産経新聞(H22.8.11)に、なるほどと思える記事が載っていたので、ご了解を得て、引用しました。
Signal ゆとり教育は初等教育の破壊
高原朗子 熊本大学准教授
教育の目的は大別すれば知能の啓発と人格形成に尽きる。前者は後者の土台。後者は前者の牽引車であって、両者は不可分の関係にある。
教育は心理学の側面から①取り入れ学習を行う②思考力を育てる③目的意識を持ち自己啓発的知的作業を行うーという三段階に分けられ、それぞれ初等教育前半、初等教育後半以降、高等教育に相当する。この段階は、さまざまな芸事での、まずは師の教えを忠実に守り、型を習得して、徐々に工夫して自分らしい技を打ち立てるという流れと似ている。
第一段階は従順に素直に学習することが最大の効果を生む。「言葉」「知識」「理数」(九九など)を憶え頭に入れるなど基礎、基本をたたき込む時期である。これは単に憶えるということのみで終わるものではない。このことは同時に一定の場所、時間で、精神活動を続けるということを強いられることである。
これにより注意を集中し、耐え、続けなければならないという意思と自己統制などの諸精神力が必然的に涵養される。これらがそろっていないと次の段階の「抽象」「綜合」「判断」「理解」などの思考能力を培うことはできない。なによりもこれらの精神活動のドリルを繰り返す(精神的演練・鍛錬を重ねる)ことは、人格発達のための酸素、栄養分とでもいうべきものを注入、補給していくことになる。
第一段階は知的能力醸成のためのにならず全人格形成の土台の時期である。この土台はしっかりした枠組みで形成されなければならず、この枠組みが硬ければ土台は崩れない。
第一段階で身につく忍耐、自己統制、注意の集中・維持などは「管理」によって養成できる。
「管理」という言葉が嫌いな人には「訓練・演練」、あるいは「教え込み・反復学習」と言い換えても、人格形成の色彩の強い言い方では「躾」とか「訓育」とか言ってもよい。
「ならぬことはならぬ」と教え込むことが肝要である。これらは「子供の自発性が第一」、「子供と教師は対等」だからあまり教えないといった、一見人間的なようで実は無責任な教育者の関わりとは対極にある。すなわち人間教育の初期の段階では厳しく管理して鍛錬し、異を唱えさせず、従順に取り入れ学習させることこそが、その後の人間的発達を保障する最良の方法である。
ゆとり教育は、学びの第一段階を軽視し、最終段階で」の効果のみを無意識のうちに強調したがゆえに目的通りの成果を生まなかったと思われる。みしろ、教育の質の低下を構造的に生み出し、教師にゆとりの時間を与えただけの話である。教師は教え子が学校ではなく学習塾に通って熱心に勉強することをわが恥と思わねばならない。自分の病院の入院患者が夜は他の診療所で治療を受けるのを恥と思わない医者はいないだろう。
ゆとり教育は、管理すべき手を抜いて子供には自由な時間を与えただけの話である。
「詰め込み教育」と「ゆとりがない」ということを大人たちの感覚で子供も同じだと思ったことから過誤が生じた。しかし、それは違う。子供にとって精神を集中すれば詰め込みは詰め込みではなくなる。時間的余裕の無さはプライベートな時間をテレビなどに費やしているからである。詰め込みだからといって学校の授業時間を減らすというのは本末転倒であり、教職員(公務員)福祉といわれても仕方あるまい。
Signal ゆとり教育は初等教育の破壊
高原朗子 熊本大学准教授
教育の目的は大別すれば知能の啓発と人格形成に尽きる。前者は後者の土台。後者は前者の牽引車であって、両者は不可分の関係にある。
教育は心理学の側面から①取り入れ学習を行う②思考力を育てる③目的意識を持ち自己啓発的知的作業を行うーという三段階に分けられ、それぞれ初等教育前半、初等教育後半以降、高等教育に相当する。この段階は、さまざまな芸事での、まずは師の教えを忠実に守り、型を習得して、徐々に工夫して自分らしい技を打ち立てるという流れと似ている。
第一段階は従順に素直に学習することが最大の効果を生む。「言葉」「知識」「理数」(九九など)を憶え頭に入れるなど基礎、基本をたたき込む時期である。これは単に憶えるということのみで終わるものではない。このことは同時に一定の場所、時間で、精神活動を続けるということを強いられることである。
これにより注意を集中し、耐え、続けなければならないという意思と自己統制などの諸精神力が必然的に涵養される。これらがそろっていないと次の段階の「抽象」「綜合」「判断」「理解」などの思考能力を培うことはできない。なによりもこれらの精神活動のドリルを繰り返す(精神的演練・鍛錬を重ねる)ことは、人格発達のための酸素、栄養分とでもいうべきものを注入、補給していくことになる。
第一段階は知的能力醸成のためのにならず全人格形成の土台の時期である。この土台はしっかりした枠組みで形成されなければならず、この枠組みが硬ければ土台は崩れない。
第一段階で身につく忍耐、自己統制、注意の集中・維持などは「管理」によって養成できる。
「管理」という言葉が嫌いな人には「訓練・演練」、あるいは「教え込み・反復学習」と言い換えても、人格形成の色彩の強い言い方では「躾」とか「訓育」とか言ってもよい。
「ならぬことはならぬ」と教え込むことが肝要である。これらは「子供の自発性が第一」、「子供と教師は対等」だからあまり教えないといった、一見人間的なようで実は無責任な教育者の関わりとは対極にある。すなわち人間教育の初期の段階では厳しく管理して鍛錬し、異を唱えさせず、従順に取り入れ学習させることこそが、その後の人間的発達を保障する最良の方法である。
ゆとり教育は、学びの第一段階を軽視し、最終段階で」の効果のみを無意識のうちに強調したがゆえに目的通りの成果を生まなかったと思われる。みしろ、教育の質の低下を構造的に生み出し、教師にゆとりの時間を与えただけの話である。教師は教え子が学校ではなく学習塾に通って熱心に勉強することをわが恥と思わねばならない。自分の病院の入院患者が夜は他の診療所で治療を受けるのを恥と思わない医者はいないだろう。
ゆとり教育は、管理すべき手を抜いて子供には自由な時間を与えただけの話である。
「詰め込み教育」と「ゆとりがない」ということを大人たちの感覚で子供も同じだと思ったことから過誤が生じた。しかし、それは違う。子供にとって精神を集中すれば詰め込みは詰め込みではなくなる。時間的余裕の無さはプライベートな時間をテレビなどに費やしているからである。詰め込みだからといって学校の授業時間を減らすというのは本末転倒であり、教職員(公務員)福祉といわれても仕方あるまい。