神が宿るところ

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駿河国の古代東海道(その3・日本坂峠)

2011-04-26 22:35:04 | 古道
日本坂峠(にほんざかとうげ)。
場所:静岡県焼津市花沢と静岡市駿河区小坂の境の峠。「花沢の里」駐車場から「高草山 法華寺」を経由して約2km歩く。「法華寺」までは舗装された道だが、「法華寺」からは狭い山道。
「法華寺」入口近くに石の道標があり(写真1)、「右 日本坂ふちう道 左 うつのや地蔵道」と刻されている。この道標は元禄15年(1702年)のものだが、「法華寺」前から左右に分かれて、右は日本坂峠を越えて府中(現・静岡市)へ、左は宇津ノ谷の「慶龍寺」(延命地蔵尊を祀る。)への道を示す。古代東海道は日本坂峠を越えるルートで、登坂角25~30度という狭い急坂だが、標高は302mとさしたる高さではなく、「法華寺」までにもかなり登って来ているので、「法華寺」からは案外すぐに越えられる。矢田勝氏(「駿河国中西部における古代東海道」)によれば、馬でも問題なく通過できたとされる。
峠の頂上に「穴地蔵」と呼ばれる石の地蔵が祀られている(写真3)。「穴地蔵」を覆う石組みを「人穴(ヒトアナ)」というが、これは横穴式石室の羨道らしい。「人穴」というのは、日本武尊がこの峠を越えるときに隠れた穴だ、という伝承による。また、「日本坂」という名も、日本武尊がこの峠を越えたことに因むという。なお、宇津ノ谷「慶龍寺」の延命地蔵尊は、元はこの峠にあったものを移したともいわれている。つまり、東海道のメインルートが日本坂峠越えから宇津ノ谷峠越えに変わっていく中で、旅人の安全を守る地蔵尊も移された、ということになるのだろう。
伝説によれば、「日本坂峠」の地蔵の前で、花沢の子供と小坂の子供が喧嘩をして、小坂の子が地蔵を坂から転がり落とした。すると、その晩にその子は死んでしまったので、慌てて地蔵を元に戻した、という。 
(参考文献「焼津市史 民俗編」(平成19年7月))


写真1:「法華寺」入口近くにある道標


写真2:峠の分かれ道の案内板


写真3:穴地蔵


写真4:静岡市小坂側から日本坂峠方面を見る。
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49 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ミシャグジさま)
2020-04-06 14:01:53
法華寺から日本坂峠に登る山道は峠に近く成る程急峻にて鋭角のジグザグが18箇所程度あり私を含め地元の人も馬が荷物を乗せ人間でさえ大変な峠を馬超えをするのは無理との意見が大多数です(疑問であれば一度登って見て感想を投稿して頂きたく)。馬の使える道の新案としては小川駅~坂本(小字札の辻)~笛吹段(古墳有り)~東照寺(現在廃寺で法華寺の奥の院と云われている)~鞍掛け峠(馬の鞍を枝に掛け休ませた場所)~日本坂峠~小坂が考えられそうであるので調査中です。
Unknown (ブログ管理人)
2020-04-06 18:47:56
ミシャグジさま
コメントありがとうございます。訳あって、なかなか再訪は難しいのですが、確かこの記事を書いたときに、焼津市のHPでみたハイキングコースに沿って実際に峠越えをしました。記事にあるように、急で狭い山道だったと思います。馬が越えられるかどうかはわかりません。ただ、道標にあるように、府中(駿府)に行く道として使われていたことは明らかと思います。古代官道は軍事道路で、歩兵が通れることが第一だったかもしれません。
古代で道路を直線的に造ることを重視し、現実に道があれば、それを第一に考えるのかなぁ、と思います。それでも、キツイ道だったので、宇津ノ谷ルートが開かれたのだろうと思います(あるいは、馬の場合の迂回路として最初からあったのか?)。
より良いルートが見つかりましたら、是非ご教示ください。

Unknown (Unknown)
2020-04-06 22:42:24
歩兵のみであれば確かに登山が可能ですが坂上田村麻呂の東征、平将門の乱制圧等の派兵があれば馬は使われたと思います。 ハイキングコ-ス図でも確認出来ますが日本坂峠にはご指摘の様に法華寺近くの道標より登る方法と鞍掛峠経由により日本坂峠に至る方法があります、私の考えでは前者の既成概念が一人歩きしている様に思います。 鞍掛峠の語源その他により後者に希望を持つています。
Unknown (ブログ管理人)
2020-04-07 18:51:36
ミシャグジさま、ありがとうございます。
山陽道の例でいきますと、丘くらいであれば切通しを造ってでも直線にしていることがありますが、険しい山があると、どうしていたのか実はよくわかりません。結局は発掘調査によるしかないのでしょうが、あるいは、時代的な変遷や、本道、迂回路などもあったのかもしれません。ひょっとすると、どこかで海路を採ったかもしれません。今後、発掘調査などでびっくりするような結果が出るかもしれませんね。
Unknown (ミシャグジさま)
2020-04-08 18:16:00
家近くに志太郡ガあり天平7年(735年)の荷札が出土していますのでそれ以前に宇津谷峠の古代東海道は開通していたと推察されます。手越に至る前の手児の呼坂もまた馬には厳しく感じます。 さて日本坂峠ルートの代替えに海路を使うとなると坂上田村麻呂の軍等は十万人とも云われていますので舟が何回往復したら良いでしょうか。 明治22年発行の国土地理院の地図には虚空蔵山の海側を除き大崩海岸に沿って静浜街道が造成されているので海が静な時は古代にても海岸が使用可能かと思われます。 以上はご参考です
Unknown (ブログ管理人)
2020-04-08 18:30:41
ミシャグジさま
ご丁寧な御教示ありがとうございます。
海路の方は、まあ、メインでは無いと思います。輸送力は大きくても、波が荒れれば使えなくなるので、極力、海路のみにはしなかったと思います。古代官道のルートは唯一と思われていますが、複数あったのかもしれません。それと、田村麻呂将軍が駿河国以西から10万人の兵を率いていたかは再検討の余地があると思います。
Unknown (ミシャグジさま)
2020-04-09 00:04:32
ご教授などと云われますと穴があったら入り込みたい思いです。 
兵士10万人の件はインターネットからの、にわか情報ですので責任の持てる数字ではないのですが話し半分としても昔としてはカナリの数ではないかなあと思います。
広範囲の歴史的なブログの内容で楽しく読まさせていただいています、申し遅れましたがありがとうございます。 また何か関連情報等ありましたらお届けさせて下さい。
Unknown (ミシャグジさま)
2020-04-09 00:10:41
ご教授などと云われますと穴があったら入り込みたい思いです。 
兵士10万人の件はインターネットからの、にわか情報ですので責任の持てる数字ではないのですが話し半分としても昔としてはカナリの数ではないかなあと思います。
広範囲の歴史的なブログの内容で楽しく読まさせていただいています、申し遅れましたがありがとうございます。 また何か関連情報等ありましたらお届けさせて下さい。
Unknown (ミシャグジさま)
2020-04-09 09:45:25
再三お世話になり、また昨日は操作間違いで申し訳ありませんでした。もう一つ忘れましたので下記に付け足ささせて頂き度く宜しくお願い致します。
藤枝市史上巻(昭和46年11月3日発行)173頁に古代東海道に付いて→〜大崩の浜辺伝いに〜大和田の浦に出て〜手越の浦を経て横田駅に通じていた。又一つは小川駅から坂本を経て日本坂を超え小坂村に下り大和田浦を過ぎて横田駅に通じたとも考えられる。   以上です
Unknown (ブログ管理人)
2020-04-09 19:49:41
ミシャグジさま、ありがとうございます。
蛇足ですが、田村麻呂将軍自身は身長180cm近い大柄な偉丈夫だったと言われていますが、戦闘よりも降伏を促すといった、知略家の性格が強かったようです。
また、兵士10万人の件ですが、征夷の兵士は基本的に東国、即ち、駿河国以東の関東地方(坂東)から徴用されたので、駿河国(以西)からだけで10万人集めたわけではないと思います。主力は武蔵、上野、下野、常陸、下総といったところだと思います。
それにしても、古代官道探しは結構ハマりますね。これからもよろしくお願いいたします。

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