隊員NO.7ゆっこで~す
寿永2年6月1日(西暦1183年6月22日)に行われた加賀の源平合戦
「篠原の戦い」では、平氏方の老武士・斎藤実盛が源氏方・木曽義仲軍の武将・
手塚太郎光盛の刀により、「あっぱれ」な最期を遂げました。ちなみに、
手塚太郎光盛の御子孫にあたるのが、昭和を代表する漫画家・あの『鉄腕アトム』
の手塚治虫先生だそうです。
この「篠原の戦い」における斎藤実盛のいでたちは、赤地錦の直垂(ひたたれ)、
黒糸威しの兜(かぶと)に着飾られ、大将かと思えば部下も持たず、一介の武士かと
思えば大将軍のような姿で、相手をした手塚太郎光盛はとても不思議がったそうです。
実は、このとき斎藤実盛が身につけていた兜はかつての主君・源義朝より保元の乱
での軍功により拝領した「八幡大菩薩」の神号が浮かびあがる品であり、また直垂は、
その時に仕えていた平宗盛(清盛の子)から着用を許された金や銀の糸で模様が描かれた
絹の織物だったのです。特にこの直垂は、実盛が関東武士ではあるものの、生まれが
越前国南井郷(いまの福井県丸岡町)であったことから、「故郷に錦を飾る」ため、宗盛が
特別に着用を許したものです。そして実盛自身は「武士としての最期を飾る」ための
死に装束として身につけていたのでした。
最期までけっして名前を名乗らなかった不思議な武将・斎藤実盛の首を取った
手塚太郎光盛は、木曾義仲の幼なじみ・樋口次郎兼光(斎藤実盛から幼い木曽義仲の
養育を頼まれた中原兼遠の子)とともに、首実検をし、首を近くの池で洗ってみました。
すると、たちまちその髪は白髪になり、「これは間違いなく、斎藤実盛の首である」と知った
二人は、木曽義仲にそのことを告げました。「自分は命の恩人だ」と名乗れば、決して
切られることのなかった斎藤実盛の首をながめ、木曽義仲はさめざめと涙を流しました。
武士らしい最期を遂げた斎藤実盛は、今なお「篠原の戦い」があった地元加賀市の
人々から、畏敬の念を持って慕われているのです。