MailING!日月説法日誌

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経典の中の王様「法華経全28品」を完全に解読しよう
故はイカン

【言葉の使い道】らってね!

2015年08月30日 23時08分35秒 | 生活・文化
私の住む新潟平野部では、○○です。○○だ。を「ら行」で発音しているようです。
実は、○○です。と、○○ですか?は同じく、○○ら。とだけ発言するのです。その区分は、語尾の「ら」のトーンを下げるか上げるかで調整します。
 
トーンが乗らない時やもう少し丁寧に言う時は、
○○です。は、○○らいね、らよ(ですよ)、らっけね(ですからね)、らったよ、らったいね(でしたよ)。
○○ですか?は、○○らかね、らろか(ですか)?、らったか、らったろか(でしたか)?
などとも使い分けます。
 
その他、○○らろ。○○らてば。○○らろうに。○○らてか?という時は少し怒り気味に断定的に相手を下げさせる感じに使います。
 
・・これらも言葉の力ですよね!大切に残していきたいその日その日の微妙な気持ちの表現ですね。
元気ら。元気らよ。元気らて。元気ろ。・・元気らってば。元気らこて~😃😊

「女人の罪障とは感性の違い?」・・勧持品第十三【第四月の2】

2015年08月13日 11時25分41秒 | 生活・文化
ところで、女人の罪障とは今だ佛法上の大きな疑問点です。
たとえば、釈迦に対して、「念を作さく」という表現がたまに出てきますが、この念を作さくとは、言葉に出さずに心にそう思ったということらしいです。
   
この念を作さく、に対して釈迦はその都度、鋭く感じ取り、それに対する答えを与えているようですが、この念を作さく、と表現されているのは、五百弟子受記品の富楼那彌多羅尼子や授學無學人記品の阿難、新發意(しんぼっち:新たな実践者)の菩薩八千人、また、今回の品では耶輸陀羅比丘尼、そして、八十萬億那由他の諸々の菩薩摩訶薩などです。
   
これらは皆、神通力を具足している菩薩、或いは将来菩薩となる者たちです。こういう神通力とはどうも女人の罪障と関係しているのではないでしょうか?
実際の菩薩はどうやら男子しかいないようですが、神通力を正しく使えるのは男子だけと考えますと、もし富楼那が女人である場合、どんなに説法人第一であっても、おそらくそれは釈迦のおだてであって、実際は罪障の力による上手さとも考えられますし、実際は富楼那が成佛するには遠い先ということで、弥勒菩薩と同様に見せ掛けだけの気品なのかもしれませんね。
   
ということは、女人の罪障とは神通力の使い方がまともではないという意味で、どんなに正しい者に見えようとも間違いが多く、実際は大した力ではないとして見下さなければならない実際の調整や都合によるのかもしれませんね。
   
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どうやら、昨日の提婆逹多品で少し話しました商人気質のことに当てはまるかもしれませんが、ただ単に清く正しく見えるだけでは、何か一方に極端に偏りがありすぎてアンバランスな判断力であったり、他へはさほどあり難いことでもなさそうな性質があるのかもしれません。
  
ここで少し、五官と五感についての話をして見たいと思います。
五官とは、人間のもつ五つの感覚用器官の意で、漢方においては人間の顔の上にある五つの感覚用の器官を指し、目・耳・鼻・口・舌であるそうですが、一般に日常用語での五感を感じる器官としては、目・耳・鼻・口・皮膚であり、各々に視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感で区分したものらしいです。
   
ですから、五官とは五感を感じる部位の器官ということになるでしょうが、両者は受け止め方としては多少違いますね。
つまり、五官は五つの器官、そして五感は五つの感覚ですよね。
また、五官は感覚を意識するもので、五感とは感覚が起きるというの意味に違いがあります。
   
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つまり、神通力を正しく使いこなせるということは、この五官も五感も両方が正しく機能しているということかもしれません。
たとえば、子供と大人を比較して見ますと、まだ社会慣れしてない子供の感覚は新鮮ではじめて知ることへの興味や幸喜心が強く関わっているのではないでしょうか。
   
子供は真新しいことへの感性が主であり、社会慣れした大人の感覚は子供とは少し、或いはだいぶ違うものかもしれません。
   
ですから神通力が正しく使えるかどうかは子供と大人ほどの能力の差があると考えられるようです。
たとえば、それが商人気質ですと、五官は磨かれ続けても、五感の方は、大人になるに随って滅んでいっているのではないかと思え、特に対人関係における五感の感じ合いは自然状態から離れていっているかもしれません。
   
そのように一方は磨かれていっても、逆の一方は衰えていってしまうアンバランスが商人タイプには実は多いのかもしれません。
  
⇒ 関連ブログ:「釈迦の姨母驕曇弥は一体いつ授記されていたのか?」・・勧持品第十三【第四月の1】
 
⇒ 本日のHPブログ:第4-13日号-独我が名を説きたまわず-勧持品第十三-二十一行-二十七行/
  

「女の子のように思える富楼那彌多羅尼子」・・五百弟子受記品第八【第四月】

2015年08月07日 17時26分19秒 | 生活・文化
釈迦は自身で富楼那を説法第一の弟子と称賛してきただけでなく、過去九十億の諸佛の所でも同じく説法第一だったといい、そして、今回も過去七佛の説法人の中でも第一であり、今の釈迦の所の説法人の中でも第一であることが認められているといって、繰り返し繰り返し富楼那が説法第一の弟子であり、右に出る者は将来にも他にはいないことを釈迦はとても強調していますね。
   
これだけに富楼那へ大きく期待する釈迦の気持は一体どのようにして作られているのでしょうね?
法華経にの中では詳しくは載っていませんが、富楼那とは、釈迦の故郷カピラヴァッツ近郊のバラモンの家に生まれたそうです。
   
富楼那を生んだ彌多羅尼は、釈迦の最初の弟子であるという阿若驕陳如の妹であるらしく、富楼那は叔父である驕陳如に導かれて出家したといわれているそうです。
   
ところで、阿若驕陳如とは比丘のままだったようですが、この品の中で富楼那の後に共に授記されているのです。
それだけに釈迦は驕陳如比丘を大弟子としてとても大事にしていたことが考えられますが、どういうわけか声聞などの地位にはついていなかったようです。
   
これはやはり、バラモン教を信仰してきた家柄ということで、古くからの派閥論争が影響しているのではないかと思われます。
富楼那もそういう系統から出家して釈迦へ弟子入りしても、中々難しい面が多くあったのだと考えられます。
   
ところで、そういう場合に女の子のように化けさせて育てるという手法がひょっとしたら流行っていたのかもしれませんね。
富楼那の叔父の驕陳如という名も一見しては女性の名前のようにも思われますね。
それだけに、バラモン派閥から逃避することはとても命懸けで至難の業だったのかもしれません。
  
⇒ HPブログへリンク:第4-8日-實に是れ聲聞なりと謂えり-五百弟子受記品第八-十八行-二十四行/
 

「日蓮聖人解明の義と事の違い」・・方便品第二【第四月目】

2015年08月01日 17時39分15秒 | 生活・文化
義と事とは佛法に於ては古くから重要な意味があるらしく、日本の日蓮聖人が説かれた教義の中でもこの二つの意味と違いは極めて重要なのです。
   
日蓮聖人の願いは、日本中の国民すべてに佛法の願いを起させ、日本の国土に国が設立する佛法戒壇を建設し、それにより本来国の責任による佛法をもたらして日本を佛国にすることが究極の目的なのであり、その建設計画の戒壇の種類としては、「義の戒壇」と「事の戒壇」とに意味の種類が分かれているということです。
   
日蓮聖人の最終的に建設を目的としている国立戒壇という建物は、この二種類のうち、「事の戒壇」のことなのです。
つまり、最終的に全国民の一致を得て造る「事の戒壇」とは別に、その段階に至る途中の修行や普及の各地に準備段階や研磨の為にあらかじめ建てておくものを「義の戒壇」というらしいです。
   
なお、戒壇とはいろんな意味にも取れますが、通常の佛教界に於いては、階級僧を正式に認定する場所のことを戒壇といっているようです。
よって、その場所を国立で造るということは国自体で佛法の必要性を理解して国として、この認定場を設置することを国立の事の戒壇といっているようです。
   
つまり、このように義と事とは佛法上意味が異なるのですが、ここで釈迦が、舍利弗へ教えている、「種種の性相の義」とは前回に説明しました十如是のことであり、究極の佛法の意味とは誰も言葉では説明できないくらい複雑で難しい意味なのであって、精々何とか説明して見るなら十如是のようなことであると釈迦は教えていたはずです。
   
それに対し、釈迦自身と十方の佛同士のみが正確にこの事を知しめせりとは、あえてこの義を知しめせりとはせず、事という言葉を使っているところに意味があるのであり、とりあえず義に適っていることは通常の誰にもできることであり、その誰にもできる義を正確に検討し合って、真実を協議すること、つまり「事」は複数の佛同士でのみ解決できることであると釈迦は教えているのです。
 
⇒HPブログへ:第4-2日号-vol-86-世雄は量るべからず-方便品第二-十八行-二十三行/