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その2-2では事件直後、消防隊発表の複数犯行説と、警察発表の放火実行犯逮捕と、二つに分かれていたのだが、その事情を深く知っている立場の者が次々と消されていく人々を追う。
5月3日のブログで、国会炎上の日に、相反する2つの見解が示されていたことを記したのだが、もう一度再掲する。
国会炎上 事件当日警察の発表
消化活動がまだ行われている間に、警察から現場の記者団に発表があった。夜9時過ぎ、国会議事堂内で上半身裸の男を逮捕、名はマリヌス・ファン・ルッペという、オランダ共産党員で、放火を自供し、動機は「国際資本主義への復讐」であり、「放火は、まさに革命への狼煙」だと申し立てた。自分の単独行動と主張。」 本文15p
ベルリン消防隊総監ワルター・ゲムプの発表 (ヒトラー、ナチスが引き上げた深夜、国会前の記者団に発表した)
検証結果の発表 国会事務局長の、ガレーも立ち会ったらしい。
ゲムプ総監の記者団とのインタビューでは次のようなはっきりとした発表があったという。
「厳正な専門技術的検証によって、
液体燃料撒布の痕跡二十数ヶ所が確認されたこと、
これから察すると相当量の燃料が持ち込まれたに相違ないこと
単独犯では、すべての犯行が到底不可能であること
どうしても複数人による分担犯行とみるほかないことなどを断言した」 (本文15p)
ベルリン消防総監 ワルター・ゲムプの抹殺
ワルター・ゲンプ 長年首都ベルリンの消防を統帥してきた消防総監。大統領表彰も受けたことのある、当時現役の55歳
国会炎上事件でベルリン消防隊を指揮し最後まで消火・現場検証をおこない、、ヒトラー・ナチスが、退去した後、国会周辺に残る記者団に、当日の検証結果によると複数犯である証拠があると発表した人物。
国会炎上の翌日に早速国会炎上についての閣議がひらかれた。閣議でのゲーリンクの報告も、消防隊の一足先んじた検証結果を無視することことができなくなった。
その結果、現役のドイツ共産党議員団長トルクラーほか、ブルガリア人共産主義者3人を放火容疑で追加逮捕し、起訴にまで持ち込み、複数犯の犯行に数あわせをするのである。
ベルリン消防総監 ワルター・ゲムプ は3月1日(事件から2日目)のナチ党新聞(フォエル・キッシャー・ベオバハター 民族的監視者)で、評論家のウルフ・ブライトの接見に応じて当日の現場検証の様子を答えている。
四宮がこの貴重な資料である接見記を訳載している。
ワルター・ゲムプのことば
「そうですね、リニエン通りの側から、飛び込んだ第一隊が、もう食堂で、二つの火群を見つけました。その連中が、そこを離れようとしたとき、隊長は、さらに第三の火群が、発生したという声を聞きました。回廊では、ひとつの安楽椅子にくっつけて蝋燭が置かれていましたが、むろん椅子とそれの接した腰板を燃やすためでしょう。議場に通じる控室では、床にベンジンが、撒かれていましたし、点火具や、炭素点火具もありました。だからそこには、たくさんの火群が目につきました。・・・・・・・」 『国会炎上』 (108p)
複数犯人の存在をゲンプははっきりと「ナチ党新聞の取材で」 明言していたのである。
これには、当然のごとくヒトラー政権は、隠蔽のため以下のように徹底的弾圧で対応してくる。
1933年3月末(火災から約1月後) ベルリン市所管プロイセン全権委員(ナチ)ユリウス・リッペルトにより、理由なく休職を命じられる。
1933年4月12日、25日ストラスブールの新聞「共和国」と「ザールブリュッケン国民の声」
「ゲンプが消防隊内で口にしたとされる噂内容を掲載。それには、当夜消防隊が踏み込んだとき、まだ議事堂内にSAの協力な一分隊の姿を見たということ、ゲーリンクの命令によって、消防隊の出動が、故意に遅延させられたこと、また国会内には大量の放火材料が持ち込まれていたことまで触れ及んでいた。」 『国会炎上』 (110p)
この新聞記事が出た数日後
1933年4月末ワルター・ゲンプ ベルリン消防総監罷免
1933年6月中旬 ナチ新聞にゲムプ発言の取り消し記事掲載
1933年10月14日 国会火災事件の最高裁でのゲムプの証言
「
検事 およそ、燃料らしいものを、あなたは何か見かけませんでしたか。
ゲムプ 別にこれといって何も・・・・ただロビーの安楽椅子の下に、炬火(たいまつ)が一つ置かれていましたし、さらに参議院の控え室に液体燃料の痕跡がありました・。
検事 ビスマルクの間(ま)でも、絨毯の上に何か半円形の跡が見られたはずですが、聞くところによると、それをあなたは、液体燃料の注がれた跡だと認定された、ということですが?
ゲムプ その通りです。匂いからしますと、どうもベンジンかベンゾールではなかったかと思います。
検事 さっきあなたの言った安楽椅子の下の炬火は、消防隊のものではなかったのですか。
ゲムプ さようなことは、絶対にありません。 」 フランクフルター・ツァイトゥング紙 1933年10月15日付
四宮 『国会炎上』 (112p)
四宮によれば、この最高裁での審問では、このすぐ後、「国会内で、二つの警報機が、一機も稼働していなかったのは、どうもおかしなことだったと」 と一言付け足していたのだった。 (同著112p)
このあと、ゲムプはドイツ消防界の疑獄事件に引きずり込まれ、巨額の賄賂を着服したとされ、長い取り調べの後
1937年未決拘置所に 収監される。
1937年9月27日~1938年7月1日 123回にわたるベルリン地方裁判所審理・判決で、2年の懲役、3年の公民権停止
ただちに一審の判決を不服として控訴。
控訴審のはじまる直前の
1939年5日 ゲムプ 「絞首死体で発見される」
公的発表は「異論の余地なく確証される自殺」 とされているが、真相は監房の中なので、わからない。
判決を不服として控訴審がはじまる直前に死を選ぶだろうか。
本来であれば、国会火災後、真っ先に消火にあたり、現場検証していたベルリン消防総監ゲムプは当然原因を究明する国会の火災調査委員会から指名を受けるべき人物であったが、委員から排除され、休職させられ、汚職疑獄の中で、人格破壊されていくのである。じわじわと締め上げていくナチス・ヒトラーの恐怖の描写は、本当に恐い。しかし最後まで、ゲムプはベルリン消防総監として、複数による放火の証言を撤回することはなかった。
国会事務総長、ラインホールト・ガレー 罷免。国会火災の夜に、ゲムプと一緒に現場での記者会見に立ち会っていた人物。
続く
次回は国会事務総長ラインホールト・ガレーが、パウル・ロェーベに、火災の夜のことを話したことを(恐怖のためか)全部なかったことにしてくれと懇願された 元ドイツ国会議長 パウル・ロェーベ の 戦後の回顧談のこと