岩田家のガラス芸術 BLOG 岩田の事

炎の贈り物 藤七・久利・糸子が織りなす岩田家のガラス芸術

鎌倉展によせて 4 前田青邨先生 荻江露友先生

2021-11-12 22:23:06 | 岩田の仕事
「岩田色ガラスの世界」展が神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催によせて、
鎌倉ゆかりの思い出をご伝えしたいと思います。

4 前田青邨先生 荻江露友先生

  鎌倉在住の前田青邨先生、荻江露友先生ご夫妻とも色々な角度での親交がありました。
  藤七の意向で5歳から日本舞踊のお稽古を始めた私が初代吾妻徳穂に一から教わったのが荻江節「松竹梅」の「松」と「梅」。
  1964年歌舞伎座で踊りました時、扇は前田青邨先生の画、唄は荻江露友先生でした。「竹」は坂東鶴之助(中村富十郎)師が踊りました。
               
       
       
         今はこの紅白梅図扇 があります
        


           荻江  「松」 岩田まり          「竹」 坂東鶴之助(中村富十郎)      「梅」 岩田まり

                   当日 歌舞伎座表看板 1964年3月29日三升十年の会
       
                    小唄家元 三升延さん(石井寛夫人)十周年の会

 

  小倉遊亀先生は前出の武原はんさんを描いておられます。また小倉先生は露友先生に荻江を習われていて、国立演芸場での
  荻江節の演奏会で先生のお唄を拝聴したこともありました。

鎌倉展によせて 3 大佛次郎先生 川端康成先生

2021-11-11 09:00:00 | 鑑定・修理など
「岩田色ガラスの世界」展が神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催によせて、
鎌倉ゆかりの思い出をご伝えしたいと思います。

3 大佛次郎先生 川端康成先生
  鎌倉在住だった大佛次郎先生、川端康成先生と藤七は親交があり、鎌倉のお宅へは度々伺っていました。
  

 ・大佛先生はジャンルを越えて芸術文化に明るく、私も祖父に連れらて行った色々な行事でお目にかかりました。
               参照 ブログ記事 2012年2月8日 藤七への言葉 大佛次郎「日本的独創」

   
   1967年頃。舞踊家・武原はんの料亭、六本木「はん居」での、初午の会にて。
   真中和服女性が武原はん、その左が大佛次郎、右が藤七。
   左側後姿左が岩田マリ(藤七孫)、右が岩田邦子(藤七妻)。

    大佛先生と イワタルリ(姉)・岩田マリ




 ・川端先生は先生は静かで優しそうな方で、賑やかな場所にはあまりお出にならなかったようですが、
  軽井沢の書店では良くお見かけしました。
               参照 ブログ記事 2021年11月10日 藤七への言葉 川端康成 「火中蓮」
   
  藤七のため私の日本舞踊は見て下さり、「鏡獅子」を9歳で踊った折にこの書をご褒美に頂戴しました。
         

川端康成 藤七への言葉 「火中蓮」

2021-11-10 23:00:00 | 藤七への言葉
川端康成と親交篤かった藤七は、日本の文化に分野を越えて造詣深い氏を
大変尊敬しており、しばしば鎌倉の家を訪れていました。

1972年5月に講談社から発行された「ガラスの芸術岩田藤七作品集」には、
同年4月に逝去した川端康成からの手紙を序文に引用しています。


序にかえて
 
火中蓮は
奇なる哉火中蓮華生ずとの佛語 出典はちょっと忘れました あるはずの
ない事 あるひはあり得べからざる事が生じる つまり奇蹟かと解せられ 
やきものガラスなどにも通ふところある言葉と思へない事もなさそうです 
一休には(二人比丘尼)次のやうに用ゐた例もあります
男はおとこのまま 女は女のままにて此身をも この心をもこれなきこと
を知りて五慾のなかにてのぞむ所なく修行するを 火中の蓮華にたとえて 
善男善女人と佛はこれをほめたまふ    九月十五日    川端康成
岩田藤七様


 四月十六日、夜来の雨晴れ、この春荒れ多し。晴れ間をみて鎌倉近代美
術館に、不思議な画家、ブリューゲルの版画を見る。皮肉といわんか、現
代を諷す。大佛邸に立寄る。今日は流鏑馬の日なるにより、雑踏甚しく、
面会日でないゆえに、川端邸訪問を遠慮す。
 七里ヵ浜にはや裸体の子供たちとマリーナを望む。土方、狩野両先生を
訪ね、夜十時帰る。臨時ニュースで川端先生の自殺のことを聞いた。
七里ヵ浜に立った時が、昇天の時とは思わなかった。私自身にとっても用
もなくなり、きたない身体で恥多き老醜よりは、死もまた愉しい。
 十七日、講談社の松井氏より文藝春秋の四十七年二月、創刊五十年記念
号に川端先生の「夢幻の如くなり」の文章がのっていることを聞く。先生
の遺書ともいえる内容のものである。その最後に「火中の蓮華」の章があ
り、つぎの文章がのっている。

 友みないのちはすでにほろびたり
 われの生くるは火中の蓮華
「火中に蓮華」という仏語を、私のいのちにたとえるのは少し勿体なくて、
いずれは天罰を受けるであろうかと思う。

 川端康成先生の冥福を祈る。
  昭和四十七年四月十七日
                             岩田藤七
 

鎌倉展によせて 2 弦田平八郎様 弦田康子様

2021-11-09 07:00:00 | お知らせ
「岩田色ガラスの世界」展が神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催によせて、
鎌倉ゆかりの思い出をご伝えしたいと思います。

2 弦田平八郎様 弦田康子様

・1974年神奈川県立近代美術館で開催された「日本のガラス展」は、
 1972年に創設された「日本ガラス工芸協会」最初の展覧会として意義深いものでした。
 この会はガラスに携わる作家・クラフトマン・デザイナーによる日本で初めての集まりです。
 ガラスはその困難で多様な製造上の特性から、他の素材のように一人の作家としての活動が少なく、
 仕事のジャンルを越えてこのようなユニークな団体が生まれました。
 その最初の展覧会は古代から現代までと称し、貴重な歴史的作品から当時の新しい作品までの展観で、
 日本のガラスを深く広く紹介する画期的な内容でした。
 
               
                                   1974年「日本のガラス展」図録

 当時の土方定一館長のご支援も勿論、主任学芸員でいらした弦田平八郎様には展覧会の実行の中心として
 ご尽力、推進して頂き開催の運びとなりました。 
 その後館長となられた弦田様には岩田の展覧会など折々ご覧頂き、1982年には岩田久利作品集
 「岩田久利ガラスの世界」の編者としてその深いガラスへのご造詣に溢れたお言葉の数々を頂戴しました。
  



・この額は弦田平八郎様の奥様、書道家の弦田康子様の作品、与謝野晶子「藤七賛歌」です。 
                    参照 ブログ記事 2009年11月18日 藤七への言葉 与謝野晶子「藤七賛歌」
            

   

   私の部屋に掛けておりますが、晶子の力強く美しい詞が弦田様の書の勢いと重なり、
   魅惑的な硝子を彷彿とさせるこの作品に日々癒され、かつ心躍る思いでございます。

    

  
   弦田康子様も古くからご親交頂き、母糸子が参加していた「いけばなインターナショナル」という団体の
   第二回世界大会の折、日本文化のイベントとして弦田様に舞台上で書を書いて頂き、その前で私が
   日本舞踊を踊るという趣向がありました。(1970年)

        背面 書 弦田康子筆   立方 吾妻マリ(岩田マリ)

   弦田平八郎様は2001年に亡くなられましたが、今もそのお優しいお声と笑顔が思い出されます。
   康子様には今も色々なお話を聞かせて頂き変わらぬご厚志を賜っております。お声を聴くと勇気が出ます。