パオと高床

あこがれの移動と定住

井本元義『ロッシュ村幻影 仮説アルチュール・ランボー』(花書院 2011年10月20日)

2012-05-27 17:45:00 | 国内・小説
帰還にかける思いとは何だろう。
奪われた帰路がある。そこでは、帰ることへの強い思いが宙づりにされている。
だが、帰路は、断念の導く結論でもあるのだ。または、断念自体が帰路につくのかもしれない。それは、地理的故郷へであるかもしれないし、精神の帰郷かもしれない。その道筋は、ある者の帰郷のあとを辿る自分自身の帰還の道筋となる場合もある。

 よく旅をするんだってね、帰ってきたらいつでもここにおいでよ。
 お帰りなさいと言って私が迎えてあげる。
                (「その日のアルチュール」)

迎える者はこう語る。だが、戻る者は、帰路の前にあって自分自身を抱きしめる。

 何かから逃げるためにさすらうのか、それとも何かを求めて未知の街
 へ足を踏み入れるのか。何もない。虚しいだけだ。悲しみはもう思い
 出さない。悲しみが浮かんでこようとすると、それはいきなり彼(ラ
 ンボー)を打ち倒さんばかりの頭痛になって襲ってくるのだ。
                (「その日のアルチュール」)

帰路をたどる帰路になる。しかし、それは、常に同じ場所へではない。ずれながら回帰する。何故か。同一の地点などないからである。また、同一性には回帰できないからである。ジル・ドゥルーズは『ニーチェ』の中でこう書いている。「〈同一なもの〉は回帰しない、ただ回帰することのみが、生成しているものの〈同一なこと〉なのである」と。ものではない、ことなのだ。さらに、事態は回帰することであって回帰するものではない。帰路をたどろうとする自らは決して自らとの同一性を保証されることはない。それは同時に他者への回帰を図ろうとする場合にもそうである。作者の井本さんは決して自身の過去に同一化できない、それはランボーの過去に同一化できないことと同様であり、それはまた、ランボーがランボーの過去に同一化できないこととも同様である。
つまり、歴史的記載は変更される。アルチュールにとっての「その日」は、ずらされる。ずらす手法が、井本さんにとっては小説化だったのだ。そうすることでしか、ランボーには辿り着けない。つまりは自分自身へも辿り着けない。そこに小説が生まれる。
そして、ランボーの夢の残滓に、作者は夢の形象を見いだそうとするのだ。作者の耳元には囁く声が聞こえる、「ランボーは生きている。ランボーは死んではいない。ランボーは夢の残滓に溺れながら、おめおめ生きなければならない」と。
そして、四つの小説が生みだされた。ランボーを、作者自身のランボーを、生かすために殺さなければならないとして。解放するために小説の中に閉じこめるように。それは、作者が作者自身を生かすために小説の中に封じようとした行為だったのかもしれない。

創意溢れる小説は、時に散文詩のような文体で書かれている。4つの小説は独立しているようで、絡み合っている。各作品には「一」から「四」までのノンブルが打たれているのだ。

冒頭は、ランボーの足跡を追ってシャルルビルに行き、さらに「地獄の季節」を書いたロッシュ村を訪れる「僕」を描いた「ロッシュ村幻影」。この小説では、ランボーが宮沢賢治と対話するという「幻影」が書き込まれる。「僕」は限りなく作者に近い位置にいる。全体のプロローグのような配置である。

次の「その日のアルチュール」では、1880年のアデンへの旅立ちを起点にして、その旅立ちの前に過去を回顧するランボーを描く。詩が溢れる日々。だが、その中でむしろ拘束され、失意にさいなまれ、「見者」の不幸を生きるランボーが現れる。この小説の最大の「幻影」は、コミューンの中で現れる父の幻影である。小説は時間を遡行する手法で描きだされる。過ぎてしまう過去の仮借なさに抗いながら、精神が肉体共々、拘束を解き放とうとする姿を、作者は痛みを伴って表現する。なぜか、すでにそこに結論が置かれているからである。昔の映画の題名ではないが「あらかじめ失われた」ものへの思いが、今なおある「私」の中に充溢しているからである。

そして、三つ目の「ヴォンク駅から」。1891年、死を前にしたランボーが描かれる。アフリカからの帰国の時が幻想される。ここでの「幻影」はランボーその人である。作者は伝奇作家の面持ちで、ランボーを史実通りには殺さない。人はその人の過去を生きられないように、人はまた他人の過去を生きられない。だが、むしろそのことは、歴史的事実とされたものからのずれや逸脱を可能にする。想像力はそこに賭けられる。83歳まで生きたランボーを幻想する。そして、アフリカでのランボーを想像する。詩の先にあった単調な日々を、その日々が何であったのかを、それは死によって生まれた時間だったのかを、問いながら想像する。作者自身が「あとがき」で書いているように「ハラルでの十一年間の闇、そこから発せられた数多くの手紙こそ、文学の最高峰のひとつである、と僕は思う」ということを、創作を通して検証するように、作者は想像する。これは、作者にとっての実業の日々と重なる思いがあるのかもしれない。

そして、四つ目の「エピローグ」となる。一つ目の小説では作者に近かった「僕」は、ここでは装置としての「僕」として虚構の時間を生きている。この「エピローグ」の僕が「その日のアルチュール」と「ヴォンク駅から」を書いたと設定されるのだ。そして、「僕」はエチオピアのハラルに行く。すでに死んだランボーは、ハラルに棲む「曾お祖父さん」という「幻影」として現れる。この「僕」が追うランボー。作者は「僕」を追いながら「ランボー」を追う。距離のからくりがこの小説には宿っている。虚構が虚構を欲するという、極めて自然な連鎖が、この「エピローグ」を生みだしている。それは現実の時間に対峙する想像力の生みだす夢の時間なのだ。
僕らは重なるような夢の襞の中で生きている。それは彼が見た夢でもあり、僕が見た夢でもあるのだ。そして、決して出会うことのない僕にとっての「あなた」の夢でもあるのだろう。

過去の時間の中に置き去りにしてきた忘却の時が、辿り着けない帰還の道を敷設していく。
そこには記述された言葉の軌跡が刻まれている。


  詩を書くのをやめて八年、二十七歳からのランボーの人生のイメー
 ジが激しく僕を打ちのめすようになったのは何時の頃からだったろう。
 紺碧の空と海の間にきらめく大理石の石切り場。すべてを枯渇させる
 灼熱の太陽と砂漠の無味乾燥。瞬時に蒸発する水分。あるいは蒸し暑
 い澱んだ空気の中に浮遊する糞尿の匂う住まい。裏切り者から与えら
 れる屈辱。未開の地、ハラル。なぜ彼はそこで生きるのか。生きねば
 ならないのか。僕には何故かそれが分かるのだ。僕は彼がいとおしい。
 痩せこけて日焼けした狡猾な眼の男。苦悶と苦痛のうちに泣きながら
 死んでいく男。僕は彼の悲しみを美しいと思いそれを愛する。そして、
 百年経った後、想像の中でしか彼を愛せない自分が悔しい。
                  (「ロッシュ村幻影」から)

  絶対感覚を抹消するためにだ。それは解放されることだ。灼熱の太
 陽と熱風とでそれらを焼切ることだ。純白の雪の奥深くに凍結させる
 ことだ。ついに彼の解放はすべての感覚を抹殺することだと結論づけ
 られる。肉体を酷使することだ。もはや言葉は必要ない。一体の肉体
 として生きる事だ。定住し沈黙のうちに滅びていくことだ。ハラルの
 日々を送ることだ。
                  (「エピローグ」から)


博多座公演「ラ・マンチャの男」

2012-05-24 01:42:28 | 雑感
松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」を観る。
ミュージカルの世界に浸ることのできた2時間数分だった。

さすがに脚本がよくできている。囚われたセルバンテスが、牢獄の中で囚人達と即興劇を行うという、劇中劇の構造が採られている。劇中劇は、それこそお芝居ではよく使われる手法だが、ペーター・ヴァイスの「マラー/サド」を思いだした。この二重構造は、セルバンテスや囚人達の置かれた時代状況とその中で演じられるドン・キホーテ劇の状況の両方を描く。そうすることで、夢と現実、現実と虚構を劇の構造自体が示し、苛酷な現実の中で夢を見る想像の力を語りかけてくるのだ。
そこにさらに、劇中劇の中のキハーナが「妄想」の中でドン・キホーテになるという構造が入り込む。キハーナの現実と夢が交差するのだ。これは、テーマ曲の曲名通り「見果てぬ夢」の連鎖を作る。そして、騎士となって遍歴をする夢への遍歴を示しているのだ。
また、囚人達は、演じることで、囚われているという自分たちの現実から離れようとすることになる。彼らもまた、即興劇の間は、夢見る人々になることができるのだ。そこで、彼らにも、「見果てぬ夢」を歌う資格が、欲求が、与えられる。
松たか子演じるアルドンサにも、この構造は効果的に生かされる。劇中劇では旅籠の下働きのアルドンサは、ドン・キホーテの妄想の中でドルシネア姫になる。アルドンサはありえないと思いながらも、ドルシネアに自分の夢を重ねていく。それは、もともと囚人であった女が、アルドンサの役を通して見ことができた夢の形象になっているのだ。
そして、「見果てぬ夢」の歌詞が響いてくる。

 夢は稔り難く
 敵は数多なりとも
 胸に悲しみを秘めて
 我は勇み行かん

現実に対峙するには夢の力が大切なのだ。人は想像力で生きる動物なのかもしれない。

演出は随所に歌舞伎の手法を取り入れて、様式をうまく使っている。また、立体性に優れた博多座の縦の空間を使った舞台セットはよかった。
サンチョ役の駒田一がいい味を出していた。この劇では、サンチョの出来が、面白さに大きく作用すると思う。このサンチョは魅力的だった。
松本幸四郎については、もうわざわざ言うまでもなく、上条恒彦は相変わらず魅力的な声を出してくれる。そして、そして、松たか子。この人は怪物だ。

辺見庸『眼の海』(毎日新聞社)

2012-05-01 10:03:15 | 詩・戯曲その他
詩集は、Ⅰが「眼の海」、Ⅱが「フィズィマリウラ」という二部構成である。
冒頭の詩「水のなかから水のなかへ」は、こう書き出される。

 半世紀まえ
 眼にまつわったひとつぶの予感の涙から
 海がうるんで浮かんだ
 海は暗い底にびっしりと声たちをしずめていた
 声たちはそれぞれ整うたことばではなく
 未生のことばであった
 海の底 おちこちに声はあり
 涙のかなたで
 槐の葉叢のように声はしげった

過去の時間のなかで、沈み潜った言葉の群れが、密かに未来へと語りかけていく、その途上で、言葉は断絶する。

 過去は水中に浸り
 叫ぶ声たちを介し
 未来とゆらゆらひきあった
 涙のかなたの予感の海で
 槐の葉叢のように死者はしげった
 水のなかから水のなかへ
 水のなかから水のなかへ
 声たちはうるんで谺した
 半世紀まえ
 声たちの谺はことばをもとめてふるえた
 涙のかなたの予感の海で
 槐の葉叢のように谺はしげった
 水のなかから水のなかへ
 水のなかから水のなかへ
 断たれた死者は断たれたことばとして
 ちらばり ゆらゆら泳いだ
 首も手も足も 舫いあうこともなく
 てんでにただよって
 ことばではなくただ藻としてよりそい
 槐の葉叢のように
 ことばなき部位たちが海の底にしげった
 水のなかから水のなかへ
 水のなかから水のなかへ
 眼にまつわったひとつぶの涙のむこうで
 青い死者の群れは
 鬱蒼としげった
          (「水のなかから水のなかへ」一部略)

しかし、その断絶した言葉、海に沈んだ言葉を辺見庸は手繰り寄せようとする。彼は、まず、見えない者を、見ようとされない者をまなざす。そして、断絶した、失墜した言葉を築きあげようとするのだ。それは「眼」の海でありながら、実は、聞くことなのだ。水のなかの声を聞くこと、時の中の声を聞くことなのだ。だが、聞くことは語ることである。沈黙に耳を澄ます。そこから聞き取るためには語らなければならない。聞こえてくるのは、自身の声である。自身の声を聞きとりながら、死者の声を聞く。歴史の声を聞く。そして、時代の声を聞く。それは声高に語られる報道の声ではない。政治の声ではない。徹底的に個人の声である。何ものかによってしつらえられたものではない、個人の声を模索する。

 わたしはずっと暮れていくだろう
 繋辞のない
 切れた数珠のような
 きたるべきことばを
 ぽろぽろともちい
 わたしの死者たちが棲まう
 あなた 眼のおくの海にむかって
 とぎれなく
 終わっていくだろう
          (「眼のおくの海-きたるべきことば」最終部分)

 こうして水中都市はできた
 友らはとことわの底から
 ときおり
 たまゆらの水面をぼんやりみあげている
          (「こうして水中都市はできた」最終部分)

鎮魂を辞書の意味通り、死者の魂をなぐさめ、しずめることと捉えれば、そんな鎮魂自体を辺見は拒絶している。だが、死者をまなざし、彼らの生と彼らを生かし、また死なしめた一切を捉えようと格闘しながら、私たちの現在を問い。表現する言葉にこもる精神が、鎮まらぬ魂に向き合い、魂を抱えこもうとする意味での、激烈な鎮魂が、ここにはある。そして、鎮魂を、崩れた言葉の構築と重ねていくところに詩が滲みだしている。これらの詩群を支えているものは、悼みとしての鎮魂ではないのだ。生から死に移る距離への冷静な視線、死者の存在への幻視、圧倒的な自然の力と人間の力への判断、さらに状況として常にある現代の危機への認識が、辺見庸の生きてきた時間の記憶と相乗されて、詩に強度をもたらしている。その強度が詩を支えているのだ。死者を死者として生かしめる言葉。生者が都合によって絡め取らない死者の言葉。むしろ、それは生者へと迫真する言葉であるのだ。
だから、彼はこう書くことができる。
数ではない、ただ群衆ではない個人への思いをこう刻み込む込むことができる。

 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを
 百年かけて
 海とその影から掬え
 砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
 水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
 石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
 夜ふけの浜辺にあおむいて
 わたしの死者よ
 どうかひとりでうたえ
 浜菊はまだ咲くな
 畔唐黍はまだ悼むな
 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけのふさわしいことばが
 あてがわれるまで
          (「死者にことばをあてがえ」全篇)

と同時に、表題詩「眼の海」も書きうるのである。

 無のはたえの
 眼のうら
 びょーびょー
 風吹いた
 雪片よこざま
 飛んだ
 花吹雪
 眼のおく
 水銀の天穹
 死の舞いをさいごまで舞っていた
 カモメついに息たえて
 波間におちた
 眼のおくのおく
 弓なりの空隙
 とぎれなく
 横に一線
 縫い目のような
 死んだカモメ、トビ、カラス、シギ、サギ
 死んだアホウドリ、カツオドリ、ネッタイチョウ
 ぷかぷか浮かんで
 待っていた
 これ 終わりの海の儀礼
 これ はじまりの水の奔騰狂癲
          (「眼の海」全篇)

死者の眼になろうとしている。しかも、もうひとつ大きな視線も感じられる。
Ⅰの「眼の海」が27篇。Ⅱの「フィズィマリウラ」は24篇で、初出一覧を見ると、Ⅱは全篇書き下ろしとなっている。
「フィズィマリウラ」とは、詩「みぎわを暮れがた音もなくすべっていくもの」に拠ると、

 きまったなまえはなかった。
 「フィズィマリウラ」と呼ぶものがいたが
 一般に「あれ」とのみいわれた。
        (「みぎわを暮れがた音もなくすべっていくもの」一部)

というもので、「いわれた数だけそれぞれの形があって」、「さだまったそれだけの形は」ないものである。うわさがうわさを呼ぶ。そして、「語ろうとして語りえないもの」なのだ。ただ、

 それでも、
 みぎわを暮れがたに
 音もなくすべっていくふたしかなものは、あった。
      (「みぎわを暮れがた音もなくすべっていくもの」最終部分)

となる。それに導かれるように、その世界の実相がそれであるように感じながら、僕らは、言葉を、つまりは世界を、生きていく。Ⅱ部の詩篇には、その破滅的光景と可能性が込められているように感じた。Ⅱ部の詩篇で、さまざまな時代、さまざまな空間の災厄が、今、僕たちが生きている世界の危うさに吸引される。

 ―アマンに雪はふらない
 その存在比を自然のそれよりも
 ずいぶん高くしてみることを
 ちょいとおもいついたとき つとに
 時制はかき消え
 フィズィマリウラの誕生が
 アマンのコビトの預言者たちにより
 くりかえし預言された

 フィズィマリウラは結果でも
 過誤でもなく
 つきるところ
 とりとめのない本然であり
 幻影ではなく
 おそらくこれがわたしらの
 現在の真景である

 その存在比が高められるとともに
 わたしらは ついで
 みずからの影と
 夜とをうしない
 意味の芯をひきぬいた
 そして思念なき海盤車のように
 価値なき海を泳ぐともなく泳いでいる

 世界にはもう現在がない
 世界にはもはや思惟する主体はない
 世界はなにも包摂しない
 世界はなにも内包せず
 なにものにも包摂されていない
 主体はもうない
 ことばは徒労の管足系として
 無為全般を司る
 世界はしたがって ない

 海盤車は在る
 世界は ない
 刺細胞は在る だが
 弁証法は消えた
 海盤車には終わりがある
 刺細胞も死ぬだろう
 世界は だが 永遠に完了しえない

 ヒトはまだ在る
 現存するヒトとは
 疾病の諸現象の謂いである
 終宿主もヒトである
 ヒトという現象は だが
 もう少しで終わる
 痕跡はのこらない
 フィズィマリウラが
 癒しの秘跡を
 しきるかもしれない

 アマンのコビトの預言者たちは
 いま預言している
 ―アマンに雪が降る と
           
         注 アマン エチオピアのとても小さな村
          (「フィズィマリウラ」全篇)

この世界の暴力的な滅亡のイメージの中で、その壊滅の先にさらに奇跡への隘路はあるのかもしれない。そう、エチオピアのちいさな村、「アマンに雪が降る」ように。あるいは、同時に、たぐり寄せ、包摂できない未来の像が、そこにはあるのかもしれない。そう、「アマンに雪が降る」ような。