雑記茶屋

~インドア派主婦のベランダ日記~

米原万里 「オリガ・モリソヴナの反語法」

2005-11-27 01:14:45 | 読書
またもや胸を打つ本に出会えた。そして読むべき本が傍らにあることが、自分にとってどれほど幸せかを、深く思い知らされた。

さっそく物語のさわりを。
主人公志摩が1960年から10代を過ごした、プラハのソビエト学校で出会った舞踏教師オリガ・モリソヴナとフランス語教師エレオノーラのちょっと風変わりなコンビ。そんな彼女たちの秘められた激動の過去を、ソ連崩壊後にモスクワを訪れた志摩と、当時の親友カーチャが解き明かしてゆく・・・という感じなんだけど、どんなに活字を追っても追っても、今の私の知識も想像力も到底及ばないほどの激動の東欧・ソ連の姿がリアルに迫ってくる。

志摩たちが紐解くのは、スターリン時代の粛清のもと、いつ反体制をでっち上げられ命を落とすやも知れない時代。運命と呼ぶにはあまりにも大きく理不尽すぎる波に翻弄されつつも、それに決してのまれまいと生きていく登場人物ひとりひとりの息吹が本当に間近に感じられるようだった。早く読み進みたいのに、一方でページの残りが少なくなっていくのが惜しくて、永遠に読み続けていたいと思うほど、惹き付けられた。

ところでオリガ・モリソヴナは「本来プラスのイメージの言葉を強調することで反語の意味にしてしまう(p137より引用)」反語法という独自の方法を用いていたが、それは単なる言語表現にあらず、壮絶な人生を生き抜く中で彼女が理不尽な権力に決して屈せず、オリガとしての人生をまっとうするための生きる術であった。オールドファッションと呼ばれた服装も、真っ赤なマニキュアも、強烈な香水も、そして耳を疑うような罵り言葉も、我が身に降りかかった悲劇を踏み越えていく手段だったのだ。

もちろん生きる術は反語法にのみあらず、エレオノーラのように受け止めかねる悲劇の記憶をそっくり欠落させてしまうことだってそのひとつだ。でも彼女も最期の時には、失った記憶を取り戻し、人生のパズルを完成させて逝ったけれど。

さて、私などはオリガの足もとにも及ばないが、2005年の日本に生きていても、時には涙を流すこともある。胸が痛くなる時もある。今までの短い人生のうちにも、器の小さな自分には受け止めがたいような出来事が起こったこともあった。でもひとしきり落ち込んだ後、自分の運命に対して思ったものだ。「あらゆる手段を使って私を打ちのめせばいいさ!悪いけどそれでも私は生きるからね!!」と。

つまり、最後にはなんだか怒れてきて、それがバイタリティーになってしまうという顛末なのだ。これってもしかしたらオリガの反語法の精神に似てるかもしれない。小さな小さな反語法。

今日も私は生きている。私の人生にあとどれ程の残りがあるのかは分からないけど、なんだか時には図太く生き抜いて、全シナリオを読みきってやろうじゃないか。という変なわくわく感が芽生えてしまった。


泣く子と地頭には勝てぬ

2005-11-18 00:05:25 | 雑記
とは上手いこと言ったものだな。
あいにく横暴な地頭にお会いしたことは無いけど、泣く子には毎日連敗している。というか、勝ち負けじゃないんだけど・・・

この諺を考えた人も、当時の制度に大層苦しんだのだろうが、思いついた時に「上手いこと言うなあ~俺」・・・と思ったかもしれない。私も毎日、息子が泣くたびに「おお!もっともだ、もっともだ!」と感心している。

でもこれ、きっと地頭のこと言いたかったんだよね9割方・・・

きっかけは・・・

2005-11-13 02:18:44 | 雑記
きっかけを作ってくれるフジテレビの「大奥」「大奥~第一章~」「大奥~華の乱~」と楽しんで観てきた。そして最近どうにもこうにも気になってきた。どこまでが実在する人物なのか、どこまでが事実なのか・・・ということが。高校時代の担任が日本史の先生だったのにも関わらず、あまり熱心に勉強してこなかったのが、今さらながら悔やまれる・・・。

とまあ、歴史には全く詳しくない私だが、とにかく気になって仕方がないので調べてみることにした。手始めに徳川幕府歴代将軍の名前と家系を。でもあまり周りの人には言わないでおこうと思う。今気になってることが徳川幕府って・・・ちょっと怖いし、こっそり楽しむのがオタクの醍醐味だから。ふふ・・・

もしも万が一、このブログを読んてしまった歴史好きの方がいたら、そんなことも知らないの・・・と鼻で笑われてしまうだろう。でもきっかけから始まるのさ何事も。そして歴史は繋がっているので、一箇所気になると前後して全部気になってくる。ああ・・・今ならしっかり授業受けますT先生・・・

想像し続ける

2005-11-12 01:32:58 | 雑記
「相手の気持ちになって考えられる人」みたいな言葉がこの世にはあって、それは私達がそう在るべき姿のひとつみたいに、しばしば使われている。

確かにそうだ一理ある。

でも結局のところ、相手の気持ちは相手のものだから、想像をミスることもある。何気ない一言が、相手を深く傷つけたり怒らせたり、また稀に相手を救っちゃったりする時もあったりして。人の気持ちなんて知るかよって捨て鉢になる時もある。なんせ35年生きてきても自分の気持ちすら分からない時があるんだから。

でも私は、これからも想像し続けることにする。時にまたミスると思うけど。

今思ったけど「相手の気持ちになって考えられる人」ってPHP誌の特集にありそうだな・・・な~んて茶化して終わる。

辻 仁成 「アカシア」

2005-11-04 20:08:23 | 読書
人の名前など無くても、小説を読み進めるのに別段困らないものだ。

まあ確かに「アカシア」には「アカシア」という名前があるけど、それはこの短編集の中に登場する全ての者達、ひいてはそういう名前や年齢や国籍とかいう付属物を(心の中でだけでも)脱ぎ去った私たち自身を総称した呼び名だと思う。つまり誰もが「アカシア」になりうる。

そしてそういった付属物がなくても、人は時に心を通わせることが出来る。しかしそれすらも、移ろいやすい人の心が一瞬その一点においてのみ、偶然重なったに過ぎないのかもしれない。それほどの事だからこそ儚く尊いのかも。

・・・などと、適当なことを言ってみた。

人の心は移ろいやすく厄介だ。繰り返される出来事に対して違和感を失くし、それが当然だったと思いこむ。特別な意味はなくただ存在する事柄に、因縁めいた意味を見出してみる。自分で作り上げた法則に縛られたり、勝手に美化したものに裏切られたりする。

でもある時はとても素直で単純。いろんなものに縛られているようで、本当は誰もが時に「アカシア」になりたいのかもしれない。少なくとも私はそうだ。なかなか難しいけど・・・

「あとがきにかえて」で辻氏が彼女を通じて問いかけた「世界で一番遠くに見えるものは何かしら?」に対して、私も迷わず私たち自身だと答えたい。一番近くて一番遠いものだから。

ちょっと余談だが、物語の終わりを読者にそっとあずけてくれるような作品が私は好きだ。