ほんとにおかしい話だけれど、
小さいころ、わたしは有明山のことを富士山だと思っていました。
形が似ているからです。
本物の富士山を知って、有明山は富士山ではないとわかったけれど
今でも小さいころと同じくらい、きれいな山だと思っています。
そして、北に行くほど、雄々しい形に変わり
南に行くと前山に埋もれてしまう有明山は、
わたしの住んでいる場所からが、一番きれいに見える気がします。
朝に夕に挨拶を交わして育ってきた有明山に
また会えてうれしいです。
一度はなれて、35年ぶりに戻ってきたふるさと。
今まで見えなかったふるさとの懐の深さが
今ははっきりと見えます。
有明山に抱かれて
これから暮らしていくんだな。
この暮らしは、亡くなったばかりの父からの贈り物かもしれません。
再出発にむけて、友人が送ってくれた詩です。
「山へ」
伊藤 整
とほく緑は厚い布のやうに
山肌を這ってゐる
夏の間 緑は恐ろしい洪水となって
山ぢゆうにゆれてゐる
私はあの海のやうな緑に入って行き
栗鼠のやうに
大木の幹を通りぬけ
膚身を
あをい風に吹かれて
さうして 原始人のあさ黒い膚と健全な感受性とにならう。
いつも見知らぬ目のやうに
青くけぶつてゐるたのしい空さへ
慣れすぎて忘れがちな昨日今日の物憂さから
身ぶるひするほどの
あざやかな生命をめざましに
あゝ毛ものの外に知らない
谷川のくらい水をわたり
私よりもせいの大きな
ぜんまいらの中を行かう
さうして朝夕のいのちがかなしければ
蟻の子のやうに白い木を洗って
ひとすぢ紫の煙をたてよう