糸崎公朗ブログ1・路上ネイチャー協会

写真家・糸崎公朗のブログです。『子供の科学』と『デジカメWatch』で連載をしています。

万能感と共同作業

2012年05月03日 | 芸術・哲学・宗教・科学
自分一人で悩みを抱え込んでも、何も解決できずに悩み続けるだけである。
同じように、自分一人で仕事を抱え込んでも、はかどらないまま何もできずに終わってしまう。

自分の悩みは共同体の中でしか解決し得ないし、自分の仕事は共同体の中でしか遂行し得ない。
自分の事は他人の為だと思い、他人の事は自分の為だと思えば、どんな作業も捗る。
それが共同作業の、本来の利点だと言えるだろう。

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想像界と大霊界

2012年05月03日 | 芸術・哲学・宗教・科学
《象徴界》の精神とは、良識、正義、道理、道徳、などに従う「正気」の精神だが、ふと油断すると《想像界》の精神に引き込まれることがある。
つまり《想像界》とは「引き込まれる場」なのであり、それは霊界や魑魅魍魎の世界が《想像界》の産物であることと符合する。
というよりも、《想像界》とは単に霊界や魑魅魍魎の世界だった、と言えるかも知れない。
つまり《象徴界》を欠いた、《想像界》の精神だけに生きる人は、生きながらにして霊界や魑魅魍魎の世界に取り込まれているのだ。

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《象徴界》の言語と《想像界》の言語

2012年04月29日 | 芸術・哲学・宗教・科学

2012/4/3~4/15にTAP Galleryで開催した個展『反ー反写真』を観た友人が、後日ぼくのことを心配してくださって、メールを送ってくれました。
その後、長めのメールのやりとりになり、ぼくとしてはずいぶん考えが進んだので、自分が返信したぶんだけ掲載してみます。
が、記事としては長くなり過ぎましたので、本文は「Read More」で表示されるよう設定しました。
リンク先は旧「反省芸術ブログ3」ですが、こういう使い分けの仕方を試してみます。
ちなみに、gooブログは「続きを読む」の設定ができないのです。
きわどい内容が含まれるため、名前は伏せ字にした他、内容も一部改変しました。

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小乗仏教と個人主義

2012年04月28日 | 芸術・哲学・宗教・科学
◆仏教の「大乗」に対し「小乗」というのは本来は蔑称なのだが、それでも尚ぼくは「小乗仏教」の呼び名が好きである。
というのは初期仏教は徹底した「個人主義」で、ぼくもまた個人主義だから。
最古の仏典『ブッダのことば』には、徹底して厳しく「自分」に向き合う法が説かれている。
「個人主義」と「自分勝手」は異なる。
個人主義は、徹底して「個人」にこだわり、ゆえに個人の成分が数多の「他人」で出来ていることを見極める。
個人主義を気取りながら「個人の中の他人」を自覚できない者は、無自覚に他人に頼って迷惑をかけるので、周囲から「自分勝手」と言われる。

◆生きた人間が息を吸ったり吐いたり呼吸するように、人間が生命を吸ってこの世に生まれ、生命を吐き出して老いて死に、再び生命を吸って生まれ変わる、というサイクルがとてつもなく苦痛で、二度と生命を吸って生き返らず、二度とこの世の空気を吸わないようにする方法を考えたのが、仏教だと言える。
つまり充実して目覚めた人は、眠ったり起きたりというサイクルを否定した「永遠の目覚め」を望み、更にそれを超えて充実して目覚めた人は、死んだり生まれ変わったりというサイクルを否定した「永遠の目覚め」を望む。
充実して目覚めた人は、眠らなくてはいけないことを惜しいと考える。しかし眠ってしまえば楽しい夢を見て、そのまま目覚めないことを願う。だが再び目覚めて充実した現実に触れると、何の実態のない夢の世界はくだらないと考える。

◆《象徴界》の精神の持ち主は「あるがまま」を見ようとする。
なぜなら「あるがまま」は《象徴界》との対比によって《想像界》として対象化されるから。
《想像界》だけの精神の持ち主は、《象徴界》を持たないが故に《想像界》を対象化できず、「あるがまま」を見ることもできない。
判断に迷った時、《象徴界》の精神に従えば、決して間違うことがない。
なぜならあらゆる事柄を「喩え話」と捉える限り、どのような判断であっても「間違い」と言うことにはならないからである。
《想像界》の精神の中で「救われたい!」と望んでいる人に対し、《象徴界》的に介入し、救いの手を差し伸べることは、徒労であるが故に倫理に反する。

◆喩え話が理解できない人に、喩え話の必要性を理解してもらうことは出来ない。

◆バカを恨むと消耗するだけだが、バカを分析することは自分の糧になる。
よって、バカは恨みの対象ではなく、感謝の対象としなければならない。

◆世間の人の多くはTwitterの自動投稿BOTと同じで、決まった内容の投稿をランダムに繰り返し、こちらが話しかけてもまともな返答は返ってこない。

◆大人の言う事を間に受けて「ガリ勉」だった子供は、大人になっても「喩え」が理解できず、世間的価値観を間に受けて、学校の成績を上げる感覚で出世して偉くなり、地位や名誉や利権を「点数」と見なしてしがみ付く。
子供の頃優等生だった人は、その価値観に縛られて、社会人になってからも、《世界》そのものを「学校のようなもの」として捉える。学校は基本的に不測の事態が起こり得ない閉鎖空間であり、そのような感覚で《世界》を捉えるエリートは、「想定外」の事態に対応できない。

◆《想像界》だけの精神の持ち主は、銭や権力や愛情や真心や真実など、何でも「実体」と思い込みそれらに振り回される。《象徴界》の精神の持ち主は、銭や権力や愛情や真心や真実など、何でも「喩え」と捉えその裏の真実を見ようとする。

◆「喩え話が通じない人」といかにして通じるか?
最古の仏典『ブッダのことば』には「そのような人間との交わりは絶つべきである」と説かれてるが、実際にはそのようなわけにいかない場合も多く、この教え自体を「喩え」と捉え、その真意を見極めなければならない。

喩え話としての『ブッダのことば』を理解するには、それだけを読んでもダメで、大乗経典が良い副読本になる。
例えば『法華経』によると、喩え話が通じない人に「本当の事」を教えても絶望的に理解され得ないので、一切の真実を伝える必要はない、と説いている。

「喩え話が通じない人」は、こちらが謙遜すればそれを文字通りに受け取って蔑み、ありのままを伝えてもそれを文字通りに受け取って蔑む。
そして、嘘と虚飾とで騙る人を尊敬する。

「喩え話が通じない人」は「この世の真理は喩えである」という真理が理解できず、だからこそ彼らの素朴な感覚に合わせ、「実態としての真理」がいかに素晴らしいかを大袈裟すぎるくらいの嘘で塗り固めて説明すると、ちょうどいい塩梅に尊敬され感謝され、それが『法華経』という経典なのである。

◆動物はどの種類もみな純粋無垢で可愛らしく、人間の子供も動物と同じく純粋無垢で可愛らしい。
だが子供はどこかで道を外して「世間の人」となり、道を外さなかった者が「世間から外れた人」となり、世間から後ろ指を指されるようになる。

八重洲ブックセンター『フクシマアートは可能か?』報告と動画配信

2012年04月21日 | 芸術・哲学・宗教・科学

2011年4月20日に、八重洲ブックセンターで行われたイベント『フクシマアートは可能か?』ですが、一日展はこんなふうになりました。


お客さんは作品の間に座っていただきました。


ぼくもゲストとして頑張ってしゃべりましたw
講演の様子は、下記アドレスで動画配信されてます。
http://www.ustream.tv/recorded/21984699

批判されると嬉しくなるw

2012年04月13日 | 芸術・哲学・宗教・科学
某友人に、と電話で話してたら「最近の糸崎さんの作品は微妙で、作家として迷走している」「モノクロ写真もさることながら、ガイガーカウンターのグラフを重ねた写真も、表現とは言えない」という批判を受けて、大変嬉しくなった。
この批判は(ぼくが同席してない)さる飲み会で、みんなも口にしてたそうで「糸崎さんに対し同じように思ってる人は、少なからずいるはず。」と電話の友人は語っていた。
まぁ彼も、飲み会の席の人達も、ぼくがこの程度の批判に怒ったり傷付いたりしない事を了解し、その意味で信頼関係ができている。

これに限らず、ぼくは自分の作品に対し、批判や悪口を言われると非常に嬉しくなってしまう。
と言ってもぼくは別にマゾではなく、褒められるのも同じくらい大好きだw
ぼくは褒められたり貶されたりする為に作品を作るのであり、更に他人の評価は関係なく、自分の使命感において表現行為を行う。

特にガイガーカウンターの作品については、まず使命感が先に立ち、人の評価は二の次で制作している。
そもそもガイガーカウンターでの測定は、まず自分の不安解消の為に行い、さらにその不安を共有する人々の為に、データをブログで公表すると言う使命感においてなされたものだ。

しかし作品を見る人にとって、ぼくの勝手な使命感など無関係で「ガイガーカウンターの作品は数値であって表現ではない」とか「測定は大事だとしても、作品として中途半端」などと思う人がいるのは尤もな事だと思う。
だからぼくとしては、そのような正直な気持ちを語ってもらうことは大歓迎なのである。

言われてみれば尤もだと思える批判も、実際に言ってもらわなければ分からない。
一方で、ぼくのガイガーカウンターの作品を高く評価してくれる人もいて、褒められればやはり嬉しくなる。
しかし嘘で褒められても困るし、貶すにしろ褒めるにしろ、正直な言葉をかけられるとぼくは嬉しくなるし安心する。

ただ、以上のような批判に対する態度を、誰にでも要求すべきだとまではぼくは思わない。
実際に、多くの人が他人に批判されたり貶されたくないと思っているのも確かで、そう言う人たちの気持ちは、ぼくは尊重するつもりでいる。
だから自分が批判されても、単純に批判し返す事はせず「人を見て法を説く」に倣い、批判に耐えうる人しか批判しないのが、最近のぼくのルールになっている。

現実と写真(前編)

2012年04月09日 | 芸術・哲学・宗教・科学
TAPギャラリーでの個展会場で4/6に行なわれたギャラリートーク『写真とは何か?とは何か?』を終えて書いたtwitterをまとめた記事。
途中での対談相手の山方伸さんから「自分が言ったこととちょっと違う」というようなご指摘tweetがありましたが、長い記事を訂正しながら書き直すのは大変だし、まぁ大意は同じだろうと判断して、そのまま掲載することにしました。
といっても長いので2分割します。



4/6に行なわれたTAPギャラリーでの対談で、ゲストの山方伸さんと「現実と写真のズレ」の話になった。
写真は文字通り捉えると、真実を写し取ったものだ。
しかし実際は現実と、その場を写した写真との間には、必ず何らかのズレがある。

山方さんが言うには、現実として見て「面白い」と思える風景が、必ずしも写真として見て「面白い」と思える風景」であるとは限らない。
だから現実として見た面白さに惑わされると、写真として見た面白さを見誤ってしまう。

現実として見た風景は、目で見るだけでなく、風や香りを感じ、またその場を歩き回るなどして、五感を総動員ながらその「面白さ」を感知する。
しかし写真には風か吹かず香りもなく立体でもない。
写真の「面白さ」は平面上の視覚情報に圧縮もしくは還元される。
山方さんはそこを意識して写真を撮る。

山方伸さんは、現実として「面白い」と思える風景は、写真には撮らない、と言う。
なぜならその風景の面白さは、写真として見た面白さとは別物だからだ。
だからあくまで写真として表現した時の効果を考慮して、撮影すべき風景をセレクトしてると言うのだ。

一方ぼくも「現実と写真のズレ」は当然ながら意識している。
ぼくは大学卒業後、改めて写真を始めようとした時、現実として見て「良い」と思った風景が、写真にはちっとも写らない事に絶望した。
そこで写真をより現実に近づけるべく、視点移動を再現した「ツギラマ」や、立体の「フォトモ」を編み出した。

しかしもちろん写真がツギラマやフォトモになろうとも「現実そのもの」になるわけではなく、ズレが生じることには変わりない。
そしてぼくは自分が「良い」と思った現実のうち、ツギラマの表現に適した「良さ」をピックアップして撮影し、フォトモの表現に適した「良さ」をピックアップして撮影する。
そして『反ー反写真』では、自分が「良い」と思った現実のうち、「写真表現」に適した「良さ」をピックアップして撮影している。
ぼくは最初に体験した「写真の写らなさ」を改めて受け入れる事で、「自分には普通の意味での良い写真は撮れない」という思い込みを克服したのだ。

しかし、山方さんが考える「現実と写真のズレ」と、ぼくが考える「現実と写真のズレ」は、同じようでいて実のところ根本的にズレがある。
これは何がきっかけなのかは思い出せないのだが、対談してるうちに「あっ、そうだったのか!」と突然気づいたのだ。

山方さんとぼくとで共通しているのは「写真はバーチャルリアリティだ」と言う認識だ。
しかし山方さんは、現実についてはそれがバーチャルリアリティだと認識していない。
もちろん仮想現実としての写真に対し、文字通りに現実がある、と思うのは常識的感覚だ。
そこから「現実 : 写真」の対立思考が生じる。

ぼくは、実は現実もバーチャルリアリティだと思っている。
言葉の定義としてはおかしいが、改めて考えると、人間にとって現実は「五感」を通して認識される。
だから人間にとっての「現実」とは、五感が生み出したバーチャルリアリティに過ぎない。
そして「五感の外」にある「本当の現実」を認識できない。

人間が認識する現実は「五感」を通したバーチャルリアリティに過ぎず、だから「本当の現実」は認識できず、これがラカンの言う《現実界》だ。
しかし「五感」がそのまま人間の現実認識になるかと言えば、そうではない。

例えば、人間の目に映る像は、物理的現象として見れば「光の濃淡のシミ」でしかなく、それは写真像も同じだ。
目に映る像が何であるか?
写真に何が写っているのか?
それを認識するには、実のところ「それが何であるか」をあらかじめ知識として知っている必要がある。

例えば自分が目の前の「家」を認識できるのは、「家とはどんなものか」の知識が自分に備わっているからだ。
「お金とはどんなものか」の知識のない人は、道に落ちた一万円札に気づかず通り過ぎてしまう。
だから子供は知識を養い、認識力を高める。
認識力は視力の問題ではなく、知識力がものを言う。

認識に必要なそれぞれの知識は、相互に関係し合って「知識の網の目」を形成する。
例えば「家」を知る為には「柱」「屋根」「壁」「土地」「道路」「街」など連鎖的に関係する知識を知る必要がある。
さらに知識の連鎖は「国家」「宇宙」「人間」「細胞」などどこまでも続き広大な「知識の網の目」になる。

認識に必要な「知識」とは「言葉」であり、「知識の網の目」のは「言葉の網の目」なのである。
「家」という言葉は「屋根」「部屋」「家族」「住む」「建てる」「産まれる」「死」など、あらゆる言葉と連鎖し「言葉の網の目」の構成要素となる。
そしてこれがラカンの言う《象徴界》なのである。

人間の目に映る像は、物理現象としては「光の濃淡のシミ」でしかなく、認識以前の《現実界》だ。
そこに「言葉の網の目」である《象徴界》を被せて見ると、バーチャルリアリティとしての《想像界》が認識されるようになる。

人間が素朴に「現実だ」と思っているのは、実はバーチャルリアリティとしての《想像界》でしかない。
《想像界》は、「言葉の網の目」である《象徴界》の作用によって、「認識以前の世界」である《現実界》のいわば影として、人間の認識世界に映し出される。

人間が認識する現実は「言語」の作用によるバーチャルリアリティでしかない。
この認識は「言語論的転回」と言われる現代思想の基礎である。
しかしこの理論は『般若心経』の「色即是空」「空即是色」の教えが先取りしている。
さらに最古の仏典『ブッダの言葉』は「一切のものは虚妄である」と説いている。

人間が認識する現実が虚妄にすぎないことは、古代文明時代から人類に知られていた。
しかしそのカラクリを知らない者は、素朴に「現実がある」と認識する。
また認識のカラクリを理屈として理解できても、「現実は虚妄だ」と心の底から実感できない人は、やはり感覚的には「素朴な現実」を信じている。

しかしぼくはどう言う訳か、「目の前の現実」がバーチャルリアリティであり、虚妄であるという、強い実感がある。
ぼくにとって「目の前の現実」は、あると思えば無いし、無いと思えばあるし、まさに「色即是空」「空即是色」として実感できる。

だからぼくにとって「目の前の現実」も、「現実を撮った写真」も、バーチャルリアリティという本質は同じなのだ。
そしてぼくはバーチャルリアリティのバリエーション展開として、ツギラマやフォトモやデジワイドなどの手法を思い付き、表現に取り入れる。

ぼくの写真作品は、もちろんどれもバーチャルリアリティに過ぎないが、自分のつもりとしては認識不可能な《現実界》を指し示す「矢印」の機能を持たせている。
それは実際に街を歩く時も同じで、ぼくは目に見えるバーチャルリアリティとしての《想像界》を見ながら、さらにその向こう側の《現実界》を常に意識している。
それが《非人称芸術》のコンセプトであり、それは今回の個展の『反ー反写真』にも通底している。

(以下に続く)

現実と写真(後編)

2012年04月09日 | 芸術・哲学・宗教・科学
上の記事の続きです。



と、ここまで書いて思い出したのだが、TAPギャラリーでのトークイベントで、対談相手の山方伸さんに「今回の反ー反写真を撮り始めて、現実の見方はどう変わりました?」と聞かれたのだった。

ぼくは山方さんの質問にちょっと詰まってしまったのだが、自分としてはその問題はほとんど重視してなかった。
と言うのも、ぼくにとっての「現実認識」の問題は、網膜や写真像などの「知覚」よりも、「言語」との関係としてより大きく捉えられるからである。

だからぼくとしては『反ー反写真』を撮ることよりも『般若心経』を読んだ方が、よほど大きく「現実の見方」が変わったと言えるだろう。
もちろん「写真」を撮ることで現実の見方が変わった面もあるが、それはほんの些細なことで、むしろ『般若心経』を読んでから「写真」が大きく変わる可能性が大きい。

と言うぼくの立場からすると、山方さんの「写真を撮ることで現実の見方はどう変わりました?」と言う質問には、なかなか答えられない。
と言うのも「現実」に対する互いの認識には深い溝があって、ぼくが何を言おうと共通了解は得られないだろうと、そう言う気になってしまったのだった。

山方さんとぼくとでは「写真と現実は違う」という共通認識がある。
しかし、山方さんは写真と現実は「カテゴリーが違う」と認識してる、というようにぼくには思える。
それに対してぼくは、現実と写真は違うものだが、しかし「同カテゴリー」だと認識してる…

早い話、ぼくは「現実」と《現実界》とを区別しているが、山方さんにはそれが無い。
これは単に知識や教養の問題ではなく、「世界をどう捉えるか?」という根源的な、しかも理屈を超えた感覚の問題であり、その点での相互理解は不可能なのだ。

TAPギャラリーでのトークイベントは、個展の『反ー反写真』に掛けて『写真とは何か?とは何か?』という反語的なタイトルにしたが、当初は意図してなかったものの、結果的には「写真とは何か?」以前の、その人にとっての「世界とは何か?」という問いだった。
と言うことが、トークをしているうちに分かってきた。

別の言い方をすると、ぼくは「世界とは何か?」と言う問題にこだわり(あるいは囚われ)、山方さんは「世界」や「現実」を自明のものとして捉え、その前提のもと「写真とは何か?」を考えている。
またこれとは別に「写真」を自明のものとして捉え「写真とは何か?」を問わない人も少なからずいるはずだ.

これは山方さんだけと言うより一般的なことで、「写真」の自明性を疑って「写真とは何か?」を問う人はいても、「世界」そのものの自明性を疑って「世界とは何か?」を問う人は滅多にいない。
TAPギャラリーでのトークに来てくれた他の皆さんも同様で、その点でぼくは孤独に浮いていた。

先に書いたように、これは知識や頭の良さの問題ではなく、あくまで感覚の問題で、まぁ、一般的に「世界とは何か?」にまでさかのぼって思い悩む人は、ビョーキだといえるかも知れないw
いずれにしろ人には意思疎通が不可能な領域があり、そこを踏まえて可能な範囲で意見交換する必要がある。

と言うことを踏まえると、山方さんの「写真を撮り始めて現実の見方はどう変わりました?」という質問には、「立体である現実を、脳内で冷静に平面に変換できるようになったし、肉眼の視界の中に写真の四角いフレームが見えるようになってきた」と答えられるかも知れない。

そしてまた、「現実の街並みを、ここを写真に撮ったら良さそう、というイロメガネで見るようになった」し、あるいは「写真を撮るぞ、という前提で近所の風景を見ると、これまでとは違った随分新鮮なものとして見えるようになった」とも答えられる。

ぼくはこれまで、現実を「フォトモモード」や「ツギラマモード」や「昆虫撮影モード」で見ていたが、『反-反写真』を撮るようになって、新たに「写真モード」が追加され、撮影を重ねるごとにファームウェアをアップデードして、TAPギャラリーでの個展開催までに漕ぎ着けた、と言えるだろう。

さてここで、先に示した《象徴界》の問題に戻る。
人は誰でも《象徴界》の機能を使い、「目の前の現実」であるところの《想像界》を認識する。
しかしこの認識のカラクリを、感覚的に実感として理解できない人は、自分が利用してるはずの《象徴界》そのものを、認識し対象化する事ができない。

《象徴界》が認識できない人の認識世界には、当然ながら《象徴界》は存在しない。
更に《象徴界》との比較によって存在が明らかになる《想像界》も認識する事ができない。
「目の前の現実」が《想像界》であると認識しないから、それをバーチャルリアリティとは思わず、素朴に「現実がある」と認識する。

一方、自分が使う《象徴界》を認識できる人は、その対比によってバーチャルリアリティ的な《想像界》が認識できるし、認識以前の《想像界》の存在も、暗示的に感じる事ができる。
この意味で、人間には「《想像界》の精神だけを持つ人」と、「《象徴界》の精神を持つ人」の2種類がいると言えるだろう。

似たような事を繰り返し書くが、《象徴界》の精神を持つか否かは、知能や知識では無く、感覚の問題に過ぎない。
そして人間の機能としては《想像界》の精神だけに生きる事が「正常」で「健康」なのであり、そのカラクリの《象徴界》が見えるか否かは副次的な問題に過ぎない、と言えるだろう。

そもそもラカンが《象徴界》の概念を見出したのは、精神病を治療する臨床の場であった。
《象徴界》という概念は、本来は「精神病治療のツール」であり、専門外の素人にとっては無関係の代物である。
例えるなら、《象徴界》の概念とは「外科用メス」のようなもので、そんなもの人前で振り回しても、迷惑なだけである(笑)
だからなまじ《象徴界》が見えてしまうような人は、一般的にはビョーキだと言えるかもしれない。

歴史に学ぶと、《象徴界》を説いたソクラテスもキリストも、一般の人々によって死刑になり、ブッダは他人との接触を避け出家生活を送った。
また『法華経』には《象徴界》の存在は気付いてもスルーして、大人しく《想像界》に従いなさい、と説いている。

と言うわけで、ぼくもこれからは写真家とは「写真とは何か?」について話し、カメラ好きとはカメラの話をして、「世界とは何か?」については一人でつぶやこうと思う(笑)

象徴界と世間体

2012年04月07日 | 芸術・哲学・宗教・科学
『ブッダの言葉』(岩波新書)に代表される初期仏典に描かれるブッダは、人が人としてあるための《法(ダルマ)》を説いた。
《法》から外れた人間は礼儀を知らず、義理を欠き、知性がなく、獣のように振る舞う「人でなし」とみなされる。
つまり《法》とは、都市を形成した人間が生きるために必要な《象徴界》に他ならない。

人類が家族単位や村単位で生活いてた時代、集団の構成員は誰もが顔見知りでツーカーでなぁなぁの関係が成立し、礼儀やルールなどの《象徴界》もそれほど必要なかった。
しかし人類が都市を形成すると、お互い誰だか分からず、考えや感性も様々な、多くの「他者」が一つの空間で共存するようになる。
そこでの人間関係はツーカーやなぁなぁで済ます事はできず、ルールやエチケットや責任感などの《象徴界》が不可欠となる。
それがブッダが説いた《法》だと解釈できる。
「都市を形成する文明」という、人類の新たな発展段階を迎え、ブッダは人が人としてある為の《法》即ち《象徴界》の重要性を説いたのだ。

ブッダの説いた《法》はどのようなものか?
それを知るには、実はプラトンの著書やユダヤの聖書が良い副読本になる。
実のところ、ブッダは唯一の《法》を説き、プラトンは唯一の《真理》を追求し、ユダヤの《神》は唯一絶対であり、どれも「唯一」であるがゆえに同一のものを示している。
これは何もオカルトではなく、文明段階に進化した人類に必要な《象徴界》の精神を示しているのであり、その意味で同一であり相補的なのだ。

しかしブッダがいかに《法》を説こうとも、プラトンが《真理》を説こうとも、ユダヤの《神》が力を示そうとも、多くの人々は《象徴界》を理解しない。
しかし都市に住む以上、何も無しでは済まされない。
そこで、ブッダやプラトンや聖書が示す《象徴界》を理解しない人々は、《象徴界》を表面的に模倣した《世間体》を形成する。

つまり、ぼく自身が長年なんだか分からなくて悩んでいた《世間体》とは、《象徴界》の表面的な模倣であり、まがい物だったのだ!
世間の人はブッダが説く《法》を理解せず、プラトンが説く《真理》を理解せず、ユダヤの《神》を理解せず、すなわち《象徴界》を理解せず、その表面的な模倣である《世間体》を形成する。
《世間体》では様々なルールやモラルが規定され、一見《象徴界》の様だが、実は似て非なる紛い物に過ぎないのだ。

《象徴界》を理解しない人々は、《想像界》の精神によってその表面を模倣した《世間体》を形成する。
《世間体》は一見《象徴界》に似てるが、あくまで《想像界》の産物にすぎない。
だから《象徴界》のような筋が通っておらず、気分により、都合により、集団の空気により、いかようにも移り変わったり、また元に戻ったりする。

世間体に生きる人々は、基本的には「良い人」で、親切で優しく、真心があり義理堅く、礼儀正しく節度をわきまえ、理性的で知性がある。
だが一方で、時に突如として意地悪をし、陰口を叩き、義理を欠き、礼節を失い、道理を通さず、責任逃れをし、無知無能に振る舞う。
この様な二面性は何によるのか?
《世間体》に生きる人々は一見「まともな人」の様に思えて、時にその「まともさ」にバグが生じたように、突如として「人でなし」として振るうことがあり、ビックリさせらせる。
それはつまり《世間体》と言うものが、《象徴界》の本質を理解せず表面的に模倣した《想像界》の産物である事の現れなのだ。

《象徴界》の精神を持つのが都市に暮らす文明人だとすれば、それを理解できないのは文明以前の野蛮人だと言うことも出来る。
しかしそんな野蛮人の精神の持ち主が、都市で生活する為に獲得したのが《象徴界》の代用品である《世間体》なのである。
《世間体》に生きる人は文明人のフリをしているが、ふとした拍子に野蛮人としての本性を現す。
実例を挙げると例えば3.11の原発事故での、東電や日本政府などの態度である。

ぼくは言ってみれば、子供のころから《世間体》から落ちこぼれた人間なのだが、しかし同様の人間が、必ずしも《象徴界》の精神持っているとは限らない。
《世間体》を理解せず、《象徴界》も理解せず、自分だけの《信仰》の世界に逃げ込む社会不適格者はごまんといる。
かく言うぼく自信にその傾向があり、それを自覚しつつ何とか脱しようと試みているのだ。

あるいは《象徴界》の精神を持つ人の誰もが、必ずしも《世間体》を毛嫌いしているとは限らない。
基本的に《象徴界》の精神は《世間体》と齟齬をきたすのだが、しかしその折り合いをどうつけるのか?
という精神的な格闘の末に生まれたのが『般若心経』であり、『法華経』であり、その般若波羅蜜(大乗の智慧の完成)を体得した者は、《世間体》との齟齬を超えて涼しい顔をしているのだ。

嘘と礼儀

2012年04月07日 | 芸術・哲学・宗教・科学
クエンティン・タランティーノ監督の『パルプフィクション』の冒頭、レストランで強盗の相談をするカップルの女が「あたし人殺しは嫌だなぁ」と言ってたが、ぼく自身は「人に嘘をつくのは嫌だなぁ」とつくづく思ってしまう。
その理由はぼくが「人に嘘をつかれるのが嫌」だからなのだが、そこにこだわるのは間違いだと『法華経』はハッキリと説いている。

実際、世の中は嘘がまかり通り「言論の正しさ」なんぞ大半の人は求めていない。
それでどうして「生きて」いけるのか不明だが、ぼくにとっては「言論」が「生きるための餌」なのであり、他の人々は何か他のものを「餌」に生きているのだろう。
餌が違う人に「これを食え!」と言論を差し出しても仕方ない。

ぼくは「嘘をつくのが嫌」で「嘘をつかれるのが嫌」なのだが、どっちが先なのかは不明だ。
何れにしろこの問題は、本質的に自分が「言論人」である事が関係している。
世の中に嘘がまかり通ると「言論の正しさ」が保証されず「言論」そのものが成立しない。
その状態が、ぼくには許し難く思えてしまう。

先に書いた「生きるための餌」とはコミュニケーションの事で、人間は文字通りそれ無しでは生きていけない。
そしてぼくはコミュニケーションに「言論」を求め、それ以外の多くの人は「世間話」を求める。
そして「世間」を取り繕うために「言論」を封殺し、平気で嘘をつく。

世間の人の大半は、常に他人に嘘をつき、自分にも嘘をついて欲しいと思っている。
正直者には正直に返すのが礼儀だが、嘘つきには嘘で返すのが礼儀なのである。
嘘つきに対し正直に返すと、馬鹿にされるのはまだ良い方で、かえって恨まれるから注意が必要だ。
嘘つきは「嘘の共犯者」を求めているのであり、それによって「世間」は形成されるのだ。

般若心経と想像界

2012年04月06日 | 芸術・哲学・宗教・科学
『法華経』が現在日本の状況を読み解くテキストとして使えることが判明したので、そう言えば『般若心経』はどうだろう?と思って改めて読んだら、あまりの素晴らしさに目から鱗が落ちてしまった(笑)
いや、今までも何度か目を通してたが、急に意味が分かった!と言う感じ。

『般若心経』はシンプルなテキストなだけに多様な解釈が可能だが、『法華経』と合わせて読むと、一種の大衆論として理解できる。
般若心経は「一切は空である」と説くが、この「一切」を大衆が依拠する「世間体」と解釈すると、法華経の内容とも辻褄が合って、その意味での内容がスルスルと理解できる。

般若心経の「色即是空」の「色」とは、「目に見えるだけの世界」を指し、これは文字通りラカンの言う《想像界》だと解釈できる。
そして大乗で救うべき大衆が依拠する「世間体」とは《想像界》であり「空」に過ぎないのだが、世間の人はこれを「現実」だと信じており、これがまさに「空即是色」なのである。

はじめにブッダが説いた仏教は、宗教と言うより哲学で、ラカンの言う《象徴界》の精神領域だと言える。
しかし《象徴界》の精神を目指す人は、一方で《想像界》の精神だけに生きる人々との間に摩擦を起こす。
その問題に思い悩み、真面目に向き合ったブッダの末裔が「大乗の智慧」を編み出した。

というのは自分なりの解釈だが、自分の実感とは符合している。
ぼく自身も《想像界》に偏りがちな人間だったが、そこを反省して、アーティストとして必要な《象徴会》の精神を養おうと努力すると、「世間体」の価値観と齟齬をきたしてどんどん辛くなる。
だからもう、法華経や般若心経にすがるしかないのだ(笑)

「お経」と言うと、多くの日本人はわけの分からない「呪文」と混同しているが(ぼくもそうだった)、あらためて読むと哲学的内容であることが理解できる。
そもそも近代以前は哲学と宗教は未分化で、プラトンの哲学書も宗教的要素を含んでいる。だから仏教のお経は古代の哲学書と同類なのである。

インドで書かれた仏典は、小乗も大乗も漢訳され、当時の中国にもたらされた。
しかし日本の仏教徒は、漢訳された仏典を日本語に訳さず、漢文の音読を人々に読み聞かせる。
これは正に『法華経』で説かれた、「大衆に経典の意味を伝えるのは無駄で、ありがたい呪文としておくのが彼らの為だ」と言う教えに沿っている。

そもそも『般若心経』の「般若」とは「智慧」の意味なのだが、ぼくも含めた日本人のほとんどは「怖い顔の女の面」だと思っている。
その昔「般若坊」と言う坊主が「怖い顔の女の面」を作る名人だったのが由来らしいが、日本の大衆は古来から「般若=智慧」の意味を全く取り違えて教えられてきたのだ

『般若心経』の説く「色即是空」は、現代思想である「構造主義」を先取りした含蓄のある教えなのだが、日本の仏教徒はそれを日本語に訳さず、意味のない呪文=お経として人々に読み聞かせてる。
さらに「般若=智慧」の意味を取り違えて覚えさせ、人間にとって大切な「智慧」を大衆から奪ったのだ。

こんなにも、大衆を馬鹿にした話はないと思うのですが、いかがでしょう?

DMデータの作成とモノクロ写真について

2012年03月12日 | 芸術・哲学・宗教・科学




虫の写真とはぜんぜん関係ないのですが、今日は写真展のDMの作成に掛かりきりでした。
いや実は先週からやってたのですが、慣れない作業なのでずいぶん時間が掛かってしまいました。
ぼくはイラストレーターというソフトがどうも苦手で敬遠してきたのですが、そうも言っていられないので、デザイナーの友人に集中講義を受けて、なんとかやり方の基本を覚えたのです。
で、自分のDMのデザインを初めて自分でやって、データを制作したのです。
それで昼間業者にデータを送ったのですが、「データ不備」と言うことでやり直しの指示があり、先ほど最入稿したのでした。
不備というのは、文字のアウトライン化がしてないとか、トンボがなかったりとか、モノクロ写真がカラーデータだったりとか、基本がぜんぜんなってませんでしたw

それにしても、ぼくがなぜモノクロ写真を撮るようになって、しかも個展まで開いてしまうのか?
と言うのは実のところ自分でもよく分かってませんw
そもそも自分に分からないものを、理解するために撮り始めたのがこの「反ー反写真」のシリーズなのです。
「分からない」とは実は婉曲な表現で、直接的には「嫌い」ということです。
ですからぼくは自分が嫌いなモノクロ写真の良さを理解したくて、自分でモノクロ写真を撮ることにしたのです。

ではその結果、どれだけモノクロ写真が好きになったのか?と言えば、まだよく分からないというのが、正直なところです。
よく分からないものを探求するのは哲学の領分ですが、ぼくの写真は哲学的と言えるかも知れませんw

いや有り体に言うと、普通は「自分の好きなもの」を追求するのがアーティストだと思われています。
しかし自分にも思い当たることはあるのですが、「自分の好きなもの」を追求していると、どうしてもそのうち行き詰まってしまうのです。
つまり「好きなもの」とは「良さが理解できるもの」でもあり、理解できるのだから探求心も要らないわけで、探求のない表現はけっきょくマンネリになってしまうわけです。

しかし、古代ギリシアの哲学者プラトンの本を読むと、プラトンの師であるソクラテスは、「自分の好きなもの」を横に置いてでも、ともかく「自分の分からないもの」を追求してるのです。
例えばソクラテスの好きな美少年(古代ギリシアはホモ文化でもありますw)が一緒の布団に入ってきても、「自分の分からないもの」の追求のためにそっぽを向いて指一本触れないのです。
また、最後は自分の命をも惜しむことなく、「自分の分からないもの」の追求のため、不当な死刑判決を甘んじて受け入れたのです。

それを考えると、アーティストも「アートを追求する人」であるわけで、だったら「自分の好きなもの」だけではなく、むしろ「自分の分からないもの」を追求すべき、と言うことができます。
もっとも、ぼくがモノクロ写真を撮ろうと思い立った当初は、そんなことまで考えてませんでしたが、いろいろ本など読んでから考えると、そう言うことではないかと思うのです。

そもそもぼくは虫好きを自称しており「嫌いな虫はいない」と公言する博愛主義者でもあるのですがwしかしことアートに関しては「自分の好み」にこだわって、あれが嫌いだのこれが嫌いだのとえり好みをしていて、「モノクロ写真」もその一つだったのでした。
と言うわけで、ここまで書いてふと気付いたのですが、内容が「ブログ3」みたいな長い文章になってしまいましたw
まぁ、ともかく博愛主義は世界を救うと言うことで、なんでも好き嫌いせずに食べたほうが、体も心も健全ではないかと思うわけです。

写真集「FOODCHAIN」

2009年06月17日 | 芸術・哲学・宗教・科学
ハイカロリーの山方伸さんに「糸崎さんに見てほしい、すっごい虫の写真集があるんすよぉ!」と言われ、西荻の居酒屋で見せてもらいました。
いや写真集の所有者は坂本政十賜さんで、「FOODCHAIN」と言うタイトルの洋書です。
その衝撃の内容とは・・・


トマトの皮を突き破って中からイモムシが顔を出し・・・


さらにたくさんのイモムシが群がり・・・


トマトを食いつくしてしまいます。
これに続く次のページではこのイモムシはカマキリに食われ、カマキリはタランチュラに食われ・・・と言う具合に食物連鎖が(FOODCHAIN)が表現されています。
で、実はぼくはこの写真集を数年前に渋谷のパルコブックセンターかどこかで見たことがあるのですが、確かにこのとき「衝撃」を受けてガックリきてしまいました。

と言うのも、このトマトを食い尽くすイモムシと言うシチュエーションは、どう考えても「ヤラセ」だからです。
いや、ぼくに知識がないだけなのかもしれないですが、ぼくの知る範囲ではスズメガの幼虫はトマトの実なんか食べないし、ましての中に潜り込むなんてことはあり得ないことです。

冒頭のトマトを食い尽くすイモムシのシーンが「ヤラセ」だとすれば、「FOODCHAIN」と言う写真集そのものが無意味です。
イモムシに続くほかの「食物連鎖」のシーンはそれほど不自然でもなく、ノンフィクションなのかもしれませんが、しょっぱながヤラセだと全ての写真が「無意味」になってしまいます。

この写真集は「上質なネイチャーフォト」を装ってますから、このようなヤラセはかなり「悪質」な部類に入ります。
それでヒドイことする人がいるなぁ・・・と思って衝撃を受けガックリきてしまったのです。

それであらためてこのブログの読者にお聞きしたいのですが、この「トマトを食い尽くすイモムシ」は本当にヤラセなんでしょうか?
いや、海外に生息するスズメガの幼虫にこのような習性のある種類がいるのだ、と言う事実があるなら、ぼくはスズメガに対して認識を改めなければいけませんし、山方さんにも坂本さんにも謝らなくてはいけません。

しかし自分の「感覚」を信じるなら、このようなシチュエーションは絶対にあり得ないことです。
と言うわけで、コメント欄にて皆さんのご意見お待ちしております。