徳島に住むカメさんのつぶやき

 さながらカメさんのような一老人が、小さな池(徳島県の片田舎)から覗き見た世の中の出来事や心象風景などを書き留めたもの。

お世話になった叔父貴の死(Ⅱ)

2017年03月30日 | 随想
 亡くなった叔父は私の母の弟で、私との年の差は10歳ほど。兄のような感じの叔父で、よく可愛がって
くれたものである。
 神戸には新開地という繁華街があり、そこのレストランでご馳走になったトンカツや鍋焼きうどんの味は
今も忘れられない。
 また幼い3人の子供たち(従兄弟)に対しても、子煩悩ぶりをみせていた。時々お小遣いを手渡され、
「子供に人気のある映画をみせてやってくれ」と頼まれることがあった。
 私自身が貧乏学生で娯楽に飢えていたこともあり、喜んで従兄弟を新開地へ連れて行ったものである。

 その当時、子供に人気の映画と言えば「赤胴鈴之助」。〽剣を取っては日本一の・・・〽という主題歌の
一節が今も記憶の底にある。
 この映画を見せていたとき、幼い従兄弟が急に主題歌を大きな声で歌い出してビックリ仰天したのも懐かしい。

 そんなことや、こんなこと。
当時の色々な出来事が思い出され、青春真っ只中であった私自身の日々と重なり、懐かしくて涙が出るほど
である。

 だが人が生きるということは、そんな楽しい思い出ばかりではない。
ある日のこと大学から帰ってくると、家で大変なことが起こっていた。
 当時まだ1歳だった下の従兄弟が、大怪我をしていたのである。
それは命にかかわるほどの怪我だったが、発見が早かったのと医師の適切な手当のお陰で助かった。
 
 だが従兄弟の身体に後遺症が残り、そこから怪我との長くて苦しい闘いが始まった。
怪我の痛みはさぞ激しく悲しいものだったに違いないし、痛がる幼子を見守る叔父・叔母も本当に辛かったに
違いない。
 私も「同居家族」の一員として、何かのお役に立ちたかった。
痛がって泣く幼子を背中に背負い、近くの会下山(えぎやま)へよく出かけたものだ。
だが、泣く子をどうやってあやすのか。
破れ角帽に高下駄といった、蛮カラ学生に歌える歌はただ一つ。

〽 ねんねんころりよ、おころりよ、坊やよい子だねんねしな。
  坊やのお守りはどこへ行った、あの山越えて里へ行った。
  里のみやげに何もろうた、でんでん太鼓に笙の笛・・・〽

 背負った子のお尻を軽くたたきながら歌っていると、そのうち背中からスースーという寝息が聞こえてくる。
そうして深く寝入ったら家に帰り、布団の上に寝かせるのである。
 「江戸子守歌」という歌名は後で知ったが、あの歌を思い出す度に当時のことが走馬灯のように蘇って来る。

 その従兄弟も大卒後に会社員となり、素敵な奥さんと出会って幸せな家庭を持った。
やがて子宝にも恵まれ良きパパとなり、会社勤めも定年を迎えるとのことである。これからも益々元気で、第二の
人生を楽しんでくれるよう願っている。

 叔父の死は、切なくて悲しい出来事だった。だがその席で従兄弟たちと20年ぶりに再会出来たことは、実に
嬉しいことだった。
 叔父がその死をもって、我々を引き合わせてくれたのであろうか・・・。

 会下山から神戸港方面(1959年1月)



お世話になった叔父貴の死(Ⅰ)

2017年03月29日 | 随想
 生きとし生けるもの、すべからく死を免れることは出来ない。
そのことは、十分に分かっている積りだった。
 だが今、学生時代に大変お世話になった叔父の死に直面すると、悲しさ寂しさ辛さに耐えられない
思いで一杯である。

 はるか昔、田舎高校生の私は「大阪がどんな所」かも知らないで、関西大学進学を決めた。
当然のことながら、最初の試練として下宿先の問題が出て来る。ところが私は、下宿って何なんだ?という
体たらくで、当然そのあては無い。
 そんな私に救いの手を差し伸べてくれたのが、当時まだ30歳の叔父だった。
「少し遠いが、神戸の俺の家から通ったらどうだ?学生なんだから、大丈夫だろう」と言ってくれたのである。

 もちろん、私に異存のある筈もない。
ということで神戸の叔父宅に転がり込み、姉さん(叔母さま)にも多大な迷惑をかけることになった。
 が、迷惑と知りつつも田舎者の私にとって、神戸の叔父宅での生活はまさに夢のようなものだった。
何しろ当時の都市と田舎の落差といったら、今日の比ではない。当時の田舎にはまだプロパンガスも無く、
薪が主要燃料の時代であった。もちろんテレビなんて高嶺の花で、電話もまだ不自由だった。
 こんな体験こそカルチャーショック、と言うのではなかろうか。

 そんな叔父夫妻のお陰で大学も無事卒業し、田舎に戻ってくることが出来た。
地方公務員として現役生活を全うし、いまこうして余生を楽しむことが出来るのも全て叔父夫妻のお陰だと
心から感謝している。

 その叔父が、この世を去った。享年89歳。
あの温顔に二度と会えないと思うと、涙があふれる。
 だが今となってはご冥福をお祈りするとともに、残された叔母さまのご健勝とご多幸を祈るばかりである。

 当時の蛮カラ大学生









どうなっているのか、森友学園問題

2017年03月26日 | 随想
 新聞テレビの報道は、このところ森友学園問題一色である。
ひところの「豊洲市場」移転問題も霞んでしまうほどの、凄まじいばかりの熱狂ぶりである。
 確かに、9億円超と評価された国有地が法外?な値引きで売却されたというのは国民の一人として
腑に落ちないところがある。
 安倍首相からの寄付金問題も、どちらの言い分が正しいのかハッキリしない。 
そこらは、一日も早く明らかにされるべきだろう。絶対に。 

 だが世界を見渡せば、アメリカのトランプ大統領誕生以来大きく揺れ動いている最中である。
北朝鮮の動向は要注意だし、お隣の韓国も大変な事態に陥っている。
 我が国だけが、こんな国内問題に時間と精力をつぎ込んでいて大丈夫なのであろうか??

 田舎の一老人が心配することではない、かも知れないが・・・


ツクシ(ツクツクボウシ)

2017年03月23日 | 随想
 春の訪れを知らせてくれるものは色々あるが、ツクシもその一つとして挙げられよう。
田舎育ちの私にとっては、むしろ「ツクシこそが、その本命」と言うべきかも知れない。

 後期高齢の身となった今も、ツクシを見るたびに姉と一緒に遊山箱(徳島独特の数段重ねの重箱)を持って
野原へ出かけた幼き日の春の一コマを思い出す。
 原っぱでツクシを発見すると、「わー、ツクツクボウシを見つけた!」と急いで手折って自慢そうに見せ
びらかしたものである。

 あれから、ウン十年!
今年も、ツクシの季節がやって来た。











春が来た!!

2017年03月21日 | 随想
 いよいよ、春も本場!
今年も、心楽しい季節を迎えることが出来ました。 
 年齢を重ねるごとに寒さが身に応え、どれほど春の到来を待ち望んだことか。
我が陋屋のコブシも、精一杯の花を咲かせてくれました。

 さあ、この春は何処に車を走らせようか?
考えるだけでも、ワクワクします。


不愉快なニュース

2017年03月09日 | 随想
 もう春になった積りでいたが、この寒波に目を覚まされた。
勿論まだ「春眠暁を覚えず」というよど寝ぼけてはいなかったが、ビックリ仰天したのは確かである。
 何しろわが家の野菜畑の畔には、沢山のツクシが大きく成長しているのである。

 それにしても、楽しくないニュースが多いのはどうしたことだろう。
大阪の小学校予定地として売却された、あの国有地の問題などその最たるものだ。財務省の所管らしいが、
報道されているようなことが事実なら、国民の一人として到底納得出来るものではあるまい。
 やはり有力政治家の介入?によって、価格とか処理方法が捻じ曲げられたのか???

 国会の場での究明はもちろん、司直の手も入って然るべきではあるまいか。

花々の季節

2017年03月03日 | 随想
 寒かった冬も過ぎ、徳島の片田舎にもやっと春が訪れた。
つぼみの堅かった河津桜も満開になり、庭の片隅に咲く房水仙も芳香を漂わせて華やかな雰囲気を醸し出して
くれている。

 老夫婦二人きりのわが家にとって、花々の咲くこの季節の到来は本当に嬉しいものだ。
自分たちの心まで春色に染まり、若やいだ気分になるから不思議なものである。

 春のひと時ひと時をじっくり味わい、心ゆたかな日々を過ごしたいものである。