私のあるクラスにNさんという大学生が入ってきました。大学で日本語を勉強しているということです。ですから、そこそこ話せるのですが、『ない形』を言うとき、「ねい」と発音するのです。私が「ない」と直しても「ねい、ねい」と言います。クラスの他の学生たちはちゃんと「ない」と言っていますから、ベトナム人が「ない」と言えないというわけではないのです。私はふと、あることに気づきました。そこで、Nさんに「ない」と言 . . . 本文を読む
こちらv-603.
他動詞を使った、 見よう とか 始めよう とかの表現を、意向形といいますが、これを使った授業での風景です。
このクラスは、viet さんのお土産の アサヒビールのクラスです。
Tさん(男) と Pさん(女)のペアーです。二人とも24,5さいです。そしてどちらかというと 二人ともおとなしい性格で、ペアワークで練習している間も、他のペアーの声にかき消されるような小さな声で話していま . . . 本文を読む
たてつづけに、ベトナムで教えていた学生(もちろん社会人)が2人、日本へ仕事でやってきた。
しかも、寒い2月に・・・。
一人は横浜、一人は名古屋。
風邪もひかずに、2人とも春を迎えられそうだ。
それにしても、人の運というのは分からない。
私が接した50人あまりの学生たちの中で、どう考えても日本に来そうもなかったビンさんが、今、名古屋のオフィスにいる。これから先3年ぐらい日本で仕事をするそうだ。 . . . 本文を読む
Sensei 3kyuu goukakushimashita.
メールが入ってきます。
日本語能力試験が行われたのは、去年の(たしか)12月3日でしたからもう3ヶ月も経ちます。
いくら海外だからといって、3ヶ月というのは長すぎるんじゃないでしょうか。
しかも、日本が得意とするマークシート方式の答案採点方式ですから、もっと早く結果を出せなかったものでしょうか。
・・・と思うのは日本人の . . . 本文を読む
今年のテトは2月17日でしょうか、18日でしょうか?
先週は学生たちからのメールがたくさん届きました。
そのメールを読んでいると、テトが間近にやってきて、そわそわしている様子が手に取るようです。でも、新年がいつから始まるのかがわかりません。
私がHCMにいたときもそうでしたが、「今年のテトはいつ?」と聞いても、学生によってテトが何月何日なのかが違うのです。
私たち日本人は大晦日とお正月をはっきり分 . . . 本文を読む
ベトナム・HCM市での一年間の日本語教師の職務中、あるいは帰国後のゆったりとした時間の中で、疑問に思ったり、こうしたほうがいいんじゃないかと提案したかったりした事案を、タイムリーに、かつ、要領よくまとめた資料(レポート)をみつけました。
このレポートは一橋大学の留学生センターの西谷先生という方が書かれたものです。
海外で働く日本語教師にとって、環境面で何が不足しているのか、日本での教師やボランティ . . . 本文を読む
新年の新聞に韓国のソウルで日本語教師をしている29歳のSさんのことがのっていました。
午前6時40分から午後9時まで働く。
一日6コマをこなす。
家賃3万円。月収18万円。
韓国に来て1年9ヶ月。
記事からわかる情報はこれだけでした。
私の想像では、ひとコマが1時間で午前中は6:40から10:40まで、午後は5:00から9:00までというところでしょうか。
家賃3万円のアパートというのはかなり安い . . . 本文を読む
日本語教育史の中で、『芝山巌事件』という1896年に日本占領下の台湾で起きた抗日事件は、殺された日本人教師が神にまで祀り上げられたこともふくめて、よく知られています。
この事件では、そこにいた日本語教師6人全員が殺害されるのですが、『侵略者の言語』を強制的に使わせようとすることの愚挙を私たちに語っています。
私がサイゴンで教えた日本語学校は、日本政府の掌握するところではありませんから、こんなことを . . . 本文を読む
昨年の11月から、このブログを使って、サイゴンでの日本語教師の戸惑いの記録を読んでいただきました。
「一年なんて、あっという間だったでしょう」ときかれますが、決してそうではなく、一日一日が一目一目を縦と横に編みこんでいくような日々の連続でした。
赴任した当初は、『どうやって生活していくか』ということにエネルギーが費やされました。
つまり、何を食い、何を飲み、どこで洗濯をし、どうやって寝るか、割れた . . . 本文を読む
日本語教師の仕事から離れて20日が過ぎました。
そのうちの10日間はベトナムにいました。
そのベトナムでの最後の10日間。
日本語教師としての日課がなくなって、張り詰めていたものも消え、気力が萎え、当初は虚ろな2,3日を過ごしているという状況でした。エネルギーを出し切ったというか、その時は日本へ帰るのもおっくうなくらいでした。飯を食うのも面倒で、安宿の狭い空間で街の騒音をぼんやり聞きながら、真夏の . . . 本文を読む