怒りのメゾフォルテ

娘を奪われました。二度と帰ってきません。奪った人たちの対応に怒りが募ります。

10月18日  真の心のケア 1

2012-10-18 08:05:05 | 学校に対して
事故状況なんてどうでもよかった・・




2010年6/18事故が起き、一人の命が亡くなっているというのに、遺族の私達には何の事故状況の報告もなく、
連日連夜自己満足のように、予告無しに弔問といって押し掛ける水野章南中校長 

遺族の方から事故の状況を訊くと、返ってきた報告は、水野校長が警察の調書で語った自分勝手なメモを、
それを聞く遺族の感情など無視して、淡々と読み上げるものだった。


一通り読み上げられた後、

 「 娘がこの中学にどのように 殺されていったか よくわかりました。 」 

と、私は初めて <学校に殺された> という言葉を口に出し、その言葉の重さから1ヶ月続いた水野校長の弔問の応対を主人一人に任せ、二度と応じなかった。


そしてその日の夜の就寝時、初めて布団の中で泣きながら、主人に訴えた。

 「  あんな事をした水野を許さへん!!! ひど過ぎるやんか! (三重弁) 」 


事故で冷たくなった娘と対面した夜のビジネスホテルでも、決して泣き崩れることをしなかった私が、のどの奥に襲ってくる嗚咽を必死で呑み込んだ私が、その晩初めて弱音を出さない主人の前ではち切れた。 


翌日、より正確な事故の状況を教えてくれるよう、所轄の細江署の刑事部長(今は退職)に電話した私。


そして2010年7/16 19時我が家に初めて担当の刑事が報告に来た。

浜松の細江署から豊橋の我が家まで片道1時間はかかるというのに、1分もずれることなく来てくれた若い刑事に、
驚くと同時に、 遺族を重視してくれている 事をひしひしと感じた。


その刑事を前にし、私は、そして主人も同じ気持ちだったと思うが、


事故状況なんてどうでもよかった・・




親として、12年間大事に娘を育ててきた親として、知りたかったのは、

       娘が苦しまなかったか・・・     ただそれだけだった・・・



前の部署で検死を担当していたという刑事の応えは的確だった。

娘は転覆後早くに絶命しており、苦しんだ死体の臓器はかなりのダメージを受けているが、

                    娘の臓器は綺麗だったと・・・ 


それを聞けただけで、充分だった。                 

                ←母の日にもらった「輝いているお母さん」




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