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相撲界と反社会的勢力との間の<友誼関係>は問題か?

2010年07月26日 17時08分16秒 | 日々感じたこととか


2010年の名古屋場所が終わりました。結果はご存知の通り、横綱・白鵬の三場所連続の全勝優勝。而して、今場所は、①少なくない力士・親方等々が野球賭博に係わっていた、あるいは、②TV中継の際にほとんど必ず映る土俵すぐ傍の維持員席(溜まり席)で組関係者が相撲を観戦していた、その他、③組関係者からある相撲部屋が宿舎の確保につき便宜を図ってもらっていた等々、所謂「反社会的勢力」なるものと相撲界との不適切な関係が暴露された直後でもあり、当初はその開催さえ危ぶまれていたことを考えればまずはよかったと言うべきなの、鴨。

相撲界に反省と体質改善を迫るマスコミ報道と世論の盛り上がりを目にして、しかし、私は、「反社会的勢力」と相撲界との関係の存在がそう問題にされるようなことなのかと些か疑問に感じています。任侠系組織の関係者は相撲も観戦できないのか、彼等は自分の馴染みの部屋で朝稽古を見学するなど論外、まして、同郷の贔屓力士とその付き人に馳走するなどは問題外の外とでも言うのか、と。


◆相撲界と反社会的勢力との間の<友誼>の何が問題か
もちろん、賭博罪(刑法185条)、否、一部の力士・親方に関しては常習賭博罪(刑法186条)に該当する可能性もある①「野球賭博」の件は弁解の余地はない。まして、憲法学に所謂「部分社会の法理」(独立性の高い組織は解雇・除名を含むその構成メンバーの処罰に関して相対的に広い裁量権を持っているという考え方)を前提にすれば、今回日本相撲協会が野球賭博に関係した相撲関係者をあるいは解雇しあるいは強制休場処分にしたこともなんら問題はないと思います。

けれど、「南海の黒豹=松ヶ根親方」が③「組関係者から大阪場所の宿舎の確保につき便宜を図ってもらっていた件」は(たとえ、その便宜供与が贈与と看做されて松ヶ根部屋の会計処理の如何によっては今後脱税を指摘されるとしても)、私人間の法律行為であり、便宜供与の相手が巷間で報じられているように菱と関係が深い人物であろうが、その法律行為自体は他人からとやかく言われる筋合いのものではないのではないか。まして況や「任侠系や神農系の組織の構成員や関係者には相撲観戦の権利がない」と言わんばかりの、②「維持員席(溜まり席)で組関係者が相撲を観戦していたこと」を問題視する世論とマスメディアの報道姿勢には私は同調できかねるのです。否、このロジックは「自由を平等に国民に保障している現行憲法違反」であろうとさえ思います。

私は、実際に(日本体育協会のある幹部の方のコネとある相撲部屋の後援会幹部の方のコネで)郷里の父母とアメリカでお世話になった恩師ご夫妻を維持員席に招待したことがありますが、確かに国技館のチケット売り場やチケットぴあではそれは入手できないとしても「維持員席」が通常の升席と同様に「維持会員」でなくとも私の様な一般人が入手可能な現状を鑑みるに、「維持員席は本来は維持会員のみが観戦可能な席」等という現在全く守られていない建て前を持ち出して任侠系組織メンバーの相撲観戦批判を紡ぎだすロジックは憲法論的にも論理的にも破綻していると言うべきではないでしょうか。

蓋し、現在服役中の菱の六代目組長に、六代目の出身母体である名古屋の組関係者が激励と忠勤を励むべくTV中継の際にほとんど必ず映る維持員席で相撲を観戦していたことは「殊勲賞」とか「敢闘賞」は無理でも、少なくとも、「技能賞」、すなわち「努力賞」や「アイデア賞」には値するのではないか。別に、服役中の六代目がこの件に関して刑務所中で不正行為をしたわけでもなく、また、維持員席で観戦していた組幹部が観戦中やその前後に違法行為や迷惑行為をしたわけでもない以上、②「維持員席で組関係者が相撲を観戦していたこと」は、擬似家族組織の原理たる任侠道の観点からも、与えられた条件下で問題解決のソリューションを考案し実行する営みであるビジネスの観点からもそれは褒められこそすれ世間から後ろ指を指される筋合いは一切ないと私は考えます。


◆任侠系組織の法哲学
ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べています。分析哲学と新カント派の哲学を基盤とする私は概念実在論の誤謬に立脚しているヘーゲルにはかなり批判的なのですが、ヘーゲルのこの言葉を、(A)現実に存在しているものにはその「存在理由=社会的・歴史的な特定の機能」がある、(B)現実に存在しているものは他のすべての物事や事柄との間にある社会的と歴史的に特殊な連関性を帯びているという意味に<意訳>すれば満更間違いではないと考えます。

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である


而して、菱の中興の祖、田岡三代目が尊敬してやまなかったかの幡随院長兵衛(1622-1657)以来、例えば、清水次郎長(1820-1893)や黒駒の勝蔵(1832-1871)から21世紀の現在に至るまで任侠系と神農系を問わず「反社会的勢力」が存在しているということの根底には、(幾多の政治体制の変化と数次に亘る生態学的社会構造の変遷を貫いて)それら組の組織には、(A)それなりの「存在理由=社会的・歴史的な特定の機能」があり、また、(B)合法的な他の組織や個人との間に社会的と歴史的にある特殊な連関性が備わっているのだと思います。より一般的な社会と法のあり方に引きつけて敷衍すれば、蓋し、

(甲)人間社会には法の回路以外で行なわれる紛争解決のシステムが不可避である
(乙)日本では法の回路を通さない紛争解決のシステムを専ら任侠系組織が担ってきた
(丙)任侠系組織のあり方やその紛争解決のやり方は、グローバル化の昂進にともない今後惹起するだろう日本社会の生態学的社会構造の変遷にともない変化することは十分にあり得るが、その場合でも任侠系組織が(甲)の紛争解決のシステムを担うのである限り任侠系組織がなくなることはあり得ない


何が言いたいのか。ヤクザ映画の見過ぎで「菱称賛」とまで受け取る読者はそう多くないでしょうが、要は、「暴力団=必要悪」論を展開しているのか。否です。もちろん、神戸大震災の時の(正確には「阪神淡路村山首相大虐殺」時の)渡辺五代目のリーダーシップによる被災住民へのケアの見事さを想起すれば、実兄一家が神戸で被災した私としては菱に対して何かしら親しみの感情を覚えないと言えば嘘になりますが、それとこれとは話は別。

蓋し、任侠系組織が(α)暴力を辞さない犯罪行為を手段とする法の回路以外での紛争処理に係わる存在であり、(β)その紛争処理行為が犯罪行為の組織的運用を特徴としている限り、(γ)任侠系組織が「反社会的勢力」とカテゴライズされ、その犯罪行為に対しては(当該の犯罪行為の組織性と当該の実行行為者の確信犯性、すなわち、論理的に高い累犯性に着目して)一般の個人の犯罪行為に比べて厳罰でもってこの社会が臨むのは当然であろうと思います。例えば、現在服役中の菱の司六代目の容疑は「菱の幹部会に出席するために宿泊したホテルで配下の組員が拳銃を所持していたこと=拳銃所持の共謀(銃刀法違反)容疑」であり、最高裁まで争い懲役6年が確定したもの。しかし、これが一般の個人の事件であれば重くて懲役1年程度、あるいは、無罪が確定しても満更おかしくない事例だったのです(実際、同じホテルでの幹部会に出席していて起訴されたある菱の有力幹部には二審でも無罪判決が出され、そして、六代目自身も一審は無罪だったのですから)。

畢竟、(極々一部の「ゴロマキ=喧嘩」のスペシャリストを除いて)プロレスラーや力士、または、軍隊の特殊部隊経験者に比べれば組関係者といえども暴力の行使に関しては<素人>にすぎません。ならば、彼等任侠系の組関係者がそれら本当の意味での戦闘のスペシャリストよりもむしろ世間で恐れられているのはなぜか。蓋し、それは彼等が(α)犯罪行為を辞さない、すなわち、刑務所に入るのを覚悟しており、(β)個人的な恨みやしがらみとは無縁の所で犯罪を組織的に犯すこと(要は、誰かの代わりに犯罪を犯して刑務所に入ること)を躊躇しないという建て前だからでしょう。もっとも、ある組にとって一人の組員を懲役に送り出すことは、①そうでなければその間、彼なり彼女なりが「シノギして=稼いで」くれたであろう上納金がゼロになるのに加えて、また、②出所後の彼なり彼女なりの処遇(昇進)の手配の負担に加えて、③裁判費用・被害者への補償・刑務所への差し入れ、そして、④彼なり彼女なりの家族の生活の保証等々極めて大きな負担なのであり、コストパフォーマンスを考えれば犯罪行為は任侠系組織といえどもそうそう安直に使える手段ではないのですけれども。閑話休題。

而して、現在の刑法と刑法学は「自己の行為の結果を予測可能」であり「自己の行いの反社会性と反倫理性を認識可能」であり、そして、「刑罰を通して自己の行為を反省可能」な理性的な個人を想定している近代主義的なものです。加えて、現行憲法の人身の自由の諸規定もまたこのような「モダンな個人観=理性的で独立した一人の行為主体」を前提にした「責任主義」に貫かれていると考えられる。ならば、繰り返しになりますけれども、任侠系組織が、(α)「犯罪を躊躇しない」、(β)「組織的犯罪主体」であることを鑑みれば、(γ)任侠系組織のメンバーの犯した犯罪行為に対する厳罰化と任侠系組織に対する社会防衛措置は憲法論的にも正当化可能ではないかと思います。


◆結語
蓋し、任侠系組織が、その「存在理由=本質的機能」および「他のすべての非任侠系組織や個人との間で取り結んでいる連関性」に根ざした「法以外の回路を通しての紛争処理≒犯罪行為」を行う場面で、それが社会から厳しく糾弾され、あるいは、その犯罪行為が予防されることには問題はない。

しかし、その「厳しさ」の根拠は、(イ)任侠系組織の犯罪の組織性、(ロ)任侠系組織メンバーの論理的な累犯性の高さに収斂するのであり、この(イ)(ロ)から演繹されない厳罰化や予防措置は(まして、平穏に相撲を観戦した等の合法的な行為をも禁止可能とするが如き現下の事態は)明らかに基本的人権の過剰な制約であり現行憲法に違反する、あるいは、(それが公権力の行使と呼べない場合には)所謂「憲法の私人間適用の原理」に沿って相撲協会とマスメディアの現下の対応は民法1条の一般条項違反(公共の福祉の侵害・信義則違反・権利の濫用の禁止違反)として不法行為(民法709条)を構成すると言うべきではないでしょうか。

そうあればこそ、今次の相撲界を巡る事態では(任侠系組織といえども合法的な行為を批判することなどできるはずもなく)財団法人として文部科学省に生殺与奪の権を握られている、弱い立場の日本相撲協会が攻撃の矢面に立たされているの、鴨。

畢竟、それが合法的な振る舞いをしている限り任侠系組織と相撲界が友誼を温めることにはなんら問題はない。むしろ、(イ)組織犯罪性、(ロ)実行行為者の確信犯的な高い累犯性、そして、(ハ)日本社会への甚大・広範かつ継続的な悪影響という諸点を鑑みれば、例えば、日教組や自治労の方が任侠系組織よりも数千倍とは言わないけれど少なくとも数百倍は有害な「反社会的勢力」ではないか。ならば、北教組の違法献金や公務員の違法な選挙活動等々、日教組や自治労の違法行為に対する厳罰化と犯罪の予防措置こそ断行すべきである。と、そう私は考えています。


・公務員労組と公務員の政治活動を巡る憲法論
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f77b0e3fa752300d8364b239d0058c4d

 



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