パオと高床

あこがれの移動と定住

光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』(書肆侃侃房「現代歌人シリーズ13」2016年12月21日) 一首一献(1)

 | Weblog


みづからが飛べざる高さを空と呼び夕陽の先へ鳥もゆくのか


 光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』(書肆侃侃房 2016年12月21日)から「空と呼ぶ」の中の一首。
 作者は1979年兵庫県生まれ。沖縄県石垣市(石垣島)在住と紹介されている。

「空」を名づける。名前があるものをもう一度名づけなおすことは詩歌の持つ大切な役割だ。
それが一冊の詩集や歌集になったときは、詩や短歌を問うことが、そのまま一冊の本の魅力になる。
そういえば、かつてボードレールは『悪の華』一冊に詩の歴史を封じ込めようとした。
 そんなことも連想させるこの歌集、短歌の歴史への静かで緻密な挑戦が感じられる。反復や歴史的仮名遣い、
話体やフォントの実験、本歌取りや文学的素養の組み込みなどなどが、突っかかったり、とがったりせずに歌の
中に織り込まれている。本人が雑誌「短歌」で遣っている言葉を借りれば、それらの技法が「万別のリズム」と
なって表れている。
 そうすると、この一首の「空」をそのまま「歌」にすれば、鳥は作者自身になる。「みづからが飛べざる高さ
を歌と呼び夕陽の先へ吾もゆくのか」。彼は石垣島に移住する。だが、彼は住民であるよりも移住者である。定
住者よりも旅人である。そんな彼が広大な「歌」の世界、飛べざる高さである「空」を飛ぶ。夕陽の先、西の
石垣島を目差して。「空」や「鳥」を比喩とすることで生まれる頭の中の情景と現実の作者の状態が重なり合う。
だが、もちろん、この歌の魅力は、そんなうがった解釈よりもきちんと刻まれた夕陽と飛ぶ鳥の像である。
 戦後すぐの時期に田村隆一は、鳥と空を遣って「空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない」や
「小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ  閉ざされたものがあるわけだ」(「幻を見る人」)という詩
句を書いた。飛ぶことの不可能性、空からの放擲を時代精神として描きだした。垂直に向かった田村に対して
光森は空間を平行に移動する。そこには、彼が旅したマダガスカルや台湾、そして移り住む石垣がある。時間は
絶対的なものではない。時間はことがらの推移によって相対的に流れる。彼は、場所がそれぞれに持つ時間の流
れの中で、自身が出合う刹那のことがらを紡いでいく。

 この歌集は、「Madagascar2012」や、山椒魚(?)が生息地から飛びたつ(?)「山椒魚が飛んだ日」、
子の誕生までの一連の連作「其のひとを」などやプトレマイオスの48星座に色を乗せる連作「トレミーの四十八色」
から編まれていて、そこから立ち現れた歌たちは魅力的に共鳴しあうのだが、それは、またの機会に、別の一首で。
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ポール・ニザン『アデン、アラビア』小野正嗣訳(河出書房新社 世界文学全集Ⅰー10)

 | 海外・小説
どうしても、書き出しの文章からになる。

  僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わ
 せない。

心に痛みを感じるほどに、いい書き出しで、でも、このあとが抒情的に流れていくわけではない。むしろ痛烈な批判と風刺の書であり、
徹底した自己省察を徹底した社会批判と共に書きつくす、緊張感あふれる本である。
それこそ、かつて数十年も前に読んで、今回改めて読んだ。それこそ、ニザンによって批判される側に至った年齢で。だが、やはり、
いい。疲弊し、老朽化したヨーロッパに否(ノン)をいいながら、アラビア半島のアデンに旅立つ「僕」=ニザン。彼は、紀行文のよ
うにアデンを描写するわけではない。離れていく距離そのままにヨーロッパを問う。しかし、アデンにも安住しない。そう、自己は自
ら自身から離れられない。そうして、自己とはその制度が作り出した自己であるのだ。つまり、アデンに向かい、アデンから批判する
ヨーロッパとは自己を形成した価値の総体なのだ。ニザンはフランスに帰国する。再生するように。帰国した彼はコミュニズムへと実
存の投企を開始する。近代が生みだした資本主義と格闘するために。

  何もかもが若者を破滅させようとしている。恋、思想、家族を失うこと、大
 人たちのなかに入ること。この世界のなかで自分の場所を知るのはキツイも
 のだ。

書き出しに続く文章である。今の社会状況と重なってくる。というより、常に現代は、こんな状況で進んできているのではないのだろ
うか。若さに価値を置きながら若さを搾取する。そのなかで閉塞を感じる若さは苦闘する。
近代の進歩史観と加速化する時間と消費に捉えられ、その近代自体を問うポストモダンが喧伝された。その時代を過ぎて、むしろポス
トモダンが知の袋小路に入ったかのような、さらなる理性の拘束と膠着を生みだしてしまった現代がある。その結果、今、感情の激化
と反知性的理性批判が支持を得ているような気がする。臆面もない強者の論理が、わが物顔で跋扈する。そして排他性こそが自らを高
め保証するものであるかのように豪語する。単純化された判断こそが解決策であるとして支持される。そんな今、ニザンの緊張感があ
り密度の濃い文章を読みながら、「否(ノン)」を言う行為とその行為を思索する深みについて考える。どこにアデンを見いだせるか。
いずれのアデンに立って、規定された存在の場を問うことができるか。

2月14日朝日新聞朝刊に熊本在住の思想家であり評論家の渡辺京二についての記事が掲載されていた。
「〈近代の再考〉テーマを貫く」という見出しで渡辺京二の仕事を紹介していた。彼の論考が一部紹介されている。

 「近代以前の市場経済が社会の中に埋めこまれ、社会から統制されていたのに
 対して、現在では、社会から自立した市場経済が逆に社会を統制し振り回すの
 である」

と。そこで、20世紀に台頭した共産主義とファシズムという政治運動に関して、

 「歯止めのきかない市場経済から、社会を防衛しようとする側面があった」と
 論じる。

と、書かれていた。この二つの、人々を「翻弄」し「破綻」した運動を「歯止めのきかない市場経済」との関係で考えたときに、この
二つが同根の閉塞から発した、表れ方の違いであることに気づかされる。それは、朝日の記事にも書かれているように「ナショナリズ
ムと保護主義」台頭の気運に満ちた現代と繋がる。二ザンは、

  ホモ・エコノミクスのさなざまな種類や変種や一族でいっぱいのこの国
 では、ひとは絞め殺されてしまうことが僕には理解できる。

と書いている。だが、ニザンは、まだ近代の中にいる。というより、近代から逸脱した場所に立つには、そこには地平がないのである。
近代を乗り超え得ない近代の思考が、僕らを形成しているのであれば、僕らは耐えるように自己省察を繰り返すしかないのかもしれない。
それを自虐史観と呼ぶな。威勢の良さが問題を解決するわけではない。むしろ問題との共棲が叡智を生むものだと考えたい。

訳は小説家の小野正嗣。昔の本は晶文社から出ていて、篠田浩一郎訳だった。
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カレン・ラッセル『レモン畑の吸血鬼』松田青子訳(河出書房新社 2016年1月30日)

 | 海外・小説
書き出しは、こう。

  十月、ソレントの男と女は「真っ先に花開く果実」を意味するプリモフィオ
 ーレ、つまり最もジューシーなレモンを収穫する。三月には黄色いビアンケッ
 ティが熟し、六月には緑色のヴェルデッリが後に続く。どの季節にも、ベンチ
 に座り落下するレモンを眺めるわたしの姿がある。

そして、レモン畑に観光に来た人々は、この老人である「わたし」を見て、

 男やもめだとか、子どもに先立たれた老人だとか、彼らはささやき合う。わた
 しが吸血鬼だとは思いもしない。

と始まる。ページ数で26ページほどの短編。描写の魅力と設定の面白さ、そして、漂う哀切感が、いい。

内容は、解説にもあることばを使えば、「〈倦怠期〉に直面した吸血鬼夫婦の物語」だが、この設定がコミカルさとはほど遠く、
切実な情感を持って描かれる。しかもべたつく情緒ではなく、さらりと、しかし、沁みるような詩情。
吸血鬼は、死ねない、終わりのない永遠性の中で、しかも同胞を他に見出すことができないという状況の中で〈倦怠期〉を迎え
てしまうのだ。

主人公のクライドは、女性の吸血鬼マグリブに出会うまで、人間が作り上げた吸血鬼の物語の中にいた。つまり、血を吸うことが
生命を維持するもので、太陽の光に当たると体は崩壊し、にんにくがダメな存在として生きてきた。ところが、マグリブが、そん
な彼を物語の嘘から連れ出す。

 「で、血に何の効果もないことにいつ気がついたの?」
  この会話がなされたとき、わたしは一三〇歳にさしかかっているところだ
 った。十代の早くから、数パイントの血を飲むことなしに一日たりとて過ごし
 たことはなかった。血に何の効果もない? 額は火照り熱くなった。

血には何の効果もない。それなら「一体全体何のためにこの牙はあるのだ」と彼の100数年は一気にゆらぎだす。が、彼らは太陽の下、
デートを重ね、彼は恋に落ちる。オーストラリアでの太陽の描写がいい。

  そこでは、太陽が雲をレースのテーブルクロスのようになるまで焼き払っ
 てしまう。

  外では、世界全体が燃えていた。音のない爆発が低木の森を揺り動かし、光
 の塵が静かなロケットのように燃えている。まばゆい太陽の光の束が、ユーカ
 リとトクサバモクマオウの合間に落ちていった。(略)太陽で死ぬことはない
 のだ! 

彼は昼間の柩から出る。「マグリブが現れたことで、永遠はわたしを脅かすものではなくなった」。しかし、ある日、マグリブは
洞窟へと飛び去っていく。そこでは永遠が顔をのぞかせる。人間の結婚制度は「死が二人を分かつまで」というが、彼は考える。

  いつか死ぬという根本的な事実を知りながら、どの程度まで人間の愛は育
 つのだろうかと考えてみることがある。わたしには永遠によくわからないま
 まであろう方法で、何もないところから生えてきた緑色の茎のように愛はら
 せんを描く。さらに近頃では恐ろしい考えが頭から離れない。我々の愛は地球
 の滅亡よりも前に終わるだろうと、と。

蝙蝠となって飛び去るマグリブに対して、老いたクライドは飛ぶことができない。そんな彼がマグリブを追う姿が痛い。

血ではなくレモンを吸うようになった吸血鬼の心情や、レモン畑の描写なども含めて、筆致の魅力に引き込まれる一作だった。

ケリー・リンクやエイミー・ベンダーと通じる、ファンタジーから脱領域していく魅力的な作家だ。
あっ、そういえば、吸血鬼の永遠の孤独を描いた萩尾望都の『ポーの一族』という漫画があった。昨年、続編が出たような。
あの漫画はよかった。ラッセルも知っているのでは…。
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ハンガン『少年が来る』井手俊作訳(クオン「新しい韓国の文学15」2016年10月31日)

 | 海外・小説

  雨が降りそうだ
  君は声に出してつぶやく。
  ほんとに雨が降ってきたらどうしよう。

小説は、こう始まった。この本を読み終えたとき、気がつくと、外は冬の冷たい雨が降っていた。韓国語では、雨と血は表記も
発音も違うけれど、似た音「ピ」。光州事件を描きだした小説の書き出しは象徴的だ。

読み終えたときに風景が一変してしまうような小説がある。『少年が来る』は、そんな小説だった。そして、小説が即時性では
なく、時間を踏みしめるようにして成熟し出来事を獲得していくものだということを改めて感じた。その時間の風化を擦り抜け
て現れだしたものの姿が痛く、辛い。
と同時に胸に迫り、ひたひたと浸潤してくる。しかも、これは、起こった事実の持つ事態からだけではなく、書かれた小説がも
つ魅力に貫かれていて、むしろ小説の想像力と創造力が事態を構築しているといえるのだ。痛く、辛いが小説を読む愉しさに出
会わせてくれる。それを「愉しさ」といっていいのだろうか。いや、どのような状況が描かれていてもしっかりとした小説を読
むことは愉しさなのだ。

この小説は7章からなる。第1章で登場する同じ時間、同じ場所にいた彼ら、彼女たちが、各章での中心人物になる。ハンガンの
小説的挑戦は、この各章で人称を使い分けていることだ。韓国の小説は基本、一人称で書かれるものが多い。三人称の主人公で
あっても、小説で書かれていく語りの人称は一人称になる。例えばAさんが主人公でも、小説の中では「私は」と書かれていく
ことが多い。だが、ハンガンはその人称を使い分けているのだ。
しかも、単に実験のための実験ではない。光州事件に出会った者たちのそれぞれを書き分けることで、共通の時間を生きながら、
共通の暴力を受け、共通の痛みを負った、しかし、個別のかえがたい生を描きだしているのだ。

第1章は、市民に対する軍の鎮圧発砲による大量の死者を安置した尚武館(サンムグァン)から始まる。友を探しに来る中学生の
トンホ。その友チョンデとチョンデの姉のチョンミ。死者を拭きあげ安置する作業を行うソンジュ姉さん、ウンスク姉さん。学生
デモをまとめるチンス兄さん。そして、トンホを迎えに来る母。軍隊は最後の一斉攻撃を始めようとしている。その中で、作者は
中学生のトンホに語りかけるように「君」という人称を使って小説を始める。6章までで、死者の魂となった人称までも使い切って、
このそれぞれが受けた暴力と負った傷を描きだす。ただそれを糾弾し告発するのではない。むしろ鎮魂し、暴力の持つ暴力性の不
条理を見つめる。不条理というよりは異常な条理といえばいいのか、国家の非人道的な合理。そして、その暴力がいかに癒やしが
たく心を痛め続け、それでも人がそれを抱えて生きていくのかを表現していく。人間性の尊厳と人間の野蛮さ。どちらへも裏返る
表裏の危うさと体制の恐ろしさ。個別の生への仮借なき暴威に対する生の静かな問いかけ。

  魂には体がないのに、どうやって目を開けて僕たちを見守るんだろう。

  今、尚武館に居る人たちの魂も、鳥のように体からいきなり抜け出したのだろうか。驚いた
 その鳥たちはどこに居るのだろう。

デモへの圧搾は、鎮圧だけでは終わらない。連行された者たちへの、その人間の尊厳を奪うための狡智で残虐な拷問が待っている。
また、子や知人を失ったものは、その喪失から逃れられない。

  ガラスは透明で割れやすいよね。それがガラスの本質だよね。だからガラスで作った品物は
 注意深く扱わなくてはいけないよね。ひびが入ったり割れたりしたら使えなくなるから、捨て
 なくてはいけないから。
  昔、僕たちは割れないガラスを持っていたよね。それがガラスなのか何なのか確かめてみも
 しなかった、固くて透明な本物だったんだよね。だから僕たち、粉々になることで僕たちが魂
 を持っていたってことを示したんだよね。ほんとにガラスでできた人間だったってことを証明
 したんだよね。

最終章では作者ハンガンとおぼしき人物が語り手になる。ハンガンは1970年光州生まれ。80年の光州事件の時は10歳ほどである。
事件の時はソウルに住んでいる。朝日新聞の書評で蜂飼耳はこう書いている。

  子供の時に生じたこの出来事がいかに深い傷と衝撃に満ちた主題かということは、この小説
 そのものが語る。作家には、いつか書こう、と思うテーマがある。本書はそうした意気込みと
 緊張感を確実に伝える。(朝日新聞2016年12月11日 日曜版読書欄)

全斗煥(チョンドファン)による粛軍クーデター、軍部掌握をきっかけにして起こった民主化運動の象徴的な事件は、「スパイに
扇動された」とされ韓国内では報道管制が引かれる。外信により事件は伝えられ、また、次第に「光州での暴動」とされた事態は、
その規模や内実が明らかになっていく。ハンガンの中でも、長い日月を経て、積み重なるように思いが蓄積していったのではない
だろうか。

  ある記憶は癒えません。時が流れて記憶がぼやけるのではなく、むしろその記憶だけが残
 り、ほかの全てのことが徐々にすり減っていくのです。カラー電球が一つずつ消えるように
 世界が暗くなります。

だが、小説がやって来る。

  始めるのがあまりにも遅かったと私は思った。(略)
  しかし今やって来た。どうしようもない。(252)

そうして、小説はやって来た。

  真っ暗な芝生の下で踏んでいるのは土ではなくて、細かく砕けたガラス片のようだ。

ガラス片を踏みしめながら、だが、確実にやって来た。今、まだ蔓延する暴力の時代の真っ只中に。
問いが残る。

  つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか? 私たちはただ普遍的な経験をしただけな
 のですか? 私たちは気高いのだという錯覚の中で生きているだけで、いつでもどうでもいい
 もの、虫、獣、膿と粘液の塊に変わることができるのですか? 辱められ、壊され、殺される
 もの、それが歴史の中で証明された人間の本質なのですか?
  

冒頭は、2014年のセウォル号転覆事件を連想させた。また、今回の朴槿恵大統領退陣のデモは、ちょうど光州事件の頃学生だった
人の子どもたちも参加しているのではないかと思うと、恨の解消に向かうエネルギーだという気もする。それが朴正煕の子の退陣
に向かっているということに歴史の繋がりを感じた。

それにしても、すごい小説だった。ハンガンは『菜食主義者』を2013年春に読んだときに圧倒されたが、今回はさらに、また心を
つかまれた。

そういえば、テレビドラマの『第五共和国』と『砂時計』、よかったな。



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藤維夫「畠も森も」(詩誌「SEED」42 2016年10月10日)

 | 雑誌・詩誌・同人誌から
決然と決別する。
ことばが美しさを得るときはどんな時だろう。ことばも、花の美しさについて小林秀雄が、
美しい花がある。花の美しさというようなものはない、と語ったように、ことばの美しさというようなものはなく、
美しいことばがあるだけなのだろうか。いわゆる美辞麗句がむしろ輝かず、醜悪であるはずのことばが光りだすときだってある。
ことばの輝きは関係が生みだすものなのだろうか。だが、一方で確実に醜悪なことばというものもあると思う。
それを醜悪と感じる感性の基盤まで考えれば、醜悪と感じること、それさえも、疑わしいのかもしれないが。
詩のことばが、常用のことばに抗ったのと同じように、いかにもな詩のことばを疑いだして、詩語それ自体にも
抗い始めたのはいつ頃からだろう。
と、こんなことを考えるのは、藤さんの詩にあることばが決然と決別して、そのことによって強さと美しさを
獲得しているように感じたからだ。いわゆる詩語っぽさと一線を画し、なお俗語の浸食からも逃れていることばの姿があるからだ。

詩「畠も森も」は、こう書き始められる。

 やさしさに道は続いて
 畠のまわり 樹木には無数の鳥がとまっている
 季節を忘れるはずはなく
 しばしば風は流れて行く
 見慣れた風景の道沿いの
 はるかに遠く駅舎はまだ残っている

流れるようなことばが「はるかに遠く」にある駅舎へと連れていってくれる。これは、今残る駅舎でありながら、
なぜか記憶の中の駅舎のように時間のはるかも感じさせる。だから、次の連がくる。

 少年の若いときは戦しかなく
 畠も森もすでに眠ったままだった
 歳月も痛み
 状況の働く間は短い

過去の時間が流れ込む。しかしこれは今へと繋がる時間の仮借なさも孕んでいる。ことばは平易だが、歳月や状況という、
なにげないことばも詩のことばになっているように感じる。

 生活の倦みと波頭の間遠い舟歌
 時がきて 柔らぎかけた記憶の奪還
 明日も今日も無視することはできそうもない
 とほうもない無限の果てでやはり一直線はかぎりがある
 そしてがばっと跳ね起きるしかないだろう

この連の一行目は不思議な繋がり方をしている。比喩が併置されているのだ。波頭とは寄せてくる生活の倦みだ。その比喩と
比喩されるものを併置して、まだるい舟歌を流す。若いときの戦の季節を抜け、平穏にあって、「記憶の奪還」を果たしても、
それは奪還できるものでありながら、無視することができずに訪れてしまうものでもある。忘れられることの幸せということ
もあって、忘れられないことの辛さもあるのだ。そして、記憶が奪還されるということは、それだけ時間を消費したことにもなる。
若さの戦の季節とは別に、今度は迫り来る時(とき)との日常的な抗いがある。日常の中で、朝起きたくないという実存の延期は
「かぎり」を前にして「跳ね起きるしかないだろう」になる。存在を立ち上げ続ける日常の営為が、実は「もの」的存在を
「こと」的存在にするのかもしれない。

 いまさらよこしまに捩じれようとしても
 多くの四季の流れと同じようにどこかに消えると
 孤独が解消した花の咲く庭には誰もいない

孤独の解消はヒトの不在の中で初めて可能になる。巡るものでありながら消えていく四季それぞれ、ヒトの不在の中で時間だけは
それでも流れる。最終連はこうなる。

 だれもかまってくれない沿道の雑踏で
 どこへ行こう
 巷の終焉を見る前に旅立つ
 火の王国とやらの幻想の
 うすまる肉体の血の流れは早い
 おお今は炎暑の真夏なのだから
 きっとフルートの音色も遠ざかってしまった

畠も森も抜けてしまうのかもしれない。雑踏は終焉に向かっているのかもしれない。それは自身の旅立ちとも重なる。
その前に自らは真夏の孤独の先へと進もうとしている。音のない先へと。
だが、この最終連は詩が復活するように詩語が立ち現れているのだ。詩のことばとなって詩語が再来する。
長い時を経ても、ことばへの信頼が失われていないことを、詩は告げている。
ことばの強度は美しさを支える。
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坂多瑩子『こんなもん』(生き事書店 2016年9月30日)

 | 詩・戯曲その他

坂多さんの詩は、いつも、どこかに連れていってくれる。
連れていかれるのは、とんでもない時空の果てではないのだが、間違いなく、時空の裂け目のとんでもない場所だ。
記憶と今がごっちゃになって、それがそのまま自分と他者とを、かつてと今とに住みつかせる。
 そこでは怖さが懐かしさと共にある。そして、怖さはユーモアと併走するし、ファンタジーは残酷さと同伴する。
坂口安吾の「文学のふるさと」が、彼の「ファルスについて」と表裏の硬貨だったように。突き放される孤独は、
いつか受け入れられる孤独の集積を探して、言葉がプリンとこぼれ落ちる。
そこでは、リアルがいつも反リアルで、「反」といっても、カウンターというよりは「汎」に近くて、それが狭隘な
リアルを穿つ。だから、怖愉(こわたの)しい。
 どの詩にしようかと悩んでしまう。で、やはり冒頭の詩「魚の家」。

  砂場で
  砂を
  掘っていたら 掘っていたら
  砂は
  海の匂いをさせて
  海の底だった

 もう、この冒頭で連れていかれる。どこへ、それはわからない。ただ、「掘っていたら」、「海の底に」連れていかれ
るのだ、しかも「匂い」で。だから砂場はもう、変貌する。砂場は砂場のまま、砂場なのに、海の底なのだ。で、

  そこでは
  父の
  もう
  とけてしまった骨の
  すきまから
  小さな魚が生まれている
  うたうように
  うめくように
  それらは
  ひとすじの道をつくっていく

 ここで、「父の骨」と「魚」が出会う。時間なんていう観念ではない。堆く埋もれ積まれた地平が泳ぎだすようで、
短い行替えが、むしろ切れずに連続を生んで、「ひとすじの道」をつくる。どこへ。次でまた展開する。

  遊んでいた子どもたちが
  帰ったあと
  あちこちに
  砂の家がちらばっていた
  くずれかけた階段の下で
  尾ひれのない
  一匹の魚が空をみている

 ここに何を感じるか。何だか置いてけぼりの魚がいる。魚の孤独があるじゃないか。放たれた魚が空を見ている。
「尾ひれのない」魚。もう泳げない魚か。身のくねくねで進む魚もいるのだろうが。進む道筋を持たない迷子のような魚か。
それともヒトの喩としての魚かもしれない。そうして、いるはずの私はどうなるのだろう、どこにいるのだろうと思っていると、
次の連でさらに連れていってくれる。「あたし」は迷って帰りつくのだ。

  あたしは
  二度も道に迷って
  家に帰った
  台所では
  母が
  魚の頭を落としている
  あたしは
  子どものふりをして
  「タダイマ」といった
  卓袱台のある
  へやに
  父の写真が飾ってあり
  頭のない魚が行儀よく並んでいた
                   (「魚の家」全篇)

 クスッと笑いながら、ドキッとする。この感じにつかまれる。収束しているようで、むしろ開かれる、
この感じが心地よい。
 もう一篇。表題詩「こんなもん」の書き始め。これも引き込まれる。

  すると柩がおいてあった
  蓋をもちあげてみるとくるんとまるめたような肉のかたまりが入っている
  粘土みたいな
  発酵状態がいいのか皮膚はとても丈夫そうでつやつやしている
  しかしこんなものが家の中にあるのはまずい
  まずいものは埋める
                (「こんなもん」冒頭6行)

 と書き始められる。続きを読みすすめたい、でも、ちょっと立ち止まりたい。そんな気分にさせてくれる。
 装幀や文字などといった詩集全体まとめて、創られた世界が魅力的な一冊だった。
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エイミー・ベンダー『レモンケーキの独特な寂しさ』管啓次郎訳(角川書店 2016年5月31日発行)

 | 海外・小説
 他人の痛みが入りこんできて、自身の痛みと反応しあってしまったときに、人はどうやってその痛みを抱え込みながら、
それでも成長していくのだろうか。
 過剰と欠如。適切という状態ははたしてあるのだろうか。
 ボクたちは自分に出会う前に他人に出会ってしまうのではないだろうか。だから、関係の過剰と欠落にいきなり向き合い、
あとから自分を重ね合わせていく。そして、そのずれに突き放されながら、結局、自らを探し始めるのかもしれない。そんな
歩みはじめが再生への希望になるのかもしれない。
 
 と、小難しく考えてしまうのはボクの悪癖だ。
 ひりひりするかなしみが、ユーモアや奇抜な着想、意表をつく比喩、あとがきに書かれている「生まじめな思索とひそかな涙」
などを織り交ぜながら表現されているのが、エイミー・ベンダーの魅力なのだ。

 カバー裏に記されているように、9歳の誕生日にローズは母の作ってくれたレモンケーキを食べて、母の感情を味わってしまう。

  ひと口食べてはこう考えたーうん、おいしい、いままででいちばんおいしい
 ーでもひと口ごとに、不在、飢え、渦、空しさがあるのだ。母が、娘である私
 のためにだけ作ってくれた、このケーキに。

 幸せに暮らしていたはずの自分たちの中に、母の渇望を感じとってしまう。
 この日から彼女は、食べると、それを作った人の感情を看取してしまうという特別な能力を身につけてしまう。工場でそれを作っ
た人がいらいらしながら不満を込めて作ったとか、このパセリを摘んだ人はぞんざいな気分で摘んだとか、

  バターは屋内で飼われている雌牛からとったものなので、ゆったりとした
 味わいに欠けている。卵はかすかに、遠くてプラスティックみたいな味がし
 た。こうした材料のすべてが遠くでぶんぶん唸るような音を立てていて、ぜん
 ぶを混ぜてドゥをこねた職人さんは、怒っていた。

といった具合に。
 彼女は食べものが食べられなくなる。むしろ自販機の食品の方が彼女には食べやすいものになる。ローズは、この秘密を兄の友人
ジョージ以外には内緒にして生きていく。
 そして、成長していく過程で母の秘密に気づき、父の持つ距離感に迷い、失踪を繰り返す兄が持つ世界との違和に出会ってしまう。
それは、自分自身の世界との違和感にも繋がる。

 小説はローズ9歳から10数年間の成長を追っていく。ローズがどうやって、この特殊な才能と折り合っていくか。家族皆が抱えるかなしみを、
どう受けとめていくか。そして、また兄のジョゼフが比較されるように綴られていく。神童のような才能を持ち、母の期待と愛情を一身に
受けながら、失踪を繰り返す兄。謎めく兄の秘密も面白い。ローズとジョゼフ。二人の姿に現代を生きる姿が宿っているように思う。
 うん、少しニュアンスは違うけれど、カバー裏にある言葉が示すように、
「生のひりつくような痛みと美しさを描く、愛と喪失と希望の物語」だ。じわりとほのかに、だが。
そして、それが、ベンダーの魅力であり。

 ジョゼフについてが特にそうだが、解読や解説をしていかないのが、いい。だから、読者は、ひとり静かに、あるいは人と語らいながら、
小説の背後を想い、自分の想像力を付加していける。余地がある小説っていいな、やっぱり。


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ボブ・ディラン『ボブ・ディラン全詩302篇』片桐ユズル 中山容訳(晶文社)

 | 詩・戯曲その他
 ノーベル文学賞にボブ・ディラン。あるかもと思う一方で驚いた。「文学賞」の「文学」ということを考えると画期的かも。
文学は、どこか、書かれた言葉「エクリチュール」として評価されるのかなと思っていたので、ちょっと驚きが倍加されたのか
もしれない。もちろん選考には詩の文学性とある。
 で、朝日新聞の記事を読んで、ふむふむと。そうか、英詩の伝統を踏んでいるんだ。名前の由来はディラン・トマスだったの
だと。ファンの人には今頃気づいたのかと言われそうだが…。他紙もひとつ読んだが、朝日の記事のビートニクの詩人との交流や、
「歌詞」へのこだわり、「文末だけでなく文の半ばにさえ韻を踏む」といった紹介に出会うと、なるほどと思ってしまう。確かに、
ディラン・トマスやエリオットっぽいところ、ジェームズ・ジョイスみたいなところもあって、それが歌詞の構図にはまっていて、
同時に私と虚構の主人公を往き来する感覚や語りに徹した感覚などなど詩が現実との接点で、現実を問うている。
 登場人物に名前を持った市井の人物や鬱屈した人物、固有名詞が多いのもイギリス、アメリカの詩かなと思わせる。
 また、新聞には「古代詩人と同じ手法」と書かれていたが、確かに曲に載せるのは古代ギリシャの詩人や吟遊詩人の手法だ。
 やはり、「風に吹かれて」かな。

 どれだけ道をあるいたら
 一人前の男としてみとめられるのか?
 いくつの海をとびこしたら 白いハトは
 砂でやすらぐことができるのか?
 何回弾丸の雨がふったなら
 武器は永遠に禁止されるのか?
 そのこたえは、友だちよ、風に舞っている
 こたえは風に舞っている  (片桐ユズル訳)

 調子に乗って、朝日新聞の湯浅学の訳。
 どれだけ道を歩けばいいのか? 一人前の男と呼ばれるまでに。
 いくつの海を白い鳩は渡らなければならないのか? 砂浜でやすらぐまでに。
 何回砲弾が飛ばねばならないのか? 武器が永久に禁じられるまでに。
 その答えは、友よ、風に舞っている。答えは風に舞っている
 
あとひとつ。西日本新聞のAPと共同通信の配信分。
 いくつの道を歩けば
 一人前と認められるのだろう
 いくつの海を越えれば
 白いハトは砂の上で安らげるのだろう
 何回砲弾が飛び交えば
 永遠に禁止されるのだろう
 友よ、答えは風に吹かれている
 答えは風に吹かれている

で、英詩。
 How many roads must a man walk down
 Before you call him a man?
 Yes,’n’ how many seas must a white dove sail
 Before she sleeps in the sand?

manとsandが韻を踏んでいるのかな。これはそのあとの連のbannedという言葉とも韻を踏んでいる。
それとhim a manがhi ma manの音並びになるし、3行目からのs音の並びがいいのかも。
 『血の轍』から。
  「われわれをひっぱりこんだのは重力でひきさいたのは運命だった/きみはおれのオリのなかのライオンを手なずけただが
  こころまで変えるにはいたらなかった」(片桐ユズル訳「白痴風」)
  「地平線の鳥が垣根にとまって/おれのために歌ってくれる お礼もうけず/おれはあの鳥とおなじだ/きみのためにだけ
  うたう/のが聞こえるはずだけどな/涙にくれておれがうたうのが」(片桐ユズル訳「きみは大きな存在」)

 あっ、あの声が聴きたいと思いながら、ちょっとの間、詩を追いかけてみた。もちろん、「風に吹かれて」だと、もうあの声が
耳から離れないのだが。
 たぶん、これまでのノーベル文学賞受賞者の中で最も名前を知られた受賞者だと思う。
文学って何という問いもあるが、それはさておき。
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『おとなの釜山 歴史の迷宮へ」(書肆侃侃房)

 | Weblog


妻との共著で、
『おとなの釜山 歴史の迷宮へ』という旅行本を出版しました。
釜山とその周辺を旅して書いた旅行ガイドです。
韓国のソウル本はたくさんありますが、釜山や韓国南部での一冊本というのはほとんどありません。
豊富な写真に文章も満載。食事と観光と韓国寺院を中心にした内容です。
内容は2章立て。
「第1章 釜山へ度々」では、甘川文化村や釜山の坂めぐりなどから、金井山城、東莱邑城、などなどを巡ります。
エステや買い物とは違った釜山観光の楽しみが溢れています。
「第2章 釜山から旅々」は慶尚南道、全羅北道、慶尚北道、全羅南道を訪ね歩きます。案外行きやすい韓国の地方都市。
そして、その地方都市が持っている様々な顔に触れてみてください。
お寺もいろいろ訪れました。
梵魚寺、龍宮寺、海印寺、通度寺、松広寺、仙巌寺、華厳寺、仏国寺など、韓国寺院はそれぞれが魅力的。
その魅力が伝わればうれしいのです。
はずせないのが、食事。赤一色、辛いだけではない韓国料理のおいしさを味わっています。
特に食の宝庫と言われる全羅道の食事は考えただけもゴクリとのどが鳴ります。

眺めても読んでも面白いものになっているのではと思っています。
そして、行ってみたい、また行きたいと思ってもらえれば、大満足です。ぜひぜひ手に取ってください。

大手書店や下記URLでご注文ください。アマゾンでも買えます。
http://www.kankanbou.com/kankan/index.php?itemid=735
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アンドレアス・セシュ『囀る魚』酒寄進一訳(西村書店)

 | 海外・小説
いやー、面白かった。書名に惹かれて読んだ一冊。物語の物語というのだろうか。物語をめぐる物語とでもいおうか。

  よりによって書店で火がつくとは。

という書き出しで始まる物語は、書店で火がつく、書店に、書物に、物語に恋する物語だ。そして、物語のヒロインへ
の思いに火がつく小説だ。

内気な少年ヤニスはアテネ旧市街の古びた書店に迷い込む。

  かすかに音をきしませて、古い木の扉が開いた。
  そしておそらく新しい人生も開かれる。おそらく、というのは扉をくぐるとき、
 その奥でどのような転機が待ち受けているか、だれにもわからないからだ。

書店の扉を開いた彼は、読書好きが書物を開いて様々な世界に出会うという扉を開くように、彼の物語に出会っていく。
それは、すでに語られた過去の多くの物語に出会う旅でもある。様々な書物に出会いながら(この本で出てくる書物一覧
が最後に紹介されている)、彼は神秘的な女店主リオと、読書の愉悦や物語の構造や働きを語り合っていく。
例えば、

 「書物が天地創造に等しいなら、この世界は最高の本ということになるかもしれません」
 リオは言った。
 「だとしたら、だれが書いたのでしょう?」(略)
 「さあ」リオは考えるそぶりをした。「創造物自身が先を書きつづけるのではないでしょうか」

とか。

 「文字は時を超える最強の力と言えるでしょう」

とか。また、こんな言葉だけではなく、詩的であったりイメージ豊かな表現であったりが散りばめられている。
こういう言い回しもあった。

  もしかしたら人生の四十四頁で眠ってしまい、夜中に運命が頁をめくったのに、人生は四十五頁へ
 と進まず、四十四頁の最終行にとどまっていて、勢いをつけて次の頁へと助走している、そんな状況
 かもしれない。

や、

  太陽が沈み、世界に謎がひとつ増えた。

物語は、古今の物語表現を駆使しながら、作者の繰り出す表現に乗って進んでいく。失踪したリオを探すヤニス。
彼女は誰なのか。ヤニスとリオの物語は、もうひとつのストーリーの流れであるアーサーの物語と重なっていく。
そこには様々な文学上の虚実が織り込まれる。そして、ついには神話的世界にまで至る。
結果、この『囀る魚』という小説自体が、物語の虚実を面白いように溢れさせた物語になる。

物語が生み出すものは、物語なのだ。つまり、世界を出現させるのだ。そこではリアルは虚構の中に住む。

 
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