◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆「蘇我太平記」第十章 皇位後継審議に異議あり・・山背大兄王の抗議・その2

2012-01-18 13:13:59 | ◆蘇我太平記
 蝦夷は境部摩理勢臣を殺さんと軍を編成し攻めてきた。摩理勢は二男の阿椰を共に連れ門の所に出て床几に座り、寄せ手の兵の至を待った。来目物部伊区比が命により、親子の首を斬りその場に埋めた。しかし長男の毛津はある尼寺の母屋に逃げて隠れた。ここに毛津の愛する尼がいたのであろう。他の尼が其れを嫉妬して密告し、毛津は更に畝傍山に逃げるが追手は山中を探しまわる。毛津は最早逃れられないと覚悟、首を刺し自害した。

 長い一連の日本書紀の記述はここで終わっている。書紀編纂者の此の事変に対する特別の思いが私に伝わってくる。[行間を読む]と古き良き言葉が有る。行間を私なりに読んで訳文を書き、行間を広くあけ、読む人の誤認が無いように務めた心算である。果たして諸氏は如何に感じ取られたであろうか。人、様々と推測する。専門の史学者の間にも多くの発表もあるが、これも人様々である。私は専門外の素人であるが文題に [蘇我大平記] と大それた名前を附した以上、私なりの推考も必要であろう。

 私は先ず二つの要点に絞って推考を進めたいと思う。その一は推古天皇と摂政の聖徳太子の間は決して緊密の連帯関係では無かった点である。正確に言えば太子の祖母の小姉君と推古天皇の母堅塩姫の関係が基にある。蘇我稲目は多くの子持ちであった。全てが正妻の子であったとは考えられないが、一番上の堅塩姫は欽明天皇の皇后となっている。二番目の娘は用命天皇の妃となり、次の小姉君は欽明天皇の妃となり、次が蘇我馬子、その次が境部摩理勢臣である。小姉君と馬子は年齢も近く姉弟の親密度も年が上の堅塩姫より深かったと考えたい。小姉君はそこから来た通称であろう。つまり堅塩姫は皇后、小姉君は妃で欽明帝は姉妹二人を妻に持った事に成る。寵愛の度がどうであったか、若い小姉君に深かったと普通は考える。対抗意識、嫉妬は人間である以上男も女も自己愛の本能である。男の嫉妬はより深いとよく言うが、女も同じであろう。堅塩姫の子の額田部皇女(推古天皇)は母から叔母小姉君の話を聞き、子供ながら一種の対抗意識あった。其の上、敏達帝の死後、皇后額田部皇女に色々と不逞の行為が有った穴穂部皇子は小姉君と欽明の間の皇子であった。更に馬子に対抗意識を露わにした崇峻天皇はその弟であった。更に加わえて厩戸皇子(聖徳太子)妃として推古の娘が稼いできているが、この推古の皇女の消息は全く解っていない。その後どうしたか、若くして他界したか、それとも他の理由が有るか。あれや、これやで推古天皇は潜在的に蘇我氏の小姉君系の人脈に不信感を抱いていたのでないか。

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