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故はイカン

土地農民の栄光は一揆で水に流れ

2010年07月26日 13時11分42秒 | まちづくり
 元米沢藩士の木下三左衛門は乞食風の燕町の農民、川崎九郎次(当時35歳)に信濃川分水開拓工事の話を聞かせ、工事のために無償で土地を明け渡さなければならない土地農民の哀れさを訴え、
工事中止を越後府に働きかける一揆の首領に君臨するよう川崎をほだし、その資金を渡した
 その同じ頃、戊辰戦争の落ち武者で京都から越後三条町へ流れ住んだ渡辺悌輔(当時33歳)
は、同じく分水工事中止をもくろむ、三条町の浄土真宗寺の元住職月岡帯刀(たてわき:当時41歳)に働きかけられ、川崎と同様に明快にそれを受け入れた
 この二流派により大河津分水反対一揆は同時平行に進行し、両派で総勢10000人規模の工事下流域の貧しい農民たちがまるで狂った英雄のように加勢しだした
そして、明治5年5月、史上最後で最大規模の農民一揆と急進していった
 月岡が率いる渡辺派軍の中には将来の信濃川治水会社設立者の白根の田沢実入(みのり:当時21歳)も一種のスパイではあるが加勢にもぐりこんでいた
 この一揆大行進で反抗する多くの農家の家屋が次々と焼き討ちに合い、住民は竹やりで刺され、阻止した役人も無残に集団に惨殺された
 越後府は鉄砲隊を配備し待ち構え、たちまちに川崎、渡辺、月岡は取り押さえられ裁判され、三人とも斬首刑に至ったが、最初の策略者の木下は行方をくらましたまま現在でも解らない

 ところで一方この時、開拓工事予定地に土地を持つ地元農民はどうであったか
 徳川吉宗の享保年間(1716~1735)に寺泊の豪商本間数右衛門が幕府に請願した信濃川分水工事は天保13年(1842)に初めて許可が下りた
 許可が下りるまでの100年余り、幕府と土地を立ち退かされる地元農民との話合いは続き、数世代にわたる長い歳月を経て土地農民は幕府に折れ、了解及び協力の下に誠の心で、それも全くの無償で土地を明け渡すに至ったのである
 木下、月岡らによる無理やり地元農民から土地を奪おうとしている越後府の理不尽さというでっち上げたテーマで起きた大一揆策略に対し、土地を明け渡す土地農民は一揆には加勢しないままに、不意に加勢しているかのように片棒を担がされるような名誉侵害と大困惑を受け持たされるに至ったのである
 月岡らが処刑に至った後も土地農民は明治当時まだわずか残っていた地元武士に土地を手放した罪として理不尽に攻め立てられ続け、娘などは分水工事景気により当時地域で流行り出した地元芸者へと売られていくはめになった
 昔なら金がなくてなった芸者も今はそうでない地元芸者組合は、地元農民への情けをテーマに工事中止一揆に一肌脱いだため処刑された哀れな月岡らへの思いを現代的に反映しているのだろう
 デマをでっち上げ、処刑に遭った英雄をテーマに続くこの地域の屁理屈な情愛ともいえる地元観光芸者の活用は、 本当の江戸年間掛けて地元を大水害から守る争いに立ち向かい、分水工事のために土地を明け渡すに至った地元農民の汗と栄光を蔑ろにしてしまった
 大河津分水工事と共に歩んできた本当の地元農民の意地と願いは現代の芸者を多用した観光行事と化したのか
 今でも大河津分水の最大の観光目玉、昔の芸者を装う「おいらん道中」行事は一体何を伝えようとしているのだろうか
 工事反対した群集の懺悔なのではない、土地を手放し途方にくれた地元農民の本当の哀しみを観光の繁栄に利用している
毎年春、大河津分水信濃川の土手に咲く桜並木の下、時代装束のおいらんが行列する姿に哀しみと繁栄が交差するのである