ)りし時に、妾の為に献(たてまつ)れる物なり。故、疑を根使主に致して、不覚に涙垂りて哀泣(いさ)ちらる』と申しあげた。天皇は是を聞いて大変に驚き、強く根使主に問い質す。
「大変な事を致しました。私の大罪で御座います。お詫びのしようがございません」
天皇は「根使主の身柄は群臣に預ける。逃がすでないぞ」と命じ、まさに斬り殺そうとする。根使主は逃げ隠れて日根(和泉国)に至り城を作って立てこもるが、攻められて殺されるのである。
 稚武天皇はその生涯のあいだ数限りなく殺生を繰り返し、その害は遠く百済・新羅にもおよんだ。しかし年と共に仏心、いや仏教は未だ公的には存在しないので、万物の神の怒りを恐れ、下草の怨嗟も肌に感じ始めたのでないか。加齢とともにその行動は静かなものへ変化がみられる。万葉集第8巻の巻頭に大泊瀬稚武天皇の一首が載っている。
  夕されば 小椋の山に 鳴く鹿の 今夜(こよひ)は鳴かず 寝ねにけらしも
 静かな平凡な歌である。一代の暴君も歳には勝てず、ほどなくこの世を去る。その歳、124歳と古事記は伝えている。まともにとれば、この数字は到底受け入れられるものではない。この他神武天皇が127歳、綏靖天皇が84歳など 21代のこの雄略天皇頃まで突飛な数字が飛び出し、どう受け止めればよいか戸惑う。第11代の垂仁天皇は実に152歳との記述である。現今の歴史感覚からすれば、これ以上の不信の元となる要素はない。これから不信の輪が広がり、多岐にわたる点で日本書紀、古事記の不合理が指摘された。戦後はこれが加速されて、歴史教育から古代史のすべてを自ら廃棄するという、自虐的考えが本流となっているのである。この点につき私見を述べ本稿を終わりたいと思う。

 超古代文書の秀真伝の第一紋に、
『昔の人は年に2回しか食事を摂らなかった。それが月に3回も摂るようになり、人の年齢は100万年になってしまった。月の6回になり20万年、今では日に一回食べるので、たったの二万年しか生きられない。人は食べれば食べる程歳が短くなるのだ。其のため天照大神は月に3回しか食事をお摂りにならない。苦きアホナを食べ、南向きの部屋で朝の太陽の気をうけて、十分に息を吸う。これが長寿の源なのです』
 とある。大自然の中、すべての物が生を受けて共存している。岩とても命を持って、生きていると考えなければならぬ。食を摂るという事は他の生物の命を奪うことなのだ、との考え方が基にある。長寿であることは他の生物に慈しみを持っているということである。長寿であればあるほど、神は偉大であるとの認識である。邇邇芸之命が500歳、竹内宿禰が300歳と聞いても否定してはいけない。それは現代において没後に贈られる勲位と同じ意味で、年齢の事ではないのである。人皇神武天皇以後の年齢については、この思想を基盤とし積み足した年齢で、干支が乱れぬよう60年を加算した。即ち、神武は67歳,崇神天皇は66歳、早世と考えられている開化天皇は51歳となる。
 超古代の史筆は単なる備忘録であった。春、夏、秋、冬,何月の何日迄の記録はあるが、その年となると、とんでもない数字が飛び出してくる。その数字を何と考えるか、現代の感覚でなく、超古代の人となって考えるのが、真に洞察力の鋭い有識者と考えるべきだと思うのだ。天の下の総ての国が間近く交流し、それぞれの保持して来た歴史的文典その他が、後世には地球全体の共有する知識になり、世界的観点から勘案するなど、思いもしない事だった。大泊瀬稚武天皇は124の半分62歳前後の死去であろう。当時としてはかなりの歳であったと考える。
 約40年ほど前まで、神社の奉納金に「金壱萬円」とあれば千円であり、清酒一斗とあれば一升瓶一本だと子供でも知っていた。風習は神代の昔からつい先頃まで続いていたのである。情報公開を正論とは思わなくもないが、人の心が狭量になり神社の会計でもそのような心の余裕がなくなってしまった。
 万葉集、古今和歌集、日本書紀の雄略紀の周辺をぐるぐる回っただけで、万葉徒然想などと面映い限りであるが、冗漫はまた忌み嫌うところである。思うところを述べ過ぎたやもしれぬ。ご批判は覚悟の上である。<了>


<管理人より>
 長らく閲覧をいただきまして厚く御礼を申し上げます。私事になりますが高齢になりまして、近頃体調が勝れません。暫くお休みを頂き、体調が戻り次第再び掲載を続ける心算です。宜しくお願い致します。      船越 長遠   平成26年3月26日



 参考にした本
 真 日本古典文学体系 万葉集  佐竹照広ら  岩波書店
 新訓 万葉集 上 下巻  佐々木信綱編  岩波書店
 古今和歌集  滝沢貞夫編  学誠社
 日本書紀 上  塚本太郎ら  岩波書店
 完訳 秀眞伝 上巻  鳥居礼  八幡書店
 古事記  西宮一民  新潮社



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◆万葉徒然想(その9)

2014-03-19 22:36:30 | ◆万葉徒然想
 稚武天皇2年、百済の池津姫(天皇の乞いにより百済から来た高貴な女性の一人と考える)が天皇の召に応じず石川盾と通じてしまった。稚武は大変に怒り、二名の四肢を木(十字架)に張り高く組んだ木の中に押し込め、焼き殺してしまった。10月、吉野に狩に出かけると、朝から大猟で7、8頭の大物を仕留めた。林泉まできて狩の集団は一休みする。天皇は、
「獲った獲物を料理人に作らせるのと、自分で作るのと、どっちが美味いかのう、このわしが作ってみようか」
と言い群臣にきいて回る。皆が黙っていると天皇は怒り出し、側近くにいた大津馬飼に斬りつけ、狩の途中で吉野宮にさっさと帰ってしまった。 この話しが国中に広まり、なんと恐ろしい天皇であることよ、と皆が震え戦いた。皇后と皇太后は相談して、まず美形の采女をそばに侍らし酒をさかんに薦めて気を和ませ、その怒りの原因を聴き質す。
「皆は何と答えたら良いか困ったのですよ、これからは料理専門の係部を作りなさい。それが良いことです」
 と諭し、天皇は皇后たちは良いことを言ってくれたと大変喜んだと言う。宍人部が出来たのはこれが始めてである。稚武天皇は人に相談しないで、自分のする事はすべて良いことだと決め、そのつど人を殺す。『大きく悪しきます天皇なりと人人はまうす。唯,愛寵(めぐ)みたまふ所は史部の身狭村主青と檜隈臣使博徳等のみなり』と日本書紀はあからさまに述べている。
 3年夏の4月、阿閉臣国見と言う者が、盧城部連武彦が栲幡(たくはた)皇女(韓媛妃の子)を汚し、妊娠せしめたりと中傷した。
 武彦の父は息子が大変なことをしたと大いに恥じ、息子を河に誘い水中で打ち殺してしまう。天皇はこの話しを聞き使いの者をして皇女を尋問する。
『皇女対えて申さく「妾はしらず」とまうす。俄かに皇女、神鏡をとり持ちて五十鈴河の上に詣でまして、人の往かぬ所を伺いて鏡を埋みて経(わな)き死ぬ。天皇、皇女の不在ましを疑ひ給ひて、恒に闇夜に東西に求覚(もと)めし給ふ。即,河上に虹の見ゆること蛇の如くして、4、5丈ばかりなり。虹の起これる所を掘りて神鏡を得、移行未遠にして皇女の屍を得たり。割きて観れば腹の中の物ありて水の如し、水中に石あり』
と記している。皇女は癌性腹膜炎であったのである。水とは腹水であり、昔は癌を岩と言ったので石は胃癌か子宮癌か。当時の感覚はこの様なものだったのかとは信じられないが、武彦の父は息子を疑ってこれを恥とし、早まって殺してしまったのである。自身を強く責める念は国見への復讐心と変わる。国見は恐れ戦き石上神社に逃げ込んだと言う。
 この年の春、天皇は葛城山にて狩をしているとき、谷の向う側に自分と瓜二つの人が、同じように狩りをしているのを見た。これは人間ではない、神の化身であると怪しみ、「何処の何者ぞ」と問う。
「我は現人神(天皇の意)である、問うからには自分から名乗れ」
「朕は稚武ぞ」
「我は一言主の神である」(一言主は一言居士の意ではない、出雲系の神で大国主命の譜系に一言主の名がある)
 その後二名は一匹の鹿を追って争うこともなく、日暮れまで遊んで互いに相手に対し礼儀を尽くし、仙人同士が会っているような振る舞いであった。この項は有名で、雄略天皇に関する講演でよく話される。しかし他の条項の記載と比べると、何か浮き立った感じがする。天皇の神仙思想への対応を讃える意図が窺える。

 日本書紀の雄略紀を追ってきた。大変に長い記述なので全部を続ければ一冊の本になってしまう。区切りも必要であろう。奇をてらい好事的に書いているのではないか、そのようにとられる向きのあるやに思う。筆者にはその様な意図は全くない。雄略紀の前半は実にこの類の行為の連続であり、それを述べているのである。
 古事記も同じである。
 万葉集第一巻の一番初めの雄略天皇の歌『籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶしく持ち・・・』を既に述べたが、これと非常に良く似た話が古事記にもある。天皇は遊行の途中三輪の川辺で布を洗う童女にあった。
『その容姿いと麗しくありき』
 天皇はその童女に問うた。
『汝は誰が児ぞ』 
 童女は引田部の赤猪子と申します、と答える。
「おまえは嫁にいくな、この私が必ず召す」
 幼い童女には荒々しくも凛とした若き天皇の言葉は、突然に現れた神の尊いお告げのように聞こえたであろう。赤猪子は待ちに待った、そして八十の老婆になった。
『命を望みつる間に既に多くの年を経たり、姿軆痩せ萎みてさらに持むところなし。しかれども待つ情を顕はしまさずば、いぶせきに忍びず』
 と意を決して女からの結納品を供に持たせ、宮中に出向いたのである。天皇はすっかり忘れていた。
「どこぞの老女だ、何ゆえ来た」
「その年、その月の帝のお言葉を信じ辛抱して八十になりました。お忘れですか」
 天皇は大変驚いてその心を愛しく思い、心中に婚(まぐ)はむと思うのだが、赤猪子が余りに年老いて見え、どうしてもその気になれない。
『婚を、えなしたまわむことを悼みて、御歌を賜ひき みもろの、厳日梼(いつかし)(白樫)の下日梼の下 ゆゆしきかも 日梼原(かしはら)童女』
 みもろ山のしらかしの木は、美しいのだが、神々し過ぎてさわれない。赤猪子の涙ながらの返し歌。
 日下江の 入り江の蓮(はちす)花蓮 身の盛り人 ともしろきかな(羨ましゅうございます)
 天皇は『多くの録を赤猪子に給いて返し遣りき』とある。稚武天皇の粗暴の振る舞いを風聞で何度も聞いているはずである。しかし「必ず召す」の一言が、一生を台無しにした。余りにもひどすぎる。死を覚悟して赤猪子は抗議の手段に出たのでないかと私は感じている。
 僅か7歳の眉輪王が安康天皇を暗殺する大事件が起こらなければ、稚武皇子は天皇になっていなかったであろう。この大事を又とないチャンスと受け止め、力ずくで押して皇位に登りつめた。大草香皇子の見事な押木珠縵に目がくらんで、坂本の根使主が横取りしたことがその源であった。NHK流に言えば、「その時歴史が動いた」のである。日本書紀にはその後の珠縵をめぐる事の顚末を 因果応報の例えを強調する如く、詳しく述べている。
 

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◆万葉徒然想(その8)

2014-03-12 05:26:18 | ◆万葉徒然想
 穴穂天皇即位3年8月、天皇は山の離宮に湯治に出かけた。床の高い高殿に上って、やや多めに酒を飲んだのであろう。安心と深酒の油断から傍らの中帯姫の膝枕で、心の不安もつい薄れ、声をひそめることもなく日頃の本音を口に出してしまったのだ。
「皇后は優しくて本当に好いと思っている、しかし眉輪王はなんだ、目つきが鋭くて私を睨んでいるように思えてならぬ。誰かが陰で私の悪口を吹きこんでいるかもしれない、眉輪王は恐ろしい」
 眉輪王は当時7歳であったと言われている。高殿の下で遊んでいで、この話を全部聞いてしまったのである。膝枕の心地よさと湯浴みの疲れも加 わって穴穂は熟睡する。眉輪王は7歳にしてはあまりにも大胆であった。その機を窺って天皇を刺し殺してしまったのだ。仰天した大舎人は走ってこのことを稚武皇子に注進する。稚武は二人の兄の謀略を疑い、急ぎ軍を率いて兄の八釣白彦皇子の屋敷で詰問する。稚武の何か言われれば余計に興奮する気性をよく知っていて、兄皇子は口を噤んで返事をしない。これが更に怒りを誘い、稚武は刀で兄を殺してしまう。又、別の兄の坂合黒彦皇子に対しても厳しい態度で問いただす。この皇子も口を閉じて語らない。稚武の怒りは頂点に達し眉輪王を殺そうとする。
「われは皇位を狙ったのではない、父親の仇を討ったのだ」
 眉輪王は憤然として答える。坂合黒彦皇子は隙を見て
「眉輪よ、ここに居ては殺される、逃げよう」
 と圓大臣の宅に逃げ込む。圓大臣は葛城氏の中心人物であった。稚武の政敵である市辺押磐皇子が葛城氏の出であったので、眉輪王たちは何の深い考えを持たず、対立関係にある葛城氏の門を叩いたのである。稚武にしてみれば、思う壷であった。葛城氏を攻める良い口実が出来たのだ。
 稚武皇子は使を出し、眉輪王らを捕らえて差し出すように命令する。圓大臣の答えは立派であった。
『蓋し聞く、人臣、事あるときに、逃げて王宮に入ると、未だ君王、民の舎に隠るるを見ず。方に今、坂合黒彦皇子と眉輪王と、深く臣の心を頼みて、臣の舎にきたれり、如何にか忍ばで送りまつらむや』
 稚武皇子は兵を率いて大臣の宅を囲む。大臣は庭に出て脚帯(あゆひ)を持って来いと夫人に言う。
 民の子は 栲(たへ)の袴を 七重をし 庭に立して 脚帯撫だすも
 わが夫は庭に立って白い栲の袴を七重にお召しになって脚帯を撫でておられる
 圓大臣はかなりの高齢であった様に思われる。すべてを運命と悟ったのであろう。門の前に出て頭を深く下げ、 
「この私は罰せられるとも、命令に服することは出来ません。古い例にもあります、匹夫の志も奪うことは難しいと。私が正にその場にあります。稚武皇子に伏してお願いを致します。両名の命をお助け下さい。私の女韓姫と、葛城の宅七区を稚武皇子に代わりに差し出します故」(稚武皇子はこの韓姫にも情を感じ、日頃から言い寄っていたのであろう)
 これに耳を傾けるような稚武ではなかった。家に火をつけすべてを焼き払う行動に出たのである。圓大臣・黒彦皇子・眉輪王が共に焼き殺されたことは言を俟たない。誰かれの区別も出来ないほど亡き骸が焼けていた。そのため一つの棺に入れて、新漢(いまきのあや)の擬本(つきもと)(今の奈良県吉野郡大淀町今木)の南の丘に埋葬したと言う。稚武皇子の一連の策略はなお続く。対抗馬の市辺押磐皇子に使いを送り、
「近江の国の蚊屋野に猪・鹿が多く居るので一緒に狩りに行きませんか。その角は木の枝のように大きく、脚も太い。吐く息が荒くあたりが霧のように白くなるほどだと聞いています。久し振りに狩りをして旧交を温めたいと思います」
 と誘った。市辺皇子がその真意を疑ったことは間違いないと思う。しかし断ればそれを理由に攻められる。覚悟の上でその誘いに乗って狩にいき、後ろから矢で射られて殺されてしまう。市辺皇子の同母弟の御馬皇子にも難が及んだ。自分の立場に不安を感じた皇子は三輪君の親しいものを頼って移動の途中、追っ手に待ち伏せされる。三ノ輪の盤井の側で戦いになり、捕らわれて殺される。死に際に御馬皇子は傍らの井戸を指さしてこう言ったそうである。
「この井戸の水は百姓(おおみたから)の大切な命の水だ。大民(おおみたから)の心を知らず、ただ権勢にのみに狂う者ら、ただ一人たりとも飲んではならぬ」。
 朝廷内の反抗勢力を一掃した稚武皇子は、その年の3月に大泊瀬稚武天皇(雄略)として即位し、皇后に先の幡梭皇女を立てる。妃には圓大臣の韓姫を選び、その他に童女(をみな)と言う妥女(うねめ)も妃となった。この妃は春日大娘皇女という女児を産む。天皇がこの童女を召すと、一夜にして妊娠した。天皇はそれについて怪しみ自分の児でないと言う。目大連という人がわざと天皇に聞こえるように,「可愛い女児でありますこと、歩き方が天皇そっくりです」と話す。天皇がそれを聞きつけ、
「皆がそう言うのだが、たった一夜だぞ、やっぱりおかしいと思うのだ」
「童女は大変やさしい心の綺麗なお方です。一身になり君のお召しに応えたのでしょう。一夜だと言われますが、いったい何回」
「七回だ」
「腰を抱かれただけで孕む女性がいると聞きます。何でそのようにお疑いになるのですか」
 天皇はやっとその女児を皇女として認め、童女君を正式に妃とした。


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◆万葉徒然想(その7)

2014-03-08 06:54:04 | ◆万葉徒然想
 万葉集は舒明天皇御代の631年頃から始まり淳仁天皇の御代の759年までの歌を選出したもので、歌集として世に出たのが800年、その後古今和歌集が編纂されたのが約100年後の延喜のころである。万葉集はやや直截的だと前述したが、紹介した歌から同じように感じられた向きもあると思う。
 これに対し古今和歌集は技巧に凝りすぎる。耳、目には甘美に響くが、その訴えが体の深くに共鳴するほどではない。
 ただし、これは私の感想で、また個々の歌には持ち味もあり評価も異なるだろう。
 寺社建築には細部意匠が付き物である。内部の基本構造に変りなくても、外観を競い、年を経るに従い繊細の度が加わってくる。軒回り、二手先、三手先の斗栱、木鼻、破風、高欄、更には金具までにこれが及ぶ。日常生活に密着した調度品にしても、付加価値を高める努力を惜しまない。着る物の意匠に至ってはその最たるものであろう。和歌の世界においても同じであった。
 半島をめぐる外国との軋轢はあっても、国内は概ね太平であった。歌を詠むことにより、上層人の感性が測られる。地位と名誉にかけて人々は日々、歌の一文字一文字の表現技法に精魂を傾けたのであろう。そのためか古今和歌集には華美の歌が多い。人の直の言葉-苦しい、悲しい、恋しい、会いたい-が歌に出て来ることが、万葉に比べ少ない。直の言葉を表に出すことは技考の不足と考えたのであろう。
 それにより人の本能は変わらなくても、言葉の表現は確実に熟達がみられ、日本語の難しさ、微妙さが深まり、今の世にも受け継がれてきた。考えの落とし所が飛躍過ぎると思わなくはないが、これが昨今の日本外交のめりはりのない振る舞いにも、現れているのでないかと思うのである。
 万葉徒然想など少し凝った名前をつけ、やや持て余し気味である。そこはかとなく書くには万葉の世界へのアンテナは少なすぎる。まして門外漢の筆者は古事記・日本書紀の周辺を、何かないかとうろつくしかない。万葉の時代を代表する天皇は雄略天皇の他、推古・天智・天武天皇がいる。前述した雄略天皇はよくも悪くも話題の多い天皇であった。以下、 年を追い、幹に出来る限りの枝葉をつけ、そこはかにその時代を拡大してみよう。
 雄略天皇の年紀に関しては、一代前の石上穴穂天皇(安康天皇)から述べる必要がある。穴穂天皇は允恭天皇の第二子であった。第一子は木梨軽皇子であったが、謀略によるものか、自らを律せぬ不徳によるか、穴穂に追われ無残な最後を遂げる。皇位を継いだ穴穂天皇と稚武皇子は仲が良かったらしい、稚武皇子は伯父の反正天皇の娘たちを妻にしようと、穴穂に仲立ちを頼んだ。稚武皇子は気が荒く、男だろうと女だろうとかまわず粗暴な振る舞いをすることで恐れられていた。
『君王、恒に暴(あら)く強(こは)しく、怒り起こりたまひ、朝に見ゆる者は夕に殺され、夕に見ゆる者は朝に殺され・・・』
「私たちの容姿は取り立てて言うところはありません。また気も利かず、立ち居に品が有りません。皇子は気性が鋭いので、一寸の事で気に食わなければ、何をされるかわかりません。お側に住むなど、とんでもないことで・・・」と何処かに隠れてしまう。穴穂は次に、大草香皇子の妹、幡梭皇女を稚武の妃にと話を持ちかける。坂本臣の祖である根使主をその使いとして『願わくは幡梭皇女を得て、大泊瀬皇子に配(あは)せむ』と命じたのである。兄の大草香皇子は病弱の身であった。
「私はそう長いとは思いません。死ぬのは何とも思いませんが、妹の幡梭を一人残してまかるのが気懸かりです。今、君が至らぬ妹を多くの姫君たちより選ばれ、稚武君にとのお達しは、身に余ることでございます。何でお断り出来ましょうか。私のこの喜びの標として、大切な宝としている押木珠縵(おしきのたまかづら)を捧じたいと思います。たいした物ではありませんので、御気に召さぬと思いますが、なにとぞお収めくだされ。宜しくお願い致します」
 押木珠縵は大変に美しく見事な冠であった。使いの根使主はその宝を見て欲しくなり、天皇に偽りの復命をしたのである。「大草香皇子は承諾しません。『血のつながった一族でありますが、私の大切な妹を、あのような人の道に欠ける男には差し上げられません』と申しました」そして根使主はその縵については隠して何もいわず、自分の物にしてしまったのである。
 穴穂天皇(安康)はその大嘘に全く気が付かず、烈火のごとく怒り、兵を繰り出して大草香皇子の家を囲み、殺してしまうのである。
 難波吉師日香蚊父子は大草香皇子の側近であった。父は頭を抱き、二人の子は皇子の足に身を添え『我が君、罪無くして死に給ふこと悲しきかな、我父子三人生きまし時に事(つか)へまつり、死にます時に殉(したが)ひまつらはずば、是、臣にあらず』と言い、三人とも首を自ら刎ねて折り重なって死んだのである。「軍衆悉くに流涕(かなし)ぶ」と紀は記している。
 穴穂天皇は事もあろうに、自分が殺した大草香皇子の妻の中帯姫を宮中に召して妃とし、後に皇位に就くや皇后とする。また命令どおり幡梭皇女を稚武皇子の妻に配したのである。中帯姫には大草香皇子との間に眉輪王という児が居た。殺されかかったが、中帯姫の切なる嘆願もあり、罪を免じられ宮中で一緒に住むことになった。これが大事件の発端になったのである。


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◆万葉徒然想(その6)

2014-02-26 19:12:39 | ◆万葉徒然想
 石川女郎女の歌
 みやびをと 我は聞けるを やど貸さず われを帰せり おそのみやびを
大伴宿弥田主は容姿美麗、風流卓越、見る人、聞く人、嘆息しないものは無かった。石川女郎女は夫婦になろうと思い、意中を手紙に書いたが、使いの者がいない。そこで年寄りの女に扮し、土鍋を下げて田主の家に行き戸を叩いて「東隣の舎女ですが、火を頂きたくて、伺いました」といった、田主はそれが美人の女郎女だと気が付かず、女を引き泊めて交わるなど毛筋も思わず、火を貸してすぐに帰らせてしまう。次の朝、女郎女は仲人なしで突飛な求婚をしたことが恥ずかしく、又、田主の無粋さが恨めしく、この歌を送ったのである。
その歌に対する田主の返し歌。
  みやびをに 我はありけり やど貸さず 帰しし我そ みやびをはにある
私は風流者です、あなたを泊めないで帰した私こそ、本当の風流者です。
持統天皇の雑歌の中の歌。
  否と言えど 強(し)ふる志斐(しひ)のが 強い語り この頃きかずて 朕(われ)恋ひにけり
いやと言っても志斐婆さんがする、しつっこい昔話でも、この頃きかないので、聞きたくなってきた。
すかさず志斐婆さんの返し歌
  否と言えど 語れ語れと 詔らせこそ 志斐には奏(まを)せ 強い語りと言う
志斐婆さんは若い時からのお付の女官であろう。ほほえましい和歌喧嘩である。
  憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむ
なんの飾りもない胸にジーンとくる山上憶良の歌である。
大宰師大伴卿の酒を讃める歌十三首から三首。
  生るれば 遂には死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな
  あな醜 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む
  もだ居りて 賢しらするは 酒のみて 酔ひ泣きするに なほしかずけり
大伴坂上郎女の歌 宴席での一首。
  山守の ありけるしらに その山に 標結ひたてて 結ひの恥しつ
大変親しい女性がいるのを知らないで、その人に恋文を書いてしまって、なんと大恥をかいたこと。
その返し歌。
  山守は けだし有りとも 我妹子が 結ひけむ標を 人解かめやも
恋している人はいますが、あなたの恋のしるしは大切にして、忘れません。
 古今和歌集には社寺に関する歌が一首もない。やっと万葉集に出てきた一首
  千早振る 神の社し なかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを
左近岩弥赤麻呂が娘にあてた恋文に対する返し歌で、神の社でなかったら粟を蒔いて鹿を呼び寄せるのですが(あなたが夫婦者でなかったら粟[逢う]いたいとは思いますが)、とやんわり断ったのである。神が出てきても神心の一片もない。
  来むと言うも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを 
「瓜売りが 瓜売りにきて 売れ残り 売り売りかえる 瓜売りの声」という昔覚えた歌が頭に一瞬にして、浮かんだ。
高田女王の三首。
  人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み 会はざりき 心有るごとな 思ひ我が背子
  わが背子し 遂げむと言はば 人言は 繁くありとも 出でて逢はましを
  この世には 人言繁し 来む世にも 逢はむ我が背子 今ならずとも
今も昔も人は他人の噂を面白がる、あまり噂が大きいので、この世でなくて、あの世にでゆっくり逢いましょう。終わりの一首はすさまじい。
神を中心にしている少ない歌の中に一首。
  思はぬを 思ふと言はば 大野なる 三笠の杜(もり)の 神し知らさむ
嘘で好きだと言っても、三笠の神はお見通しです、ネガティブの意味だと思っていたら、解説は「嘘ではありません、本当に好きです」の意味になっていた。
大伴旅人の一首。
  ぬばたまの 黒髪変わり 白けても 痛き恋には 会ふ時ありけり
女性の歌。
  汝をと我を 人ぞ離(さ)くなる いで我が君 人の中言(なかごと) 聞こすなゆめ
私とあなたの仲を裂こうとして、色々と中傷しているようですが、本当にしないで、お願いだから
華やかな坂上女郎女が老いて引きこもった時、ある天皇に献じた歌。
  あしひきの 山にし居れば みやびなみ 我(わ)がするわざを とがめたまふな

  瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 粟食めば まして偲はゆ いづくより 来たりしものぞ まなかいに もとなかかりて 安眠しなさぬ
「まなかいにもとなかかりて」は目の前にちらついての意味。
返歌。
 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まさ)れる宝 子にしかめやも 
4500首は人様々で、その首数の多さを堪能される方も居られるが、素人の私には膨大すぎる。このあたりで止めておきたい。その上、なんと恋歌が多いことかと思う。歌の題材として、あらゆる角度の見方があったはずである。名もなき下草の民が主体であったなら、なお率直で目が潤うような歌が数多く出てきたはずだ。奈良・平安期は長い平和の日々であった、と上層の人々には言えるであろう。男女の恋が人生苦の大半を占めていたのであろうか。




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