パオと高床

あこがれの移動と定住

坂多瑩子「鍋の中」(詩誌「現代詩図鑑」冬号  2013年3月12日発行)

2013-03-31 20:46:32 | 雑誌・詩誌・同人誌から
どこを開いて誰から読もうかとわくわくできる詩誌。
で、坂多瑩子さんの「鍋の中」。
「おはぎ」の詩である。個人的に「おはぎ」は好きで、

 ばあさんのまるめたおはぎは
 スーパーで売っている倍の大きさはあって
 おはぎとおはぎがくっついて
 どちらかにあんこが多くならないように
 古びたショーケースに並んでいる

視点の動きの自然さがよく、冒頭、おはぎが、そのあんこの接している具合が、おもいきりのクローズアップ。余計な細密描写はなく、おはぎ、うまそうで、そこからまなざしは引いていく。

 奥にはかまどがふたつ
 薪がいつも燃えていて
 すすけた窓ガラスをトントンとたたくと
 ふりむいたばあさんは
 静かにせんか
 声も出さずに言う

あっ、かまどが燃えていて、饅頭屋の匂いが漂う。そして、ばあさん。ばあさん、どうでるか、声も出さずにたしなめて、

 小豆がびっくりするそうで
 静かに踊ってるときに脅かすなと
 とがめられた
 私は脅かしてなんていません
 言いたくても言えない

ここらから、妙に現実感に夢のような距離感が入り込みだす。音が、声が、言葉としては書かれているが、それは「声も出さずに」というように消されているのだ。「トントン」という窓ガラスをたたく音がむしろ、音のなさを印象づける。小豆が煮られる音だけが、静かに漂っている感じがする。二度の「静かに」が効いているのかな。同じ言葉を繰り返されるとうるさくなることが多いのに、ここでは、静けさが際立つ。音の少なさが、少しだけ異空間のようなものを作りだしている。声は交わされない。交わされることは禁止されている。もちろん、口調に軽いおかしみもある。

 一度だけばあさんを覗き見したことがある
 たまたま通りかかったとき
 なんとも甘ったるい匂いがしてきたからだ
 あんこのようであってあんこのようでもない
 ばあさんのひらべったい背中から
 少しはみ出た鍋が見えて
 ばあさん
 鍋の中じっと見ながら子守歌をうたっていた
                (「鍋の中」全篇)

ここで、小豆を煮る匂いが記述される。すでに詩では、その前から漂っていた匂いを、言葉で差しだす。時間を過去に少し飛ばせている。そして、その匂いの先に「あんこ」を連想させる背中があって、視覚よりも嗅覚から「あんこ」に思えて、だから、見てみると「あんこ」のようではなくて、「ひらべったい背中」で。
その向こうにある鍋に向かって「子守歌」。最終行、いいな。「踊っている」小豆は、そのあと眠りにつくのだろうな。

それから、人称の「ばあさん」がいい。「おばあさん」ほど、親近感や敬意はなく、「老婆」にすると物語性と客観性が出ちゃいそうで、「ばあさん」に落ち着くのだろうと思う。そして、「ばあさん」は何か穏やかなノスタルジックなものだけではなく、やはり、昔話の「ばあさん」でもあって、「あーぶくたった、煮え立った、煮えたかどうだか食べてみろ、むしゃむしゃむしゃ、まだ煮えない」の恐ろしさも連想させるのだ。つまり、作者は大人と子どもを往き来しているのである。
この詩は、立ちどまりの感覚の中に別の風景が入り込んでくることを受け入れている。懐かしさと怖さは背離するものではなく、揺れ幅は、断定される感覚をすり抜けていく。

 
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