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■敗戦75周年の夏

2020-08-13 | ●昭和の敗戦

■■■■■■■■■歴史の足跡を探る■■■■■■■■■

戦後75年の世界]
1989年、米ソの冷戦から、早くも31年がたつ。
「イデオロギィ―対立の時代」が終わり、 恒久平和への期待が持たれたが、
米国の影響力の低下や、中国の覇権志向によって、21世紀の
世界勢力の図
式は、当初の予測に反して権力分散の時代に突入す
る事になった。
相次ぐグローバル化が、格差の要因になる一方で 大国のナショナリズムの
台頭によって、国際貿易や金融の秩序が崩れるという 厳しい
局面に遭遇し
ている。

その最たるものが、英国のEU 欧州連合からの離脱である。トランプ大
統領の排外的なアメリカファーストの姿勢もこれに通
じる。
人や物の自由な交流は,国際協働の望ましい形だが、そ
れを取り仕切るG7
や、新興国を交えた拡大的な国際組織G20は、米
中2大国の覇権を賭け
た経済戦争の確執が渦巻く中で、いまや形骸
化しつつある。

                         (OSAKA・G20)
そんな隙間を狙って、異端の小国北朝鮮やイランが、独自の動きを見せ
る。
本来、世界の無法な動きを高所から監視すべき世界の共同組織 国連
が、北朝鮮の経済制裁監視活動一つをとって見ても十分機能
しているよう
には見えない。戦後75年を経たいま、世界のあちこちに
数多くのほころび
が目立ち始めて
 来た。

英チャーチル、米ルーズベルト、露スターリン)      (GHQマッカーサー元帥)

画策された日本大改造
第2次世界大戦の末期、1945年2月には米国、英国、露国3国首脳
がヤルタに集い、日本の敗戦後の処理(ヤルタ協定)について、
首脳会談
を行った。

その8月15日には敗戦、戦後の日本は,戦勝国によってすぐさま自由主義
陣営に組み込まれる事になった。そして7年に及ぶ米国の占領軍政策によっ
て、徹底した日本人の変
質と、国体の弱体化が図られていった。
その主なものは、―――
憲法の改正
・皇室の改革
財閥の解体
・農地の解放
家族制度の解体
教育制度の改変
伝統文化の否定
それはいわゆるGHQ(米国占領軍)による日本の根本的な大改造だった
今から見ると、終戦いわゆる敗戦は、歴史的にみて日本の大転換点だった。
しかし日本だけが悪と断罪する思想は、いまも完全に払拭
出来ていないと
する識者が多い。


大東亜戦争(第2次世界大戦)当時の日本の勢力図


敗戦当時の日本の状況図

戦争がもたらす人類の禍根
この戦争で亡くなった日本の犠牲者は、戦闘員と民間合わせて310万人
上る。
全世界では、勝者と敗者を含めて約6800万人と言われている
今も忘れられないのは、本来日本との間に「不可侵条約」を結んでいた旧ソ
連が、終戦直前になって条約を破って参戦し 北方4島を武力
で略奪した事で
ある。
そして終戦後、6日たった8月21日には、南樺太(サファリン)から日本へ逃
れて帰国する  現地邦人1700人を乗せた3隻の客船が、
旧ソ連軍の潜水艦の
魚雷攻撃をうけ、全員が亡くなった。

●「敗戦後、外地から引き揚げた邦人数」  (厚生省援護局)

この惨劇は北方領土同様、戦後75年経ったいまも未解決のままである。
遺族たちは、ロシア政府に対して「事実を認め、謝罪をして欲
しいと叫び
続けるがいまだ明確な回答はない。
敗者の力では時の勝者には話が届かない。
まさに馬事東風。これが
偽らざる敗戦と敗者の現実である

これだけ膨大な犠牲を払ってまで、とことん戦う意味がどこにあったのか、
戦後になって勝者は敗者を「軍事裁判」で裁きはすれど、戦争犠牲者や戦争
の被害は決して戻つて来ない。
大きな禍根は残れど、本当の解決にはなっていないのではないか。なにもが
合理的な近代にあって、こんな理屈に合わない出来事が、
いまもなお残って
いる事自体、不思議としか言いようがない。

しかし性懲りもなく世界の大国は軍拡を武器にして、いまも覇権を競い
合う。その言い分はどこまでも自国ファ―スト。その前には大国
の論理も
世界の平和もない。これでは第2次世界大戦の6800万人
に及ぶ戦争犠
牲者は、救われようもない。


■■■■■■■■真実は小説よりも奇なり■■■■■■■■
「東京裁判」(極東軍事裁判)

昭和20年の敗戦後 日本は、講和条約が発効するまでの6年間、米国を
中心とする連合国に占領された。日本にとって屈辱の日々だった。
そんな中で大空襲により焦土と化した国土の復興に努めた。
そして翌年の昭和21年には、勝者である連合国による敗者への侵略政策
を糾弾する「東京裁判」が始まった。東京裁判(極東国際軍事裁判)の
構成国は、次の日本の降伏文書に調印した9ヶ国である。
米国
・中華民国
英国
・ソ連
カナダ
・ニュージランド
・オランダ
・フランス
・豪州
別に、下記の2国が植民地国として参加した。
・インド
・フイリピン
英国は、未だ国際法が整備されていないことを根拠に、この裁判自体に
反対した。結果はアメリカによるアメリカのための裁判となった。
そして東条英樹大将ら7人のA級戦犯には、極刑の絞首刑が下された。
被告たちは、黙して語らず、進んで責任を負うという潔さで死徒につい
た。
東条首相の処刑について、日米関係に格別詳しい 日本のある識者は、
「一応処刑の絞首刑になったが、東条の次男は、後に三菱重工業の社長
になっている。  事の経緯から処刑になったが,遺体は,家族のもとには
帰っていない。遺骨は散骨したとされるが限りなく怪しい。東条は米国
の手配で、どこかで余生を過ごしたのではないか」という噂も後を絶た
ない。

 
             (東条首相と広島の原爆)
公表された東条の処刑前の「英米人に告げる手記」には、次の文面が
ある。

今や諸君は勝者であり、わが方は敗者である。この深刻な事実は認め
ることに、やぶさかではない。
しかし諸君の勝利は力によるもので正理
公道によるものではない。
いま私はその事実を列挙する時間はない。
しかし諸君が虚心坦懐、
公平なまなざしで最近の歴史の推移を観察する
なら、その思いはな
かばにすぎるものがあると思う。

いかに戦争は手段を択ばないとはいえ、原子爆弾で罪なき老弱男女を数
十万人を殺戮した事は許せない。」

ハルノートの怪
太平洋戦争については、東京裁判でも日本の侵略謀議など戦争につい
ての異が問われた。 しかし,開戦直前に米国ハル国務長官から,日米交渉
の米国側からだされた最終案「ハルノート」の存在が明らかになった。
それによると、日本は米国と和解の道を懸命に模索していたにも拘らず、
米国は初めから日本と和解する意思が全くなかった事がわかってきた。
勝つためには手段を択ばない、硬骨な大国の本質が垣間見えて悲しも残
念だ。

東京裁判でこれを見たパール判事は「ハルノート」のような通牒を受け
取ったら、モナコのような小国であれ、名誉のために米国に対して矛を
取り、立ち上がっただろう」と述べた。また別の関係者は「日本は戦争
のボタンを押さされた」と述べている。

その当時は、世界の国際環境と対局する大国の論理や 思惑が交錯して、
それぞれ軍事力を背景にした外交の駆け引きが 常識化していたという。 
そのために大国の主張がまかり通り、日本は、敗者の道を歩まざるをえ
なかったのではないかと、訝る向きが多い・。
Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/ハル・ノート

■■■■■もし日本が分割統治されていたら■■■■
■「サンフランシスコ講和会議

終戦後、6年以上たった1951年(昭和26年)9月4日から第2次世界
大戦の戦争状態を終結するため、米国サンフランシスコのオ
ペラハウス
において、日本と連合国とによる対日講和会議が開催さ
れた。
日本代表は吉田茂首相、実態は、講和問題を話し合う会議ではなく調印
のための儀式だった言われる。


それまでの日本の統治は 連合国4国 (米国、英国、ソ連、中華民国)
GHQ最高司令官マッカーサー元帥により執り行われたという事は、万人
周知の事実である。


この講
和条約会議で先勝国は、敗戦国の日本に対し厳しい賠償と制裁
を求めたが、米国)のトルーマン大統領は、和解とともに両国の
友好に
格別の努力が必要と強調した。その時に 当時のソ連から提起
されたのが
「日本分割占領案」だった。


その基本的な統治案は、第2次世界大戦の戦勝国の   米、英、ソ、仏の
4ヶ国によつて分割統治するというもので、すでに
終戦直前に連合国内部
で、終戦後の日本の占領統治について検討
した 共同統治案だったという
説もある。
●「恐怖の日本分割統治案

■「ソ連提案の日本4分割統治案 (出典/米国公文書館) 
(支配統治国)    (日本の統治地域)
ソ連の支配統治      北海道/東北  
●米国の支配統治         関東/中部/関西/沖縄
●英国の支配統治         中国/九州
●中国の支配統治         四国


           (スリランカ初大統領 R.ジャヤワルダナ)
日本分轄統治案へ猛烈反対」 
(スリランカ初大統領 R.ジャヤワルダナ)談
アジアの諸国民は、日本は自由であるべきと切望します
我々は、アジアの一人としてアジアの共存を唱える日本に畏敬の念を持
っているからです。
大師(ブッタ)は「人は、ただ愛によってのみ憎し
みを超えられる永遠
の真理です。
私どもは数百年の間、共通の文化と伝統で「結ばれ 共-通の文化を共有
しています。
ソ連代表が言う日本の自由は制限されるべきだという見解
には賛
同出来ません。」
この感動の演説により、ソ連の提案は押し切られ、日本の国際復帰への
道が開けたと言われる。

●「英雄が語る日本への謝辞」
1)戦前のアジアタイを除き全ての国が欧米の植民地に
 

2)戦後のアジア全ての国が独立国に

ククリックド・プラモード タイ国元首相 談)
  
日本のおかげでアジアの諸国は、すべて独立できた
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが 産まれた子供たちは、
お陰ですくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国が米英と対等に
話ができるのは、いったい誰のお蔭なのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがいたからだ。
我々は、決してこの日の事を忘れてはならない」

またGHQでは、時の主権者マッカーサー元帥が、外務大臣重光葵の
強い主張である「象徴天皇による間接統治案」を受け入れた。
この時点で恐怖の四分割統治案は、完全に消えたと言っていい。
しかしこの統治案が決まる前には 連合国各国の思惑が渦巻き東西ドイツ
同様, 日本の「四分轄直接統治案」が  真剣に討議された事は確かな様だ。
同じ民族の国が、政治的な理由で分割統治され、中には対立半目する悲
しい事例は、世界にも多い。
西ドイツと東ドイツ
・韓国と北朝鮮
・キプロスとトルコ共和国
・イエメンアラブ共和国と南イエメン民主共和国
想像しただけでも、ゾウとするソ連の「日本分断統治計画」だった。

千島列島を含む北海道に対する 強硬なソ連の要求で四分割統治案は
消滅したという。今にして思えば 北方領土問題は、ここに原点がありそ
うだが、時の主権者マッカーサー元帥が、重光葵外務大臣の強い意向を
受けて、象徴天皇による 間接統治案を採案し、問題の「四分割統治案」
は取り下げたという。見る目があったというべきか、素晴らしい決断だ
った。

もしも日本四分割統治案が実現していたとしたら、私の住む大阪から
東京へ行く場合、毎回、パスポート(旅券)が必要になっただろう。
そこにあるのは、朝鮮半島同様 まさに分断国家なのだ。 考えただでも
ゾーとする。しかも「戦後昭和」がたどった日本経済の復興や世界への
進出など、夢の夢だっただろう。本当に良かったと思う。
 
マッカーサー元帥の決断に満幅の敬意を表するとともに、いささか神
がかった素晴らしい結末に、日本民族の強運を感じてならない。

ククリックド・プラモード タイ国元首相万歳
スリランカ元大統領万歳
・亡くなった全ての日本国民万歳、
・日本万歳、 
悪魔の四分割案が消滅して本当によかつた

心ある多くの世界の人たちに助けられて、いまの日本があることを決
して忘れはなるまい。サンフランシスコ講和会議に出席した世界51ヶ
国の著名(合意)で、日本は、晴れて独立国となり、世界の仲間入りを
果たす事が出来た。


妄想の時代は終わった
評論家松岡正剛氏は、日本の敗戦に至る「日本の失敗」について著書
「日本という方法」おも影・うつろいの文化)の中で次のように
記して
いる。
「これはたいへん解きにくい問題です。その核心点はどこにある
のか
が説きにくいのではなくて  何処まで話を遡ればいいのか意外に難し
い。
・真珠湾攻撃がよくなかったのか、
・その前の「ハル・ノート」に至る日米交渉の失敗が大きかったのか、
・南方作戦に固執し過ぎたのか、
・ノモンハンに踏みとどまるべきだったのか、
・いやいや国際連盟脱退をしなければよかったのか、
・満州国の建国が間違ったのか、
考えていくと、いくらでも遡れそうになってきます。
考えようでは、日本の軍部の本質や明治維新のありかたまで検討しな,
てはなりません。しかし、すべてが失敗の原因であるという事で
はあ
り得ません。」

一方、ハーバード大学のクラック教授によると、――
「アメリカ人の中には、パールハーバー(真珠湾攻撃)を日本のだまし
討ちと言い、別の人は 奇襲攻撃だと言って、日本に対する敵対心を持ち
続けてきた。
しかし若い世代の人たちは、それを「だまし討ち」と呼んだとしても、
そこからは「反日」という意味は抜け落ちている。
それは歴史から得たものではなく、共通の記憶が長い年月の中で変わっ
てきた結果とみている」という。

「多くの日本人は、真珠湾を奇襲攻撃して戦争がはじまり、原爆の投下
で戦争が終った」と認識しているが  この戦争の全ての始まりは1937年
の中国の盧溝橋事件であることが抜け落ちている。
そして真珠湾の始まりには、あまり関心を寄せず、広島長崎の原爆投下
に格別の関心を持つ」と指摘している。

「一方米国人は、真珠湾攻撃に格別の関心をもち、広島への原爆投下は
問題ないと思っている。米国はなぜ核戦争時代のきっかけとなった戦時
中の自国の行為に 向き合わないのか」と疑問を呈している  。
どうあれ両国とも開戦の歴史に真摯に向き合わずして、相互の理解はで
きないと警鐘をならしている。

 
どちらにしても79年前の太平洋戦争は、この戦争を経験した人々の苦
悩の知見が、やがて体験者が亡くなる事で「物語」になり [歴史の一齣
へと代わっていく。
日本の一部には「負け戦ながら、負けてよかった」 と語る識者もいる。
また「どうあれ太平洋戦争からは早く脱却して、新しい日本を構築すべ
きだ」とする見方も多い。いまの日本は、まがいなく新しい日本を目指
して日ごと前進していると確信したい。

おりしも75回目の敗戦月を目前にして、懸案の北朝鮮問題あり、中国
公船が押し寄せる尖閣問題あり、国防(自衛)や憲法改正についても熱く
議論する雰囲気が高まりつつあった折から、武漢コロナ問題で、残念な
がら論議が中断したままだ。
しかしこの論議の源流は、あくまで「敗戦」であり、その本流は「戦後
昭和」である事を忘れてはなるまい。防衛論議はアフターコロナに譲る
としても、米国の核の下で、平和憲法を持つだけで、この国が守れる程、
世界情勢はやわではない もう妄想の時代はとっくに去ったといっていい。

まず自主自衛の中から、戦いなき繁栄の道を真摯に探るべき時だろう。
そのためにも、移ろいつつある「敗戦や戦後昭和の実態」を、みんなで
よく反芻して、次世代に語り継いでいきたい。
             

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