パオと高床

あこがれの移動と定住

加藤千洋『胡同の記憶 北京夢華録』(平凡社)

2007-09-30 11:29:29 | 国内・エッセイ・評論
作者は「報道ステーション」でニュースを解説する加藤千洋。北京への思いが沁みている文章だ。八年間の中国滞在時に特派員として関わってきた出来事や外国人として町中を歩いて感じ取ったことなどが、整理されながら情感が消えていない文章で綴られる。80年代、90年代の激変する中国を、『胡同の記憶』という書名通りに時間を封じ込めながらコラムにしている。ここには現代中国の歴史が刻まれた現場がある。知識人との交流や市井の噂への聞き耳、事件へのフットワークや北京の町歩きの見聞と、大きな政治の動きと人々の日常の暮らしの双方が町の中で共存している様が感じられる。
中国に暮らす二人の日本人との出会いに見る時代の重さや、天安門事件の渦中の町中の雰囲気を伝えるコラムの一方で、鍋料理やお茶の話の楽しさもあり、それぞれのコラムがこちらの好奇心をかき立てる。
清朝末、日中戦争、太平洋戦争、共産党と国民党の争い、文化大革命から第一次、二次天安門事件、改革開放時代と現代中国の歴史の刻印が北京の街に刻まれていることが伝わってきた一冊だった。文革の傷跡と89年天安門事件に関するコラムは特に胸に残った。
それから、写真がよかった。

オリンピックに向けての開発で、さらに北京は変わっているんだろうな。北京に行ったのは三年前の夏だった。北京に行きたいという気持ちが強くなった。お盆や正月以外に行ってみたいのだけれど・・・。



内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)

2007-09-14 01:16:33 | 国内・エッセイ・評論
「まえがき」に従えば、レヴィナスとラカンという「分からない二人」を並べることで「同じ種類の難解さ」を相手にしていることに気づき、共通する「分からなさ」が読解の手がかりをあたえてくるということになる。ただし、「縮減する読み」を自制しながら。
この著書、表現は極めてわかりやすい。しかし、そこに展開されるレヴィナスとラカン、とりわけレヴィナスの思考は、ある理解を超える。それは、記述が難しいのとは違い、そもそも、その思考が困難と向き合っている難解さなのかもしれない。僕らのパラダイムが改変され、疑われ、しかもそこに向かう指標が示されながら、その理解は既成のものから枠組み自体が違っている。
謎が解決されるわけではない。ただ、その謎の起こる必然性と謎の位置と意味するものが語られるのだ。
「ホロコースト」以降の思想が担わなければならない、それ以前への反省と宿命が、「私」という主体を中心に考えられてきた西洋思想に迫る苛烈な転回を、レヴィナスが引き受けているということが、本書からこれまた迫ってくるのだ。
レヴィナスの本を一冊読んだとき、そこにあるピュアな苛烈さのようなものと沈潜した緊張感に魅力を感じた。この本にも、それが溢れている。差し挟まれた引用の持つ緊張感が、内田樹の師弟論を実践するような語り口で連鎖されていく。他者の他者性。生を生きるという言い方の孕む問題。前言撤回。遅れ。有責性。私はここにおります。私に収斂するのではないオデッセウス的帰還ではないあり方。存在するとは別の仕方。おのれを示さない或るものが、おのれを示す或るものを通じて、おのれを示す。などなど。他者・死者をも含めた死者をして死なしめる思考の倫理(?)、責任が、大きな巨人の影となって覆ってくるのを感じた。
作者は、小林秀雄賞を受賞した。この賞はなかなか面白い人が受賞しているような気がする。同じ作者の『街場の中国論』のいくつかの章を読んだが、ナショナリズムの部分など面白かった。政治が正確と個性を持っているということがわかる思想史的、文学的著書だった。



黄山に行く

2007-09-08 08:34:24 | 旅行
中国の行きたい場所リストに入っていた黄山に、この夏、行った。もちろん、季節からいっても、雲海は無理だったが、山水画に描かれる山容と松が、現実に、そこにあった。写真などを見て抱いていたイメージは裏切られなかった。
奇岩累々。それに、黄山松と呼ばれる松が様々な枝振りを見せる。峻厳な岩肌に松が手招きするように貼り付いている。
いくつもの峰を縫って、石段が、うねうねと続く。歩いているときは気づかないが、振り返ってみると空中回廊とでも言えそうな感じで、山肌に石段が張り出しているのがわかる。よく穿ったものだ。
少し歩いては、木陰で休む。ひんやりした山の空気に心が洗われる。
仙境。でも、人気スポット。旅行者は多い。ただ、もっと雑踏化しているのではないかと思っていたが、そこまではなかった。人のペースではなく、自分のペースで移動することができた。
三基のロープーウェイにも乗ったし、朝日を見ることもできた。足にはちょっとこたえたが、いい景色を味わえた。