■■タイ介護ロングスティ、1年経過とその評価■■
中西英樹
【厳しい日本の介護環境】
●母、兄とチェンライに来て、ほぼ1年が経過した。
チェンマイ総領事に会った時、なぜチェンライに?と聞かれたことがある.
数年前から北部タイを度々訪れ、土地勘があり邦人の知り合いが居たから、
気候が良く楽に母の介護ができそうだったから、などと答えたのだが、自分
でも満足のいく説明になっていない。
●適切な薬を探すため、母を東京の老人病院に2ヶ月の予定で検査入院さ
せたとき、食事を摂るのが遅いという理由で1週間も経たないうちに点滴にな
った。
暴れて点滴の管を抜いてしまうというので特別室のベッドに縛りつけられ、
ミットのような大きな手袋をはめられていた。
●か細い声で、「家に帰りたい」と訴える母に、病院だからね、暫らくいればよく
なって家に帰れるからね、とはとても言えなかった。
腕や手首に点滴の針が入らなくなれば、鎖骨や大腿部を切開して点滴箇所
を確保します、
点滴だけでは体に必要な栄養は取れなくなりますから、余命は3ヶ月と覚悟
して下さい、と若い医者に言われていたからだ。
病院は治療するところではなく、最後を看取るところなのだと思った。
【施設から在宅へ】
●病院からの坂を下りるときの、11月の明るい日差しと暗澹とした気持の奇
妙なコントラストを今でも思い出す。
病院が悪かったと言うことではない。それどころか、通常のルートではすぐ
には受け入れてもらえないところ、医学部の教授が高校時代の同級生とい
う縁で、特別に配慮してもらったのだ。
友人には悪かったが2ヶ月の入院予定であったのを2週間で家に引き取った。
家に戻ると母はいつものように箸で卵焼きを食べ、夜はビールを一缶楽しむ。
しかし、夜も昼も体の不調を訴えて大騒ぎするし、手がかかるというのでデイ
ケアも入浴が終ればすぐ戻されてしまう。
月2回、2,3日のショートステイサービスがあるが、このときだけは兄と一緒に
外出することができた。
【問われる家族の介護力】
●このような公共のサービスは有難かったし、時折自宅にくるケア・マネー
ジャー、訪問看護師にもお世話になった。
しかし、皆一生懸命やっているのに、介護の仕事に従事している人たちが
医者も含めて、さほど経済的に恵まれず、またサービスを受ける側の満足
度も高くない、ということはなぜなのだろう。
高コスト社会だから仕方ない、という前に何か考えなければならないことが
あるような気がする。
●他にも老人施設、病院を見学し、人にも話を聞いたが、母のように騒ぐ認知
症患者は手が掛かるので引き受け先が少なく、引き受けてくれても我々兄
弟が満足のいく介護は期待できそうもないことが分かっていた。かといって、
隙間風の入る一軒家で、母を連れてトイレや風呂場を行き来するのは楽で
はない。
兄は昼、夜と無く母の世話に掛かりきりだ。老老介護で共倒れになることは
眼に見えていた。チェンライに行ったこともない兄に、お袋と一緒にタイに行
こう、という話は唐突であったかもしれないが、あの切羽詰った段階では他
に選択肢が見つからなかった。この状況からは抜け出せるかもしれない。
【タイ介護ロングスティへの取り組み】
●中西さんに決断力、計画性、語学能力があったから、チェンライのロングステイ
介護に踏み切ることができたのでしょうと、褒めてくれる友人もいる。
でもこれは事実ではない。
行けば何とかなるよ、東京の自宅は残してあるのだから、どうしても駄目ならまた
家に帰ってくればいいじゃないか、
それにこれから寒くなるからおふくろの世話はもっと大変になるぞ、かといって
ちゃんとお袋を見てくれる施設はなさそうじゃないか・・・・
●とりあえず、下見ということで自分だけ12月にチェンライを訪れ、邦人の世話を
受けて、住居、車の購入などロングステイの目処が立った。
(実は兄もこの下見に参加する予定であったが、母を予定より早く病院から引き
取り、その面倒を見る必要があり行けなかった)
●明けて1月の始めにタイ行きの切符を手配し、1月末にまずはチェンマイ
に親子3名降り立った、という次第。
この一年、タイ語がまったく出来ず、女中さんが何度も辞めたりなどいろん
な苦労があった。しかし多くの人に支えられ、母も衰えたとはいえ息災に
しているし我々兄弟も快適な暮らしをしている。
●友人がくれた雑誌に昨年亡くなった芸能人が出ていた。森繁や大原麗子と
並んで小さく清水由貴子(49)の名前があった。
欽ちゃんファミリーの一員として人気者だった。母親の介護をすべて背負い
込んだ末の「介護鬱」による自死だったという。決して人事ではない。
我々も更に追い詰められれば、どうなったか分からない。
彼女に「こういった方法もあったのですよ」と言って上げられないのが残念だ。