早過ぎるもので、今年も残すところ1週間である。
全くピンと来ないが、明日はクリスマスイブらしい。
相変わらずワケの判らない1年間ではあったが、年々難しさは増すばかり。
しかも何が難しいのか?判らないことばかりがドンドン増してくる。
… 昔の人もそうだったのだろうか。。
やはり、他者に好き勝手なことばかり無理強いする国家の気質が故か。
決してそうではないと願いつつ、初めて知覧特攻平和会館を訪ねた。
昨今の日韓関係。
両国政府共に、物事の本質を何処まで掘り下げて考えられているのか?
そこをミスリードしてしまうと、また元に戻りそうな気がしてならぬ。
異なる複数価値観の中で、然しながら、結果だけが変わらずにある。
以前、広島平和記念資料館で受けた一番の違和感は南京事件の説明だ。
それ以前、摩文仁の丘での強烈な違和感は韓国人慰霊塔の大きさである。
後者に関しては、韓ドラを見るようになって後、気付いたことがある。
凡そ百年チョイ前、日韓併合の後、朝鮮総督府は戸籍制度を導入した。
ヒョジュ嬢『同伊』から学んだこと。あれだけ両班に虐げられてなければ、
「劍契」という集団自体生まれてなかったはずだ。伊藤博文暗殺の背景に、
身分差別の撤廃、教育機会均等化に対する両班の反発は想像に容易い。
ドラマを見れば、誰もが自国の事情を理解出来るにも拘わらず、そして、
恣意的に慰霊の矛先を他所に向かわせんとする趣向が余りにもナンセンス。
但し、それらと同質の抵抗感は終戦地の洞窟にも向かう。
「何故、あそこまで引っ張った?」
… 正直、何度考えても、常にここに問いは戻る。
様々な価値観はあって然り。だが、両所に置く慰霊の気持ちと全く異なる。
知覧に並べられた若き英霊達の歴史は、言葉に言い表せる類を超えていた。
どうしても消え行く必要があったならば、本当にそうならば、先に爺婆だ。
それでよく隣国を批判出来るものだ。
平和な世を願い、祈り、今息をする全ての未来の為に、共に闘ってくれた。
本質的に『ありがとう』以外、他に何があるのだろうか。