実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

斎藤実盛・最期のいでたち

2013年11月22日 | 日記

隊員NO.7ゆっこで~す

寿永2年6月1日(西暦1183年6月22日)に行われた加賀の源平合戦

篠原の戦い」では、平氏方の老武士・斎藤実盛が源氏方・木曽義仲軍の武将・

手塚太郎光盛の刀により、「あっぱれ」な最期を遂げました。ちなみに、

手塚太郎光盛の御子孫にあたるのが、昭和を代表する漫画家・あの『鉄腕アトム』

の手塚治虫先生だそうです。

この篠原の戦い」における斎藤実盛のいでたちは、赤地錦の直垂(ひたたれ)、

黒糸威しの兜(かぶと)に着飾られ、大将かと思えば部下も持たず、一介の武士かと

思えば大将軍のような姿で、相手をした手塚太郎光盛はとても不思議がったそうです。

実は、このとき斎藤実盛が身につけていた兜はかつての主君・源義朝より保元の乱

での軍功により拝領した「八幡大菩薩」の神号が浮かびあがる品であり、また直垂は、

その時に仕えていた平宗盛(清盛の子)から着用を許された金や銀の糸で模様が描かれた

絹の織物だったのです。特にこの直垂は、実盛が関東武士ではあるものの、生まれが

越前国南井郷(いまの福井県丸岡町)であったことから、「故郷に錦を飾る」ため、宗盛が

特別に着用を許したものです。そして実盛自身は「武士としての最期を飾る」ための

死に装束として身につけていたのでした

最期までけっして名前を名乗らなかった不思議な武将・斎藤実盛の首を取った

手塚太郎光盛は、木曾義仲の幼なじみ・樋口次郎兼光(斎藤実盛から幼い木曽義仲の

養育を頼まれた中原兼遠の子)とともに、首実検をし、首を近くの池で洗ってみました。

すると、たちまちその髪は白髪になり、「これは間違いなく、斎藤実盛の首である」と知った

二人は、木曽義仲にそのことを告げました。「自分は命の恩人だ」と名乗れば、決して

切られることのなかった斎藤実盛の首をながめ、木曽義仲はさめざめと涙を流しました。

武士らしい最期を遂げた斎藤実盛は、今なお「篠原の戦い」があった地元加賀市の

人々から、畏敬の念を持って慕われているのです。

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