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教育基本法改正論は市場原理主義でしょうか

2006年11月09日 07時50分47秒 | 教育の話題



教育基本法の改正を巡り「教育基本法改正論は市場原理主義」「教育基本法改正派は新自由主義者」という主張を、最近、改正反対派からしばしば聞きます。そして、「新自由主義を標榜する安倍政権が日本の伝統の維持を主張するのは論理矛盾」とも。

私は、これらは「他者に勝手にレッテルを貼っておいて、その他者がする自分の貼ったレッテルと矛盾する言動を批判する」類のことと考えます。教育基本法(以下、「教基法」と記します。)の改正を目前にした今、改正後の追撃戦に臨むためにもこの点について整理しておくことは無駄ではないのではないか。少なくともそれは教育制度を巡る議論を生産的にする。そう考えて、以下、何人かの改正反対派の方に向けて書いた私の主張を編集しました。


◆教育基本法改正の狙い
教基法改正論は市場原理主義か? これについて第一に言いたいことは、「教育基本法改正派≠新自由主義原理主義者」ということです。

少なくとも、「学校の組織・人事・教科編成・クラス編成・入学者選別等々のすべての部面に競争を導入しよう」「市場競争原理が導入されれば、イジメや不登校、学力低下・意欲低下等々の教育現場に惹起している大方の矛盾も解決するはずだ」と考えている市場原理主義者は改正論者の中でも極少数でしょう。蓋し、「改正賛成派=競争万能論者」ではない。

我々、改正論者が同法改正で実現したいのは煎じ詰めれば二つだけです。少なくとも私はそうです。すなわち、

(1)教育現場に、文教行政を担う機関として、(上意下達の)通常の組織原則を確立すること。その裏面として、中央-地方、教育委員会-学校現場の責任分担を明確化すること

(2)「どの子もどの科目でも100点を取れるポテンシャルを持っている」などの妄想を払拭し、学業に向いていないタイプの子供達をも学校に幽閉する偽善的な悪習はやめて、各自の適性にあった進路に子供達を早期に進ませる体制を整えられるようにすること


教基法改正は学校現場と教育委員会等の公教育を担う組織に秩序を与えるものであり、教育の対象でしかない(少なくとも、対象ではある)子供達に「学校の主人公」なる意味不明な文学的表現を与え、(その主人公たる子供の権威=子供の学習権や自己発達権なるものを理由に、その子供の一番近くにいる「教育の専門家」たる教師個々の裁量権を強調することで)教育行政の分野があたかも国家権力から独立した聖域ととらえるカルト的な「日本の条理教育法学」の妄想から教育現場と子供達を解放することにある。

つまり、教基法改正は「公教育の器」作りにすぎず、それ以上でも以下でもない。ならば、教基法改正だけで(1)(2)が完成することさえありえない。まして、イジメや学力低下が解決するなどは断じてない。よって、それらの現実的問題を解決するためにも教基法改正後の追撃戦が重要である。そう私は考えています。

畢竟、レッテル貼りは不毛です。これはアメリカの「共和党=イラク戦争肯定←戦争肯定:民主党=イラク戦争反対←戦争否定」と考えるのと同じくらい滑稽。民主党も(歴史的には共和党よりも)戦争肯定だしイラク戦争にも賛成した。彼等のブッシュ政権批判は、「もっと上手くイラクを叩け」というものなのですから。


◆公教育への市場競争原理導入と教育基本法改正の接点
ある教基法改正反対論者の方が、「経済の市場原理が馴染まないから「公園」「公民館」「公教育」というのだ」と喝破されました。私はこの主張は正しいと思います。而して、我々教基法改正賛成論者がやろうとしているのは、「公教育の民間教育化」ではなく「公教育を民間に担ってもらう」こと:例えば、「公」教育を受ける権利をバウチャー(利用券)に化体することなのです。

再度言いますが、教基法改正論者が(少なくとも私が)民間に担って欲しいと思っているのは「公」の教育であり、民間が行う教育を「公教育と看做す」ということでは断じてない。私が尊敬してやまない小平先生の言葉を使わせていただければ「公的機関も民間機関も良い「公」教育を行う機関が良い公教育機関」。そう考えています。

敷衍します。「市場競争原理の公教育への導入」が生徒数に比例した(教員の給与なりも反映される)予算配分に端的に現われるとしてもそれは「公教育の提供の競争」なのです。良い喩えではないですが、それは高速道路の建設やメンテナンスを民間が競争入札で請け負うことと同じであり;(談合醜聞は尽きないものの、逆に言えばそれだけ)激しい競争を経て民間が建設した道路も公的なインフラであることと同様です。

例えば、居酒屋和民の渡邉美樹社長(教育再生会議委員)が理事長を務められる東京の郁文館夢学園は(私立校の再建の事例であり「公教育への市場競争の導入」とは少しずれますが)、民間経営者の視点から改革を断行された(教職員の居酒屋研修等々を経て「サービス産業従事者」としての意識改革を断行しそれについて行けない先生方にはお引取り願った)。

同校ではこの再建に際して「成績や素行が悪い生徒を即退学」にしたのですが、それは学ぶ適性のない子供を無理に学校に囲い込まない(しかも、訴訟上等で!)という哲学の具現だった。蓋し、非常に原初的な形態ですが(また、それが成功事例になるかどうかは不明ですが)、市場競争原理が公教育に良きインパクトを与えうる予感を私は郁文館の再建に感じています。


この節のコロラリーとして述べれば、「教え子を再び戦場へ送るな」という戦後の教育労働者運動なるものは、公教育とは何の関係もないことなのです。そのような党派的-イデオロギー的な政治運動は学校現場とは別のところでやってくださいませんか、そう国民の多くは言いたいのではないでしょうか。

実際、そのような政治運動を教育現場に組織的に持ち込むことこそ「教基法10条違反」でしょう。これは、「国家権力がその教科の内容にまで容喙した戦前のあり方は否定されるべきだ」とかいう同条の立法事実とは異なりますが、同条の現在の規範意味からは明らかだと思います。

そのような党派的な政治活動を教育現場に持ち込んで恥じることなく処罰されることもなかった、既得権(?)に守られてきた教師は教育現場から退場すべきなのです。実際、そのシャビーな勤務態度と実績ゆえに(要は、政治イデオロギーの子供達への押し付けなどの高尚なものではなく、ホームルームにも来ない、自習が多い等々が目にあまり)父母から担任変更を求められる日教組組合員の割合の高さは国民周知のことではないでしょうか。

最早、国民の支持は政治運動の片手間に「学校現場にたむろする」日教組・全教の組合員教師にはない。而して、彼等の既得権益を粉砕するためにも教育現場という「器」を新しいものに変える必要があり、そのための方便として公教育への市場競争原理導入が有効ならば、それらの施策を阻害してきた現行の教基法の抜本的改革は不可避である。そう私は考えます。


◆英国の教育改革と教育基本法改正後の日本の教育
教基法改正反対論者は、安倍首相は「すでに失敗した英国の教育改革を20年遅れて行おうとしている」としばしば揶揄されます。

基礎基本の習得の強化・全国テストの恒常的実施とその結果公表・家庭が子女の通う学校を選択できる制度運営・信賞必罰の結果責任強化およびそれとセットになった学校管理者の裁量権限拡大・国家の学校への調査監視の強化・自虐史観の払拭、等々を特徴とするサッチャー教育改革路線は失敗した、と。

けれど、サッチャー政権後現在に至る「英国の教育改革は失敗」とはどのような根拠で言えるのか疑問です(例えば、下記URL参照:そこには批判の為にする批判、または、全体としての評価を覆すことのない枝葉抹消的な事実以外のなんの記述も私には読み取れません)。

・教基法「改正」をイギリスの教育改革から正当化することはできない
 http://www.stop-ner.jp/061025ronsetsu.pdf

完全無欠の制度は存在せず英国の教育改革にも多くの不備はある。それにしても、読み書きの基礎学力の整備は数値に表れており、80年代後半の(その少なからずはそれまで「高等専門学校」扱いと言えた)ポリテクニーク(Polytechnic)の正規の大学への再編統合と轍を一にして、高等教育を受ける人口割合を増大したことは英国の国際競争力強化に貢献したことは間違いない。

蓋し、私は「英国の教育改革は失敗」とか「教基法「改正」をイギリスの教育改革から正当化することはできない」という議論を聞くとき、「部分と全体の倒錯した認識」を感じるのです。「数多の弊害はあるもののサッチャー教育改革路線が英国の教育を再生した」という全体的な評価は英国でも不動です。労働党のブレア政権も保守党のサッチャーの路線を抜本的に見直しすることはなかったのですから。


所謂「市場の失敗」を持ち出すまでもなく、市場化はAll or Nothingではない。市場化すべきでない/することもできない領域、市場化する場合にもなんらかの規制をかけるべき領域は確かに存在します(例えば、自衛隊のサービスを市場化することはできないし、食糧安全保障の面から農業の完全市場化には弊害が多いでしょう)。

公教育も間違いなくそのような領域の一つだと思います。けれども(繰り返しになりますが)、それは「公教育」に完全な市場競争原理を導入すべきではないということであって、「公」教育を民間が担うことを否定するものではない。畢竟、「公」教育を民間に委託すること事体がすでに、「規制なく市場競争を持ち込むこと」ではないのです。

これに関連して以下のような批判が言及されることもあります。

(イ)公教育の受託者の倒産
民間受託者が倒産すれば生徒達が「路頭に迷うではないか」、と。けれども、実際、道路清掃と集金&補修管理は道路公団の傘下企業の独占から多数業者への委託に変わっていますが、業者が倒産しても高速道路インフラが立往生することはないでしょう。同様に、公教育の受託者が倒産しても公教育サービスを全うする仕組みはいくらでも作れる(もっとも、これは教基法改正の次の工程ですけれども)。

(ロ)公開テストの不正
英国では学校の公開テスト平均スコアを上げるために成績不良者を試験日に休ませたりするサモシイ不正が横行している。「安倍政権の教育改革もそのような「美しくない場面」を教育現場に現出させるだろう」、と。

公開テストスコアを上げるために成績不良者を試験日に休ませることが英国で横行したことは事実ですが:これは地域の学校群のSATの平均スコアにより所得階層移動が起こり(よって、税収が変動する)米国でもよくある話(実際、英語ができない日本人子女が入学を拒否されることもあります)。しかし、そんなことは(性悪説に立って)フェアで厳格な学校間競争のルールをこれまた厳格適用すれば解決する問題であり、英国でも既に改善していることです。

(ハ)教師や管理職の退職や自殺の増加
英国では「管理強化と学校間競争のプレッシャーからか退職や自殺する教員が多い」、と。笑止千万です。これらは意識改革できない輩が職場から退場しているだけのこと。日本でもそのような輩が退場し、塾・予備校で頑張っている有為の人士がその後を襲うことを国民の多くは望んでいると思います。


畢竟、私は、ある一つの制度に(英国の教育改革路線なりに)そう高い完成度は求めないし、制度には賞味期限が必ずあると思っています。また、制度を受け入れる各国の「初期条件」も千差万別。而して、英国の経験には現下の日本が参考にできる内容が豊かに含まれているのではないか。そう私は考えます。



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