ロワンタン通りには長い銀杏並木があった。風のない静かな日には、かすかに川の音が聞こえるのは、通り一つ向こうに大きな川があるからだ。川は静かに国を流れている。
秋も深まる10月のことだった。ノエルは灰色の背嚢を背負いながらロワンタン通りを歩いていた。手には小さなオルゴールをもてあそんでいた。蓋に貼ってある白い小さな陶板には、うすべにの秋薔薇の模様が入れてあった。その絵は彼が描いたもので、スケッチノートに描いてあったデザイン通りに写したのだが、いざできあがってみると、どこかバランスが悪く感じて、どうしたものかと考えていた。
金色に色づいた銀杏の葉がカサコソと足の下で音を立てる。ここ最近は道路掃除もあまりされていないのだ。ノエルは風のうわさで知っていた。3か月前まではこの通りを掃除していた掃除夫が、戦争に召集されて、外地に戦いに行ったことを。
戦争が始まって、どれくらい経つだろう。そう思いながらノエルがオルゴールの蓋を開けようとしたとき、空の上からぐんぐんという奇怪な音が響いてきた。見上げると、戦闘機の一群が空を横切っていた。通りすがりの人が空を指さし、言った。
「すごいや。きっとキール海にいくんだね」
「アマトリアは勝つかな」
「勝つともさ。ジャルベールがそう言ってる」
「ジャルベール万歳!」
ノエルは声の主を振り向いた。二、三人の黒っぽい服を着た少年が肩を組んで歩いていた。それは何年か前に国が指定した、囚人服のような恐ろしく硬いデザインの服だった。みんな喜んで着ているふりをしているけど、何となく気付いている。もう余計な服を作る布がこの国にはないのだ。いたるところで、人民の暮らしが窮乏し始めていた。こんなことになったのは、戦争が長引いているからだ。
オルゴールを開けるのをやめ、そのまま上着のポケットに入れた時だった。どこからかうめき声が聞こえた。随分と苦しそうだ。ノエルは一体どうしたのだろうと、声のする方を探してみた。ほんの10歩くらい離れたところに、狭い路地につながる穴のような暗がりがあった。声はそこから聞こえてくるらしい。灰色の小さなビルとビルの間にある、その路地につながる暗がりに、ノエルは自然に近づいて行った。
路地の入口に立ってみると、少し離れたところに誰かがうずくまっていた。
「民主主義なんてくそくらえだ。ガキがえばりやがって」
近づいてみるとその声は、うめきながらもそう言っていた。
「どうしたんですか?」
ノエルはその人影に近づきながらやさしく言った。人影はびっくりして顔をあげ、ノエルを見た。ノエルもまたびっくりした。実に醜い男だったからだ。東洋人のように背が低く、ワニのように鼻がとがっている。目は灰色で、ネズミのようにおびえていた。口をすぼめるようにするのは癖なのだろうか。誰かに殴られたのか、片目の瞼が腫れている。
その男は逃げようともがいたが、立てないらしく、少し尻をあげたとたんにまた無様に尻をついた。泣きそうな顔になったが、すぐに運命をあきらめたらしい。大きくため息をついて膝を抱いた。その間にノエルは男を観察した。男には、右足のふくらはぎから下がなかった。そして少し離れたところに、おかしな棒のようなものが落ちている。
ああ、義足がとれたんだ。きっと、誰かにいじめられたんだな。
戦争で、人間の心は荒れていた。弱いものや醜いものを見ていじめる人も、きっとたくさんいるだろう。そう思うと、ノエルの胸は酸っぱくなった。この人を、助けないではいられないと思った。
「歩けないんですね。背負ってあげますよ。家まで送ってあげます」
ノエルは自然にそう言った。男はびっくりして顔をあげた。だまされるもんか、という表情が目によぎったが、それは次の声を聞いて、不思議に溶けて消えた。
「ぼくはノエル。ノエル・ミカールというんです。心配しないで、何も悪いことはしませんから。お名前はなんというの? どこに住んでいるんですか?」
その、不思議な、秋の風のようにやさしい声に、男は引き込まれるように、いつの間にか答えていた。
「あ、アンブロワーズ…、ウェスヴール街の23番地…」
(つづく)