亡くなった叔父は私の母の弟で、私との年の差は10歳ほど。兄のような感じの叔父で、よく可愛がって
くれたものである。
神戸には新開地という繁華街があり、そこのレストランでご馳走になったトンカツや鍋焼きうどんの味は
今も忘れられない。
また幼い3人の子供たち(従兄弟)に対しても、子煩悩ぶりをみせていた。時々お小遣いを手渡され、
「子供に人気のある映画をみせてやってくれ」と頼まれることがあった。
私自身が貧乏学生で娯楽に飢えていたこともあり、喜んで従兄弟を新開地へ連れて行ったものである。
その当時、子供に人気の映画と言えば「赤胴鈴之助」。〽剣を取っては日本一の・・・〽という主題歌の
一節が今も記憶の底にある。
この映画を見せていたとき、幼い従兄弟が急に主題歌を大きな声で歌い出してビックリ仰天したのも懐かしい。
そんなことや、こんなこと。
当時の色々な出来事が思い出され、青春真っ只中であった私自身の日々と重なり、懐かしくて涙が出るほど
である。
だが人が生きるということは、そんな楽しい思い出ばかりではない。
ある日のこと大学から帰ってくると、家で大変なことが起こっていた。
当時まだ1歳だった下の従兄弟が、大怪我をしていたのである。
それは命にかかわるほどの怪我だったが、発見が早かったのと医師の適切な手当のお陰で助かった。
だが従兄弟の身体に後遺症が残り、そこから怪我との長くて苦しい闘いが始まった。
怪我の痛みはさぞ激しく悲しいものだったに違いないし、痛がる幼子を見守る叔父・叔母も本当に辛かったに
違いない。
私も「同居家族」の一員として、何かのお役に立ちたかった。
痛がって泣く幼子を背中に背負い、近くの会下山(えぎやま)へよく出かけたものだ。
だが、泣く子をどうやってあやすのか。
破れ角帽に高下駄といった、蛮カラ学生に歌える歌はただ一つ。
〽 ねんねんころりよ、おころりよ、坊やよい子だねんねしな。
坊やのお守りはどこへ行った、あの山越えて里へ行った。
里のみやげに何もろうた、でんでん太鼓に笙の笛・・・〽
背負った子のお尻を軽くたたきながら歌っていると、そのうち背中からスースーという寝息が聞こえてくる。
そうして深く寝入ったら家に帰り、布団の上に寝かせるのである。
「江戸子守歌」という歌名は後で知ったが、あの歌を思い出す度に当時のことが走馬灯のように蘇って来る。
その従兄弟も大卒後に会社員となり、素敵な奥さんと出会って幸せな家庭を持った。
やがて子宝にも恵まれ良きパパとなり、会社勤めも定年を迎えるとのことである。これからも益々元気で、第二の
人生を楽しんでくれるよう願っている。
叔父の死は、切なくて悲しい出来事だった。だがその席で従兄弟たちと20年ぶりに再会出来たことは、実に
嬉しいことだった。
叔父がその死をもって、我々を引き合わせてくれたのであろうか・・・。
会下山から神戸港方面(1959年1月)
くれたものである。
神戸には新開地という繁華街があり、そこのレストランでご馳走になったトンカツや鍋焼きうどんの味は
今も忘れられない。
また幼い3人の子供たち(従兄弟)に対しても、子煩悩ぶりをみせていた。時々お小遣いを手渡され、
「子供に人気のある映画をみせてやってくれ」と頼まれることがあった。
私自身が貧乏学生で娯楽に飢えていたこともあり、喜んで従兄弟を新開地へ連れて行ったものである。
その当時、子供に人気の映画と言えば「赤胴鈴之助」。〽剣を取っては日本一の・・・〽という主題歌の
一節が今も記憶の底にある。
この映画を見せていたとき、幼い従兄弟が急に主題歌を大きな声で歌い出してビックリ仰天したのも懐かしい。
そんなことや、こんなこと。
当時の色々な出来事が思い出され、青春真っ只中であった私自身の日々と重なり、懐かしくて涙が出るほど
である。
だが人が生きるということは、そんな楽しい思い出ばかりではない。
ある日のこと大学から帰ってくると、家で大変なことが起こっていた。
当時まだ1歳だった下の従兄弟が、大怪我をしていたのである。
それは命にかかわるほどの怪我だったが、発見が早かったのと医師の適切な手当のお陰で助かった。
だが従兄弟の身体に後遺症が残り、そこから怪我との長くて苦しい闘いが始まった。
怪我の痛みはさぞ激しく悲しいものだったに違いないし、痛がる幼子を見守る叔父・叔母も本当に辛かったに
違いない。
私も「同居家族」の一員として、何かのお役に立ちたかった。
痛がって泣く幼子を背中に背負い、近くの会下山(えぎやま)へよく出かけたものだ。
だが、泣く子をどうやってあやすのか。
破れ角帽に高下駄といった、蛮カラ学生に歌える歌はただ一つ。
〽 ねんねんころりよ、おころりよ、坊やよい子だねんねしな。
坊やのお守りはどこへ行った、あの山越えて里へ行った。
里のみやげに何もろうた、でんでん太鼓に笙の笛・・・〽
背負った子のお尻を軽くたたきながら歌っていると、そのうち背中からスースーという寝息が聞こえてくる。
そうして深く寝入ったら家に帰り、布団の上に寝かせるのである。
「江戸子守歌」という歌名は後で知ったが、あの歌を思い出す度に当時のことが走馬灯のように蘇って来る。
その従兄弟も大卒後に会社員となり、素敵な奥さんと出会って幸せな家庭を持った。
やがて子宝にも恵まれ良きパパとなり、会社勤めも定年を迎えるとのことである。これからも益々元気で、第二の
人生を楽しんでくれるよう願っている。
叔父の死は、切なくて悲しい出来事だった。だがその席で従兄弟たちと20年ぶりに再会出来たことは、実に
嬉しいことだった。
叔父がその死をもって、我々を引き合わせてくれたのであろうか・・・。
会下山から神戸港方面(1959年1月)