ジャン・アレチボルトの冒険

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乃木坂総論 ~ AKB48流「終わらない物語」への幻想

2013-05-15 16:06:33 | 芸能
乃木坂6枚目シングルの選抜発表以来、AKB48の楽曲をYouTubeなどで探して、あれこれ聴いている。

センター交代を軸とする今回の改変には、間違いなく、AKB48で培って来た秋元康氏の考え方が反映されているはずで、それを知りたかったからである。

意外だったのは、歌にしても、ダンスにしても、思った以上にグループとして平等、均質で、はっきりとした差別化や構造性を感じなかった。

ミュージックビデオは、曲が流れている部分では、メンバーを1人あるいは数人で映すシーンが、次々に切り替えられて進んでいくことが多い。全体フォーメーションを作って踊る場面でも、めまぐるしく前後が入れ代わっていく。

24thシングル「上からマリコ」といった例外はあるが、多くの楽曲で、誰がセンターで、誰が2列目で、といったことは、ほとんど気にならなかった。

また、16th「ポニーテールとシュシュ」や17th「ヘビーローテーション」で顕著だが、全員での着替えや水着、下着のシーンが多く、肌の露出が強調されている。そのため、前田敦子、大島優子、小嶋陽菜といった固有名詞が薄くなって、たくさんの女の子のセクシーな体、という普通名詞が曲全体を覆っていく。

平等な「セクシャル」がメンバー1人1人の個性を、さらに均質化して、構造性の消失を加速させている。

4th「制服のマネキン」や5th「君の名は希望」で明らかな構造性を見せた乃木坂とは対照的である。

生田、生駒、星野の1列目が三人三様の個性で一種のトライアングルを形成。2列目では、橋本、白石、松村の三人がもう一つのトライアングルを作り、その両脇に、桜井と秋元がそれぞれの個性を出しながら配置。そして、1列目と2列目にも、年少グループとお姉さんグループという対比が存在している。

乃木坂の場合は、二重三重の対立軸が用意され、はっきりとメンバーの差別化が行われ、その構造性に基づいて楽曲が進んでいく。

さらに、最近では、生田絵梨花のピアノ伴奏で歌うことも多く、これもある意味、もっとも突出した差別化ということになる。

もし、私が乃木坂ではなくAKBのファンで、その中の一人を好きになったとしたら、AKBのミュージックビデオを観て、こう考えるかもしれない。

平等、均質の海で溺れかかって、埋没しそうになっているそのメンバーを、少しでも助けてあげたい。一歩でも、他のメンバーより目立つように、前に出してあげたい。

2005年、秋葉原に誕生したAKB48は、全く無名の素人集団としてスタートしたが、それゆえに、有り余るほどの均質性を持っていたはずである。

しかし、ファンはお気に入りメンバー、いわゆる「推しメン」が出来ると、この均質性に耐えられなくなる。

少しでも、「推しメン」を他のメンバーより目立つようにしてあげたい。出来れば、センターに立たせてあげたい。均質なグループではなく、彼女が中心にいるような構造を作りたい、言葉を代えれば彼女に「物語」を与えたい。

しかし、もし自分の「推しメン」が中心となる体制が出来上がり、不動のセンターとなったら、そのファンの気持ちは少しずつ醒めていく。また、他のメンバーを推しているファンも、やる気を失って、気持ちが醒めていく。

メンバーの技量がまだ未熟で、歌やダンスの魅力だけで、客を繋ぎとめるのは難しい。

物語が完了してしまったら、すべてのファンの動きが止まり、劇場から徐々に人が去っていくことになる。

秋元康氏は、このファンの心理的な動きを、AKB創成期に間近で観察して、プロデューサーとして、次のようなことを考えたのかもしれない。

ファンに対して、均質性から構造性への欲求を適度に満たしつつ、あるときに、出来上がった構造性を壊して均質性へ回帰させ、再び構造性への意欲を煽って、永遠に終わらない物語を作らなければならない。

そして、一度出来た構造性を壊して、つまり「物語」をリセットして、再スタートさせる舞台装置として、新曲ごとのメンバー選抜というAKBの基本システムが登場したのではないだろうか。

握手会はファンに「推しメン」を作ってもらうチャンスであり、同時に、その「推しメン」の人気を誇示し、次の新曲において、彼女を前面に押し上げたいという欲求を発散してもらう場でもある。

さらに、来月行われるAKBグループの「総選挙」は、自分の「推しメン」に「物語」を与えたいというファン心理を直接満足させる、究極のシステムである。

これらは、グループを自分の望む構造へ変えたいというファンの欲求を満たす、重要な仕掛けと言えるだろう。

しかし、その結果出来上がったグループの構造性は脆くて儚いものでなければならない。

ミュージックビデオでは、同一の「セクシャル」がメンバー平等に与えられ、歌でも、ダンスでも、カット割りでも、差別化された明確な構造性ではなく、さりげない均質性の方が優先される。

また、「じゃんけん大会」は、さらに直接的に、その構造性が容易に壊れてしまうことをファンに印象づけるだろう。

永遠に続く物語を作るために、均質性から構造性へ、そして、構造性から均質性へ、振り子のように揺れ続ける必要がある。

競争と勝者は常に必要だが、絶対的な勝者はいらない。

しかし、このビジネスモデルは、創成期やその後の成長期のAKB48には有効であっても、乃木坂46に対して妥当かどうかは議論の余地がある。

新人発掘史上おそらく最大規模のオーディションを行って結成された乃木坂46は、発足当初から、各メンバーがすでにかなりの個性と能力を持っていて、グループとしての均質性はむしろ乏しく、ある程度の構造性を最初から備えていた。

いや、もっと正確に言えば、1人1人の個性や才能を最も重視して、オーディションを行い、グループを作ったということで、最初から意図的に均質性を壊したわけである。

実際、1列目、生田、生駒、星野、2列目、橋本、白石、松村、という配置は、デビューシングル「ぐるぐるカーテン」ですでに行われていて、5th「君の名は希望」までで、それが壊れたのは、2th「おいでシャンプー」だけだった。

今回のセンター交代は、乃木坂の構造性が本格的に固まりつつあることに危惧を感じた秋元氏が、もう一度「物語」を始めるために、それを壊して均質性への回帰を試みた結果かもしれない。

確かに、「16人のプリンシパルdeux」でも、作品の出来を犠牲にしてまで、どのメンバーでも、ファンが認めさえすれば、どの役でも演じられるシステムを採用して、グループの平等性、均質性が前面に押し出された。

しかし、乃木坂は、メンバーの個性や才能を重視してデザインされたグループである。まっさらな少女たちのアイドル育成ゲームとしてデザインされているAKBグループとは、そもそも出発点での発想が異なっている。

AKB48流のビジネスモデルを、そのまま適用することには大きな疑問を感じる。

とくに、出来つつある構造を壊して、無理に均質性を強調する行為は、各メンバーが持っているせっかくの優れた才能を無意味なものにしてしまうおそれがある。才能は本質的に不平等、不均一なもので、それを育てていく為には適材適所という発想が必要で、それは「努力すれば、誰でも、どのポジション(役)でも」という均質性とは相容れない考え方である。

また、AKB48そのものですら、結局は、前田敦子や大島優子というヒーローを生み出して、その強固な物語性を、自らの発展の一番の原動力としてきた。

今ある構造性を壊すことが、どのケースで有効で、どのケースでは有効でないのか、巨大に成長した現在のAKBグループも含めて、もう一度、よく吟味してみる必要があるはずだ。

AKB48流「終わらない物語」が終わりを迎えつつあるのならば、出来るだけ早く、別の物語を始めた方が賢いということである。


乃木坂46について、他の記事に興味がある方は、以下のような目次ページを作りましたので、よろしければどうぞご覧下さい。

アレチの素敵な乃木坂業務連絡 15May13 ~ 関連記事の目次 (2013/04/19 ~)

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