隊員NO.1いぶで~す
11月7日(木)の加賀市観光ボランティア大学第15回講座 「加賀の源平合戦
-木曾義仲・実盛・仏御前・義経-」で、講師の竹本利夫先生から、「篠原の戦い」に
ついて教えていただきました。
加賀市には、首洗池・実盛塚・木曾街道など源平合戦ゆかりの地や手塚町・源平町
など「源平合戦」と関係する地名が沢山あります。それでは、「篠原の戦い」って
一体どんな合戦だったのでしょうか?
篠原の戦いは、1183(寿永2)年6月22日、現在の加賀市篠原町で源義仲軍と平氏軍
との間で行われた合戦です。1180(治承4)年に以仁王(後白河法皇の息子)の平氏
追討の令旨(りょうじ)が出され、平氏に不満を持つ全国の武士が蜂起しました。
とくに信濃で挙兵した源(木曾)義仲はまたたく間に越後や北陸を平定し、その勢いが
まるで朝日が昇るようだったので、「旭将軍」と呼ばれるほどでした。そこで、平氏は
北陸に10万の兵を繰り出します。その際、加賀市黒崎町に源(木曾)義仲を迎え撃つ
ため、陣を張ったといわれ、今は松林となった一帯は「平陣野(へじんの)」と呼ばれます。
そして1183年6月2日、富山・石川県境の倶利伽羅で合戦が行われました。兵の数で劣る
源(木曾)義仲でしたが、人望があったのでしょう。地元の地形に詳しい武将の情報を得て、
巧みに夜中の戦いを仕掛け、有名な「火牛の計」で、平氏軍を総崩れにしたのでした。
篠原の戦いは、敗走する平氏軍を源(木曾)義仲軍が追撃し、篠原の地で平氏軍を捉えて
行われたものです。そのとき平氏軍はほとんど交戦能力を失い、惨憺(さんたん)たる
状態で逃げだし、義仲軍の圧勝でした。
そのような中で、勇敢にも最後まで戦った平氏の武将が斎藤実盛(さねもり、1111~83)
だったのです。自陣が総崩れする中、最後尾の守備を引き受けた奮戦ぶりは、『平家物語』や
『源平盛衰記』で描かれ、実盛が義仲が2才の時に、木曾へ逃がした恩人であった逸話は
世阿弥の能『実盛』に伝えられました。
手塚町の「首洗池」は、そんな斎藤実盛の首を洗った池であるといわれています。