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左翼にもわかる歴史学方法論☆沖縄「集団自決」を思索の縦糸にして

2010年09月14日 04時29分37秒 | 日々感じたこととか


正しい歴史の認識とは何か? 正しい歴史の記述などというものはありうるのか? もしありうるとして、それはどのような条件を備えたものなのか? これらのことについて考えてみたいと思います。 

よく、「10人の歴史家がいれば10個の歴史がある」「すべての歴史は(現代の観点から再解釈された)現代史である」という言葉を耳にしますが、歴史教科書や歴史教科書の検定を巡る争いを目にするたびに私は「正しい歴史の認識とは何か」という問いを反芻してきました。他方、所謂「従軍慰安婦」なるものの存在や、沖縄戦での住民の集団自決に関する「軍の関与」なるものを言い募る論者にとっては、紛うことなき絶対の歴史の認識の存在は毫も疑いない事実なのかもしれない。保守主義に貫かれた実存的決断を躊躇しない、しかし、価値相対主義の徒でもある、ピラトーの弟子たる私には些か羨望の念も交えつつそう思えてなりません。

けれども、新カント派からも現代哲学の主流たる現代分析哲学の立場からも「正しい歴史の記述というものがありうるのか」という問いはそう簡単なものでもない。また、それはそう自明なものでもない。このことを「唯物史観」あるいは「地球市民が世界連邦に至る歴史観」をいまだに夢想することで「正しい歴史認識」の存在を確信されているらしい、左翼や戦後民主主義を信奉する論者にもわかるように説明してみよう。それが本稿執筆の動機です。尚、「歴史」という言葉の意味、および、沖縄戦の「集団自決」なるものを歴史教科書はどう扱うべきかについては下記拙稿も併せて一読いただければ嬉しいと思います。

・定義集- 歴史
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3f3e4f0877f2ce8d9cb14493762b3f87

・歴史教科書の記述基準
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ae132324b60fa7463a644e86576604f7



◆歴史は事実そのものではない
「正しい歴史の記述はありうるか」という問いは自明ではない。第一に、歴史は事実の記述そのものではないからです。もちろん、歴史がSFや歴史に舞台を借りた大河ドラマの脚本ではない以上、歴史の記述は「歴史的事実」を踏まえたものでなければならないことは当然です。逆に言えば、歴史の記述は「歴史的事実」と矛盾することは許されない。けれども、歴史が「ありのままの事実」を記述したものなどでは到底ありえないことも確なのです。フッサールの言う「生きられてある世界=生活世界」とは「世界を再構成し解釈し理解する存在たる<私>にとってその存在が疑いようがない、不可疑の世界」というだけであって、その生活世界が間主観性を帯びることはあり得ても、それが「ありのままの事実」である保証はどこにもない。蓋し、端的に言えば、カントの「物自体」を持ち出すまでもなく、この世に「ありのままの事実」なるものなど存在しないか、それが存在するとしても人間がそれを知ることなどできはしないということです。

例えば、沖縄戦に参加したアメリカ軍と日本軍の個々の兵士の生い立ちから沖縄に来るに至った経緯、日米と支那やソ連の当時の指導部の沖縄戦を見る思いや予想。あるいは、沖縄戦の全期間の気象記録から動植物の生育の状態。また、沖縄の住民が隠れた個々の洞窟や壕やがまの衛生状態からその空間を満たしていた酸素原子や水素原子の個数に当時の星座のありよう・・・・。冗談ではなく、個別「沖縄戦」をとっても同所同時を巡っては多様で多層な事実が記述可能なのです。ならば、目の前で展開された目も眩まん限りの多様で広範な事実を文字列で描ききることなど到底不可能。それらは歴史教科書どころか歴史家のキャパシティーを越えた事柄であることは自明でしょう。

蓋し、歴史とは事実そのものではなく、歴史家の選択によって選りすぐられ再配置された事実でしかありえない。畢竟、歴史の記述の正しさなるものは事実からでなく事実を選択して再配置する歴史家のスキルの妥当性に左右される。畢竟、沖縄戦を例に取れば、「日本軍の強制があった」などという虚偽を正しい歴史の認識や記述が含んではならないことは当然としても、その正しさは事実からだけでなく事実を選択して再配置する視点の妥当性と一貫性に左右される。そう私は考えています。



◆歴史は事実ではない
次に、歴史の認識と記述は事実の記述そのものでもない。それは、例えば、「日本軍」や「強制」や「関与」、あるいは、「沖縄戦」や「帝国主義」や「大東亜戦争」等々のある特殊な意味を帯びる、すなわち、ある特殊で具体的な価値観によって意味づけられた言葉による事実なるものの切り取りであり再配置であり再編の作業なのです。

要は、(1)歴史とは「普遍」的な概念を通した特殊歴史的な個々の現象(=「個物」)の認識であり、而して、(2)そのようにして獲得された「個物」の認識による「普遍」の修正、更には、(3)より豊饒な意味を帯びた「個物」によって修正されるであろう新たなる「普遍」による「個別」の再認識。これら(1) →(2)→(3)→(1)→・・・という永久的の営みの積み重ねに他なりません。些か、説明がヘーゲル的になりました。敷衍しておきましょう。

蓋し、歴史の認識とは、(1)「日本軍の関与」という概念を通して渡嘉敷島での住民の集団自決という個々の事態を認識し、而して、(2)その渡嘉敷島における住民の集団自決に際して発揮された日本の守備隊長の高い人間性を「日本軍の関与」という概念に組み込むことで、(3)沖縄戦における日本軍の戦いの見事さを一層深く理解することである。言語と事実、普遍と個物を巡る関係の発展として歴史の認識と記述はこのように整理できると思います。畢竟、歴史とは事実ではなく事実を理解し解釈する営為の発展に他ならないのです。



◆歴史教科書における正しい歴史の記述
歴史は事実そのものではないし、歴史は特殊な価値体系の中にその本来の場を占める言葉による事実の永久的の再編作業である。ならば、歴史教科書にせよ歴史学の記述にせよ、「正しい歴史の記述」なるものは存在しうるのでしょうか。

簡単に言えば、そこでの記述の正しさは価値相対主義的な正しさしかないと私は思っています。すなわち、ある価値観や歴史観を共有するグループやコミュニティーのメンバーの中でしか歴史記述の正しさなる性質は成立しないのではないかということです。

けれども、価値相対主義とは不可知論そのものではありません。それは、自己の認識や行動の根拠には絶対の正しさは存在しないという認識を保有しながらも、現実に人間は何らかの行動を選択し認識を選び取らねばならないという人間存在の宿命を引き受ける中庸を得た成熟した大人の態度である。

蓋し、歴史認識においても歴史教科書の記述の選択においても、可能な限り事実を踏まえながらもなんらかの立場を選択する営みこそ価値相対主義の真髄と言ってよいと思います。而して、その選択と行動の指針は行動の目的に他ならず、個別、歴史教科書を含む政治的なエリアにおいてはその目的とは公共的な性格を帯びなければならないでしょう。

このように価値相対主義的態度をポジティブに捉えるとき、私は、究極の所、歴史記述には絶対的な正しさなどは存在しないという主張を否定しませんが、しかし、こと歴史教科書の記述に関しては充分に「正しさの基準」は成立すると考えています。何においても歴史が不可知であるからといって教科書の該当箇所を「墨塗り」ならぬ「空白」で済ますことなどできないでしょう。而して、私の考える「正しさの基準」は以下の3点に収束します。

(甲)より論理的に優れたイデオロギーの採用
(乙)より事実と整合的なイデオロギーの採用
(丙)教科書の目的により適ったイデオロギーの採用


唯物史観、廣松渉さん流に言えば、「戦前の日本を外に対しては邪悪、内においては暗黒の世界」と描くコミンテルン的で講座派的な歴史観の論理的な基盤は、例えば、歴史に発展法則を見出そうとする試みを粉砕したカール・ポパー『歴史主義の貧困』によって否定された。ならば、現在、歴史の教科書に戦前戦中の日本のあり方を「当然否定されるべきもの」との認識で描くことには何の根拠も存在しないということ。よって、いまだにそう書きたい論者は唯物史観以外の根拠を提示することが求められる。而して、このチェックポイントが「より論理的に優れたイデオロギーの採用」ということです。

例えば、沖縄戦を巡っては、戦艦大和の戦艦特攻を含め考えられうる限り最高度の努力を日本は尽しました。ならば、沖縄戦の最終場面で軍民を巻き込んだ集団自決を「日本軍の強制」などの虚偽はもちろん、「日本軍の関与」なる文学的言辞で記すことは(住民の自発的な自決や他ならぬアメリカ軍の攻撃を捨象して「日本軍の関与」のみにアクセントを置いて記すことは)歴史の正しい認識ではありえないし、それはより正しい歴史認識から読者の注意を逸らす誤りと言うべきでしょう。これが、私のいう「より事実と整合的なイデオロギーの採用」というチェックポイントです。

最後のチェックポイントは「教科書の目的により適ったイデオロギーの採用」です。簡単な話です。小学・中学・高校の歴史教科書の内容など歴史学の先端的な知識でもないし、また、歴史教科書の記述がどう変わろうが歴史学の最先端の知識が左右されることなどありえない。

而して、歴史教科書に期待される内容とは、次世代を担う日本国民と定住外国人たる日本市民に自分がそのメンバーであるこの社会の来し方の流れをトータルで理解してもらうことに尽きると思います。少なくと、この皇孫統べる豊葦原之瑞穂國のメンバーたる自分のアイデンティティーとプライドを涵養することは日本の歴史教科書の主な目的でないはずがない。

この目的は「近代主権国家」「国民国家」「皇孫統べる豊葦原之瑞穂國」という<政治的神話>を根拠にこの国土に統一的な憲法秩序を打ちたて社会の安寧秩序を維持している現在の日本国という公共性と極めて整合的である。畢竟、地球市民なるものや国際社会などという実体を欠いた共同体を国家秩序に置き換えようとする戦後民主主義の社会思想や、(現在の皇室を中心とする日本社会の秩序を敵視する点では)それと表裏一体を成す「コミンテルン的-講座派的」な歴史観という、恣意的かつ個人的な歴史教科書記述の指針や目的に比べても遥かにその公共性は多くの国民と市民の賛同を得る可能性が高いものではないでしょうか。

これらの観点を踏まえるとき、沖縄の集団自決への「軍の関与」などは教科書のボリュームを鑑みた場合にも掲載に値するような内容ではないだろう。また、それを記述する場合にも日本全体で沖縄を巡って戦った日本国民の営為の一貫として述べられるべきである。私はそう考えています。

尚、私の思索の基盤である保守主義、および、その<基盤の基盤>たる<伝統>というものについての私の現在の理解については下記拙稿をご参照いただければありがたいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3





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