実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「篠原の戦い」・斎藤実盛は木曽義仲の命の恩人でした!

2013年11月20日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

11月に行われた2回の加賀市観光ボランティア大学 

加賀の源平合戦」について勉強させていただきました。

寿永2年6月1日(西暦1183年6月22日)の「篠原の戦い」は、

斎藤実盛が潔い武士の最期を遂げた戦いとして知られ、現在でも

加賀市には、首洗池」や「実盛塚」が残っています。

斎藤実盛は、1126(大治2)年に越前国南井郷(いまの丸岡町)で斎藤則盛の

子として生まれ、同族の武蔵国長井荘(いまの埼玉県熊谷市妻沼町)斎藤実直の

養子となりました。彼の名前は、養父・実直の「実」と実父・則盛の「盛」から名付け

られたものです。

彼が長井斎藤氏の当主になった頃、関東では相模国の源義朝(源頼朝の父)と

上野国の義賢(木曾義仲の父)兄弟による源氏の棟梁争いが起こっていました。

そして1155年には、義朝の子・義平が義賢を殺害し、部下の畠山重能に義賢の子

で、当時まだ2歳だった駒王丸(のちの木曾義仲)を殺す命令を下したのです。

そのとき畠山重能が「まだ2歳の駒王丸をどうしたらよいか?」と相談したのが、

斎藤実盛でした。源義朝に従っていたものの、地理的なつながりから

義賢にも恩義を感じていた斎藤実盛は、しばらく駒王丸をかくまった上、

信濃国木曽の中原兼遠(かねとう)に駒王丸の養育を託したのでした。

その後、駒王丸は木曽で成長し、木曽義仲を名乗って、1180年には源頼朝と

同時に平家打倒の旗を信濃国からあげることになりました。

一方、斎藤実盛はその後、源義朝の部下として、保元・平治の乱

(1156年・1159年)で戦いましたが、平治の乱で源義朝は平清盛に敗れ、

命を落とします。そのことにより、平家全盛の時代が訪れ、

長井荘も平宗盛(清盛の子)の所領となったことから、斎藤実盛

平氏の武将となっていくのです。

運命とは皮肉なものです。平氏の一員となった斎藤実盛は「篠原の戦い」で、

源氏の木曾義仲と戦うことになりました。しかし、斎藤実盛自分が木曽義仲

命の恩人であったことを一切明かさないまま、自らの郷里・北陸での戦を最期の戦い

と心に決め、白髪を黒く染めながら、潔く散っていったのでした。

後年、奥の細道でこの地を訪れた松尾芭蕉は、斎藤実盛がかぶっていた甲を見て、

こう詠みました。

「むざんやな 甲の下の きりぎりす」

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