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愛国心の脱構築-国旗・国歌を<物象化>しているのは誰か? (上)

2011年08月02日 07時09分33秒 | 日々感じたこととか


今春、「公立学校における国旗・国歌に対する起立斉唱を命ずる職務命令」に合憲の判断を下した一連の最高裁判決が出ました。本稿はそれらの憲法判断の基底に横たわる問題を整理して、国旗・国歌そして<愛国心>の意味を<脱構築>しようとするものです。

一連の最高裁判決(また、その前哨としての「ピアノ伴奏拒否事件」の最高裁判決)に関しては下記解題記事をご参照いただきたいのですが、これらの最高裁判決の法廷意見は、内容の面で常識的なだけでなく、現下の憲法訴訟論の水準と理路から見ても妥当なものだと私は考えています。

蓋し、それらは当然の判決にすぎない、と。


・<君が代伴奏命令拒否処分>合憲判決☆読売の一記者に負けた朝日
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c6ceddb3560c3f5a95528f94cb93cd45

・【資料集】最高裁「国歌斉唱不起立訴訟」合憲判決
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-925.html

・【資料集】最高裁「国歌斉唱不起立訴訟」判決-宮川裁判官少数意見
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-931.html






◆国旗・国歌を巡る最高裁判決の理路

朝日新聞社説「君が代判決 司法の務め尽くしたか」(6月1日付)、同「君が代判決 判事の声に耳をすます」(6月28日付)等々、しかし、リベラル派からは(就中、例えば、奥平康弘・内野正幸氏等々、それらリベラル派の憲法研究者の多くからさえも呆れられている、戦後の日本にのみ存在する極めて特異な所謂「条理教育法学」なるものを説く教育法研究者からは)、これら一連の最高裁判決を評して、それらの法廷意見自体には疑問が残るものの、幾つかの真摯な少数意見が付けられたこととともに、ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決と比べても、「一方で注目すべきは、すべての小法廷が「命令は、思想・良心の自由の間接的な制約となる面がある」と指摘したことだ。一、二審判決の多くが「教員に特定の思想を強制したり、告白を強いたりするものではない」としてあっさりと原告側の主張を退けたのに比べ、ぎりぎりのところでの合憲判断だったことをうかがわせる」点は評価できるというコメントも散見される。本稿の主題を論じる前哨として、これら「負け惜しみ」の類のコメントに一瞥を加えておきます。

まず、現下の憲法訴訟論の構造と内容とはいかなるものか? それは、

(α)他者であり行政機関たる学校長の出す職務命令が、その内容に異存のある教師にとっては、思想・良心を制約する場合のあることは当然である

(β)ある個人の思想や良心が外部に行動として表出される場面では、そのような表現や行動を制約することの社会的必要性、制約の範囲と程度の社会的相当性を踏まえた上で、あるタイプの行動を制約することは憲法論的に見ても許される場合がある

(γ)現行憲法が、どのような場合にどのような制約を許容しているかを、「公共の福祉」や「特別権力関係」、あるいは、「部分社会の法理」等々の所謂ビッグワードから演繹することは(これらの用語を思念さえすれば、例えば、「腕っこきの占い師が、水晶球に念じれば、その正面に黙って座る顧客の運命をたちどころに言い当てる」かの如く演繹できるとすることは)、現在の憲法訴訟論からは支持されない。しかし、現在の水準の憲法訴訟論からの帰結をこれらのビッグワードで「総評」することには特に問題はない

(δ)現在の憲法訴訟論では、ある法規および行政機関の行為の合憲性/違憲性の判断に関しては、(a)合憲性判断基準のテスト、(b)憲法審査基準のテストという二つのテストによる重層的な判断が行なわれる

(ε)合憲性判断基準のテストとは、個人の自由を制約する法規等に合憲性の推定がなされるのか/違憲性の推定がなされるかの判断であり、換言すれば、立法事実に合理性が推定されるのか/合理性は推定されないのかの判断である。

而して、(ε)前項の場合には「緩やかなテスト」が、(ε)後項の場合には所謂「厳格なテスト」が行なわれる。精神的自由や表現の自由、就中、政治的な表現の自由と経済的自由の間では憲法による保障の手厚さに濃淡をつけるべきだとする所謂「二重の基準論」は、この合憲性判断基準のテストの前哨もしくはコロラリーと考えられる   

(ζ)憲法審査基準のテストとは、合憲性判断基準のテストの帰結を受けて、具体的に自由の制約が許される限度を確定する基準のことである。合憲性判断基準のテストを憲法訴訟論の「総論」と位置づけるならばそれは謂わば「各論」である。而して、「公共の福祉」「特別権力関係論」「部分社会の法理」は、この各論内での諸基準の選択採用ルールとして、換言すれば、憲法審査基準のテストを構成する憲法審査の諸ルールを巡るメタルールとして再構築される

(η)憲法審査基準のテストの具体的基準内容としては、(ε)総論における「緩やかなテスト」を引き継いだ場合には、例えば、「明白性の基準:法規が著しく不合理であることが明白でない限り合憲とする審査基準」「合理性の基準:法規の目的・手段が著しく不合理でない限り合憲とする基準」「厳格な合理性の基準:自由を制限する度合が少ない他の手段では立法目的を十分達成できないときに限り合憲とする基準」がある。

他方、(ε)総論において「厳格なテスト」が妥当と判断された場合には、例えば、「漠然性ゆえに無効の法理」「過度に広汎ゆえに無効の法理」「LRA」および「明白かつ現在の危険」がある。尚、「利益衡量の基準」をも(η)に加える論者もおられる。けれども、合憲/違憲の審査基準としてそれ自体明確かつ独自の内容を持った「利益衡量の基準」なるものは、例えば、アメリカの諸判例を見ても抽出できないのではないか。ならば、現行の日本国憲法の解釈論としても「利益衡量の基準」を独立させる実益は乏しく、それはあくまでも憲法審査基準のテスト全体を貫く法的思考の一斑と解すべきである    




憲法訴訟論の構造と内容をこのように考えるとき(上記は、ほぼ判例・通説の最大公約数的認識と言っても、満更、我田引水ではないと信じますが)、今般の一連の最高裁判決の理路はどういうものとして理解できるのか? 蓋し、

(イ)当該の職務命令は、例えば、「日本を好きになれ!」と強いるものではなく、また、当該の教師の「日本や皇室に対する認識」を表白せしめるものでもない

(ロ)ならば、当該の職務命令の合憲性/違憲性の判断は、(a)合憲性判断基準のテストにおいては、(ε)「厳格なテスト」ではなく(ε)「緩やかなテスト」が行なわれることになる。而して、(b)憲法審査基準のテストに際しては(本件訴訟が、自由の制限がより広範に認められる類型に属する、謂わば「特別権力関係」の事例でもあることを鑑みるならば)、「明白性の基準」あるいは「合理性の基準」が選択採用されるべきだ

(ハ)畢竟、「職務命令が、思想・良心の自由の間接的な制約となること」と「職務命令が、思想・良心の自由を制約するがゆえに違憲であること」は全く別のことである。直截に換言すれば、「思想・良心の制約」と「思想・良心の権利の制約」とは似て非なるものであり、要は、「思想・良心の自由の制約」と「思想・良心を巡る人権の制約」は位相を異にする事柄である。

畢竟、思想・良心の制約が憲法訴訟の争点になる場面には、須らく、それらは社会的な文脈において論じられるべきもののであって、件の最高裁判決である少数意見が「思想良心の自由は個人の内面に係わるものだから、その制約の合憲性を社会的相当性の観点から見るのは妥当ではない」と述べているのは「法概念論」を看過した全くの謬論である

(二)伝習館高校事件最高裁判決(最小判・平成2年1月18日)で確定している如く、学習指導要領は「法規としての性質」を有する。よって、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」等と規定する学習指導要領に従い、公立学校という行政機関内部で適法に出された職務命令には合憲性が推定される。加之、「明白性の基準」あるいは「合理性の基準」からも当該の職務命令は妥当なものである。よって、当該職務命令に違反する行為を、社会的相当性を伴わない(個人的な)思想・良心の自由を根拠に正当化することはできない
   
(ホ)ちなみに、卒業式での当該教員の職務命令違反を理由としてその教員の退職後の再雇用を教育委員会が拒否することは、土台、「再雇用」自体が教員の権利などではありえず、加之、行政機関たる教育委員会が関連諸法規と憲法に従う限り広範な裁量権を持つことは当然である。よって、再雇用の拒否もまた憲法が保障する何らかの自由権的基本権の侵害ではない    

と、一連の最高裁判決の主張は理解できると考えます。



蓋し、繰り返しますが、朝日新聞や本件訴訟を争ったプロ市民の教師達の主張は、

「思想・良心」と「思想・良心の権利」
「思想・良心の自由の制約」と「思想・良心の人権の制約」


これらが位相を異にすること。この法理、否、世間の理/社会の常識を理解できない漫画のような主張にすぎない。と、そう私は考えます。

実は、これは、いしいひさいち氏の出世作『バイトくん』(プレイガイドジャーナル社・1977年)に出てくる場面なのですが、「赤は進め」という思想を持つ者にとっては、「赤は止まれ」と命じている道路交通法規は「思想・良心の制約」であり、あるいは、それに従わない行為を制裁をもって禁止する道路交通法規の運用は「思想・良心の自由の制約」でもありましょう。

また、「英語教育はアメリカ帝国主義のイデオロギー装置だから、うちの子には英語の授業を免除して欲しい」と言う保護者にとっては、「必修教科としての「外国語」においては、英語を履修させることを原則とする」と定める中学校学習指導要領とそれに基づく運用もまた、間違いなく「思想・良心の制約」や「思想・良心の自由の制約」でしょう。   

世間では、しかし、「赤信号は憲法違反」「英語は憲法違反」という主張を真面目な憲法論として受け取る人はそう多くはないだろう。而して、国旗・国歌を巡るプロ市民の教師や朝日新聞の主張などはこれらの論とそう大差はないのではないでしょうか。

他方、エホバの証人の信仰を持たれている家庭が、武道を履修しない権利を主張、すなわち、その子女が武道を履修しないことを要求した事例では、最高裁(最小判・平成8年3月8日)も「武道の必須科目化」は違憲ではないが、社会的に見ても合理性のある忌避理由を持つ生徒に「代替措置を認めなかった」ことは「社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違憲違法なもの」と判示しています。

畢竟、どのような思想・良心の自由が憲法の保障する人権の名に値するのか。この判断は、究極の所、社会的相当性に収斂する。而して、国旗・国歌をないがしろにするような思想・良心が、「主権国家=国民国家」の憲法秩序の中で到底容認され得ないことは当然であろう。蓋し、そのような思想を持つ論者こそ、自らが<物象化>した国旗・国歌に呪縛されていはしないか。と、そう私は考えます。







<続く>


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