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日暮れて道遠しではあるが☆教育基本法改正案衆院特別委で可決

2006年11月15日 19時57分06秒 | 日々感じたこととか

我らが森山眞弓衆院教育基本法特別委員会委員長が見事な仕切りをされた。流石、我が家の寛子ちゃんとそっくりの「眞弓先生」である。まだまだ、衆議院本会議→参議院委員会→参議院本会議(もし、参議院で修正があれば、更に:→衆院本会議での再議決)と「日暮れて道遠し」ではあるが、まずは最初の一歩を踏み出せたとは言えよう。油断はできないけれど、「教育基本法改正案衆院特別委で可決」の報は吉報であることには違いない。

野党は、所謂「いじめ→自殺」問題なるものやタウンミーティングでの所謂「やらせ」疑惑なるものを持ち出し(★これらに関するKABUの考えについては下記資料を参照いただきたい)、今国会での時間切れ引き分けでの廃案(それがかなわぬなら、せめて継続審議)に持ち込むべく、今後、一切の審議に応じない構えを取るだろう。また、眞弓先生を始め、「核武装論議肯定発言」の麻生太郎外相、あるいは、安倍首相の不信任案を提出することは十分予想される。むしろ読み筋だ。

けれども、11月19日投票の沖縄知事選挙への影響を危ぶむ与党内の声を歯牙にもかけず、「教育基本法改正案の衆院特別委での可決」を決断した安倍首相の腹は決まったと思う。1274年と1281年の元寇を見事なリーダーシップで撃退した相模太郎(=北条時宗)は、世にその胆力を「相模太郎の胆は(大)甕の如し」と謳われたというが、「安倍晋三の心臓は(大)甕より太い」かどうかは(政権発足50日足らずのこととて)まだ不明ではあるものの、「安倍晋三の心臓が小沢一郎の心臓より丈夫」なことは間違いないだろう。ならば、後は、政府与党一体となって粛々と教育基本法改正を具現すべきのみ。日暮れて道遠しの感を覚える今夕、そう感じた。

以下、読売新聞(電子版)の速報。ならびに、この問題に関する私の考えをまとめた拙稿を資料として掲げる。

 
●教育基本法改正案、衆院特別委で可決


教育基本法改正案は15日夕、衆院教育基本法特別委員会で、自民、公明の与党の賛成多数で可決された。

民主、共産、社民、国民新の4野党は「さらに慎重に審議するべきだ」などと採決に反対し、特別委を欠席した。

特別委は15日午前に中央公聴会を行い、午後1時からは安倍首相が出席して与党が締めくくり総括質疑を行った。野党は午後の審議を欠席したため同委員会は休憩に入り、同日夕、自民党が質疑打ち切りの動議を提出し、与党のみで採決した。

与党は同法案を16日の衆院本会議で可決、参院に送付したうえで、今国会で成立させる構えだ。(読売新聞)11月15日17時27分



●資料:「いじめ→自殺」と学校の責任:教育基本法改正の必要性
「いじめが原因で学校内で自殺する」と文部科学省なりに寄せられている自殺予告の手紙について、「自殺したいならさっさとやれ」と石原都知事が述べられた。私はこの発言を一種正論と思っています。

「自殺予告」がさも「自爆テロ」でもあるかのように騒がれる日本が異常だと思うのです。福岡の中学生自殺のあった地域は日教組組織率61%(cf.全国平均29%)で、実に、教組は教育委員会の事情聴取も当初は拒否したというように、学校にも至らぬことは多々あっただろうが、結局、学校も教委も文科省も(超能力者じゃあるまいに、今、自殺を決意している人をすべて特定しそれをすべて)止めることなど物理的に不可能。而して、不可能を法は誰にも要求しない。

なら(表面はどんなに優しい言葉で飾ろうとも)、自殺したいならご自由に;さっさと、おやりになればとしか言いようがないのです。いずれにせよ、「いじめ」や「自殺」を、教育、就中、学校や受験の問題として(だけ/専ら)とらえるのには無理がある。それは、教育や学校への、ある意味、過大な期待の裏返しのように思える。

畢竟、報道されているような「いじめ」は(まして、教師が率先しての/教師が加担しての「いじめ」などは)「脅迫」であり「恐喝」であり、場合によっては「暴行」「傷害」という立派な犯罪です。 少なくとも私法上の不法行為(や「教師によるイジメ」の場合、積極的権利侵害タイプの債務の不完全履行)ではあるでしょう。

そのような犯罪や不法行為を「いじめ」などの文学的な言辞で括るから問題があいまいになるのではないでしょうか。逆に言えば、(厳しく言えば)犯罪でも不法行為でもない「いじめ」も「いじめ→自殺」も学校には本来何の責任もない。ただ、学校は把握した限りの「いじめ情報」を、それらの問題を解決する責任がある<家庭&警察・裁判所を含む社会>にすみやかに伝える責務はある。

まして、教師が率先していじめる/犯罪もしくは不法行為のレヴェルに達している「いじめ犯罪」を放置した/教育委員会が遺書をしまいこんだなどは論外なことも確か。而して、「いじめ」や「いじめ→自殺」については、家庭の教育力の劣化が最大の問題ではあるでしょうが、こと学校に関しては、「子供は普通いじめなどしない」等の戦後民主主義的な教育観に安住して、負いようもない責任と権限を囲い込み果たすべき役割を果たさない点で学校も変るべきだ。そう思います。

例えば、北海道の自殺した女の子のケース、担任は「修学旅行の部屋割りで、その子と一緒になりたくないというクラスの声を受けて、三回にわたり部屋割り会議を許した」とのこと。「ここに、子供の世界に普通ならいじめはない」「民主的な話し合いは問題を解決できる」という、日教組的のカルト的な戦後民主主義がはしなくも表れていると思います。これは、その担任が日教組・全教の組合員であるかどうかとは別の問題であり、戦後民主主義がもたらした悪臭&悪習が現在の教育現場を蝕んでいることの証左だと考えます。

そして、福岡の中学生自殺事件に関して、現行教育基本法10条の「不当な支配」を引いて、自殺した生徒の悔しさや絶望の有り様、あるいは、その原因や自死に追い込まれた過程の調査さえ拒否し隠蔽しようとする日教組等の醜悪きわまりない対応を見聞きするにつけ教育基本法の改正は焦眉の急であろうと確信しています。

畢竟、学校は(間違っても、「いじめはあってはならない→いじめはない」「クラス内で話し合えば子供達は問題を解決する」などの妄想にとらわれず)、犯罪や不法行為たる「いじめ」には裁判所・警察を導入し、かつ、すべての情報を家庭に提供する。そこに至らない「いじめ」に関してはそれこそ教育的な指導を徹底する。残念ながら教育的指導で問題が解決しない時には、家庭が「わが子を守る」ための必要な情報を提供する。これらのやるべきことを粛々とやればよい。この前提の下、私は石原都知事の発言には頷けるところが多いと思ったのです。

それにしても自殺した子供達の悔しさはいかばかりであったろうか。家庭や本人の問題は別にして、自殺した子供達の悔しさや絶望に何がしか感じ入らない者はいないと私は信じます。

而して、石原都知事の「自殺したい奴はしろ」発言はその前後とあわせてみるとき(贔屓目ではなく、)凡百のヒューマンな「可哀想」論よりも、その子供達への共感と激励であると私には思えます。「そうはとてもとれない」などはこのテーマが(上でも述べたように)取りあえず行政官の左右できることでない以上、他者から批判される筋合いのものではない(批判は自由だが、都知事には批判を受け入れる義理はない)。

いずれにせよ、「自殺予告」が大問題で、「予告が実現した場合、学校や地方自治体、国の責任」でもあるかのように報じるのは筋違いであり、マスコミの報道が自殺の連鎖に影響を及ぼしていることはほぼ確実であり、また「偉い人達に言えば、自分が苦しんでいるいじめが少しは解決するかも」と(やらせではない)自殺予告状の作者がもし考えているとすれば、それは「甘えであり筋違い」である。

蓋し、私はこの議論は、「追い詰められている子供達に学校を含む社会としてどう手を差し伸べることができるか」というアプローチと「犯罪・不法行為レヴェルに達しているいじめ」に適切に対処できない現下の学校現場の改革をどう実現するかというアプローチが独立別個に成立するだろう、そして、石原都知事の発言は前者のアプローチからは物足りなくも乱暴であるが、後者に関しては現状の理解という点で(行政のできることの本質的な限界の提示という点で)示唆に富む。私はそう考えるのです。


●資料:タウンミーティングの「やらせ」はなんら問題ではない
タウンミーティングの所謂「やらせ」は実務的には何の問題もない。私はそう考えます。

そこには別に出席依頼者だけが参加したわけでもないし、内閣府を通して出席を依頼され所定の質問を依頼された出席者も含め、結局、「何を発言するか」は本人の自由に任せられていたのですから。大体、どのようなイベントでも、

・参加者の紹介 &質問の口火を切る候補の調達
・事前の資料&想定問答の配布
・質問等の演技指導

これらの手配は常識。 それとも、タウンミーティングというのは国民から無作為抽出された者が、裁判官よろしく事前に「予断を抱かせる情報」に触れることなく、当日ぶっけ本番で発言するのでなければならないなにか特別のイベントなのでしょうか。タウンミーティング自体は何か国民の行動を縛るルールを決める権限を持った場ではないのです。

ならば、口火を切る質問の謝礼が5000円であろうが50000円だったろうが、それでイベントが盛り上がり 活発な意見の交換につながったのなら、それは必要な経費でしょう。実際、このタウンミーティングのイベント自体その全体を広告代理店が仕切ったのであり、ならば、イベント実施の手練手管も通常のイベント参加者の手配と事前打ち合わせ(それこそ、時給付きで参加者を募集することも稀ではないTVの討論番組のスタジオ参加者の手配等)と同じである方が自然というものではないでしょうか。

更に、土台、(嘘の情報を流すなどがあれば別問題でしょうが)与党が構成する時の政府が自己が推進しようとする政策の宣伝を公費を使って何が悪いのか。私は、ある特定の政治勢力が公的な行政権を握る議会制民主主義においてこのことは何ら法的に批判されることではないと思う(逆に、政治的な批判はあり得るでしょうが、それは、次の選挙で国民-有権者が判断することでしょう)。

もちろん、所謂「やらせ」や「日当5000円」はあまり<美しい話>ではないことは確かです。「市民の率直な声を聞いてきました」というこのイベントの趣旨という羊頭からみれば狗肉を売ったことは確かということ。そのことは、率直に謝るべきだと私も思います。 「報道されているように所謂「やらせ」と言われても仕方がない事実がありました。政府としても遺憾と思います」、と。

而して、それ以上の答弁は不要であり、ましてこの所謂「やらせ」問題なるものは教育基本法改正の是非と絡めて議論されるべきイシューではない。そう私は考えます。

★参考:
教育基本法改正に関する私の基本的考えについては下記拙稿およびそこにリンクを張っている拙稿をご参照ください。

・教育基本法改正論は市場原理主義か?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/41919916.html

・教育基本法改正☆日教組「非常事態宣言」を撃つ
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/41550018.html

・高校の「履修不足」問題が示唆する教育基本法改正の必要性
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/41644725.html

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